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初恋は叶わない

実明が戻ってきた。

人伝に実明の帰京を聞いた三雪は、閉じ込められた御簾の中でそっと顔を伏せた。


今、三雪は橘本邸の一画にいた。

突然弘徽殿より呼び戻され、それからずっと屋敷に隠されている。

ばたばたと忙しそうに家の者は動いているが、いったいどうしてなのかは教えてもらえなかった。

その慌ただしい中、三雪は簀子を行き交う女房達が、実明が父によって追い返されたという話をしているのが耳に入った。

どうして実明を追い返すのだろう。

それだけではなくて、屋敷に戻ってきてから誰とも会わせてもらえないのだ。

父にも、他の兄弟にも、乳母にも。親しかった女房でさえ。

親しい者から徹底的に遠ざけられ、せっかく会いに来てくれた実明すらも追い返されたとあっては気分が滅入るどころか不安にもなる。


重ねた袿がいつも以上に重たく感じられて、脇息にしなだれかかる。

誰もお喋りをしてはくれないし、人はいてもこの部屋には寄り付かない。

こっそり部屋を抜け出そうにも、部屋の位置が悪く、どこに行くにも人がいる。

何も与えられず、何も聞かされず、日がな一日ただそこにいるだけ。

まるで籠の鳥のよう。

あれだけ騒がしかった弘徽殿が恋しくなる。


三雪が自分の中に閉じ籠ってしばらくすると、御簾の向こうに誰かがやって来た。

衣擦れの音に気づいて身体を起こし、ちらりと目を向ければ父と伯父だった。


大君(おおいぎみ)、どうだい、久しぶりの我が家は」

「とても落ち着きます。誰も、何も、私とお話しする暇もなく忙しそうですから」

「あはは……」


少し毒を含んで兼資に言えば、兼資は申し訳なさそうに笑う。

父の悪いところは、そうやって申し訳ない顔をしていれば許してもらえると思っているところだ。事実、三雪は仕方ないの一言で許してあげるけれど。

それよりも、兼資の隣にいる獅子のような人だ。

今は亡き母の実兄、源伊道。

竦んでしまいそうになる威圧感を被せるように、彼は三雪を見る。


「───久しぶりにお目にかかりますな、大君。いや、不香花の君」


ずしっと肩にのし掛かった重圧に三雪は唇を噛む。

三雪は伊道が嫌いだった。会う度に三雪に過度な期待を持つ。母が生きていた頃は母がそっと袿の袖に隠してくれた。

母が亡くなってからは橘と源は縁切り状態だったはずなのに、どうして父と一緒にいるの?

声を聞いただけで身体が震えそうになる。本能的に、三雪は伊道から顔を背けた。

御簾の向こうでありながらここまで届く重圧。

父に追い返してもらいたくとも、その父が連れてきた客人だ。早く帰って欲しいと願うばかり。


「ははは、顔を背けるとは恥じらっておいでか。会うのはいつぶりか、善き女になった」


三雪が顔を背けているのをどう解釈したのか。

だが三雪は反論もしないで押し黙る。

三雪は学んでいた。本来なら自分のような身分の高い女性は親しい人としか言葉を交わしてはならないと。女房を介して話すのが礼儀だと朱子から教わった。

親しい人という括りに入れるには、三雪はあまりにも伊道が苦手だ。だから三雪は何も言わない。


「不香花の君よ。善き女になったならば分かるだろう。俺が再三言い聞かせてきたことを。お前の血ほど貴いものはない。今この春原全土、千苑京で唯一、帝の血を正統に保てるのはお前のみだと」


伊道の言葉に、三雪はぴくりと肩を揺らす。そう、この人はこういう人。

己の血を何よりも誇り、その血統は帝に並び立てるほどだと豪語する。

落ちぶれた家だと陰口を言われながら、それでも(まつりごと)に返り咲いた。その自負を、他人にまで押し付ける。

しかもその矛先はいつも三雪だった。父も母も皇統の流れを組む有名氏族。その二人の間に生まれた三雪に、伊道は呪いの言葉のように会う度、口にしていた。

以前は意味がわからなかった呪いの言葉も、今では意味が分かる。

けれどその言葉、今、ここで持ち出すのは───


「帝と床につかれたと聞きましたぞ。いやはや、貴き者は貴き者に引かれる運命か。ついこの間まで幼子だと思っていたが、すっかり一皮剥けて女らしくなった」

「これ、伊道殿。そのような言い方……」

「何、事実であろう。むしろ収まるところに収まった。橘から二人も后が出るのだ。兼資殿、喜びたまえ」

「后……?」


伊道の言葉に三雪は思わず声を漏らした。

吐息のような呟きを耳聡く捉えたようで、伊道は口の端を大きく吊り上げる。


「おや、兼資殿からお聞きではないのか?」

「后って、お父様、一体何を……」

「言葉のままだ。そなたを主上の後宮に。既に入内の手配は進んでいる。なぁ、兼資殿?」


三雪は突然の話に青天の霹靂だった。

入内の話? なぜ? どうして。


「お父様、どうしてそんなことっ」

「……これが橘にとって、主上にとっても良い選択なのだ。大君、分かっておくれ」

「いいえ、いいえ、分かりません。私の婚約者は実明様ではなかったの? ずっとそう言っていたじゃないっ」


三雪は伊道の前だということも忘れ声を荒げる。

兼資の年相応な顔の皺がくしゃりと歪み、いつもは堂々としているその身体も、今は一回り小さく見えた。

その横で、横柄な態度の伊道が諭してくる。


「実明か。あれはいかん。あれはお前に相応しくない。今主上には三人の后がいらっしゃるが、弘徽殿の女御を含め三人とも世継ぎを産めていない状況。三人とも主上より年が上であるから、主上も気後れしているのだろうな。だがそこにお前が入れば、どうだ」


伊道はわずかに前のめりになって話を続ける。彼は膝に置いていた手を片方床に押し当てた。


「弘徽殿の女御に請われて居たお前の元へわざわざ夜這うほどに気に入られている。お前は古き血を今一度喚び戻さんとする、まさにこの国の一筋の希望だ」


伊道の言い様に三雪は耳を塞ぎたくなった。そんな事言われたって、自分にはぴんとこない。むしろ邪魔なくらい。

黙ってしまった三雪に、伊道はやれやれと大袈裟にため息をついた。

その様子に兼資が非難の眼差しを向けるが気にしていない様子。

それどころか三雪により一層強く説得を試みる。


「このお役目はお前にしかできないことなのだ。主上に既にお話を通したが満更でもない御様子。貴族の姫としての責務なのだ。そこらの中堅止まりの男よりは至高の帝に嫁げることを喜びたまえ。親子ともども、そろって度胸のない……」


でも、三雪には約束があるのだ。

実明の妻となる約束が。

入内より先に交わした約束があるのだから、そちらを果たすのが筋である。

そしてまた、三雪自身もそれを望んでいる。

三雪は震えそうになる身体を制して、喉の奥にわだかまっている言葉を投げ掛けた。


「でも私は実明様の妻となることを約束した身です。今さら帝に嫁ぐなど」

「何を言っている。そんな口約束なぞ関係ない。すでにお前は主上の『お手つき』に合っているのだ。事実上、もうそなたは主上の妻なのだぞ」


三雪は目を丸くする。

お手つき?

何の事かと、思い返してみて、はっと気づいた。

そういえば数日前、初めて帝とご挨拶した日の夜。

夜更けに彼の人がお忍びで訪ねてきた。

弘徽殿の女房のうちの一人がそれに気づいたようで、翌朝根掘り葉掘り朱子含めて話をさせられた。

忍んできた主上とお喋りして夜を過ごしたこと、これが俗に言う夜這いなのですねと言ったらすごく憐れんだ目で見られた。

それから朱子に「他でその事を口外しては駄目よ。むしろその言葉ごと記憶から消しなさい。それを聞いた頭中将が卒倒するわ」と言われ、ほんとうに三雪はぽんっと今の今まで忘れていたのだが……

女房たちの反応から、あれが本来の夜這いではないのかもしれないと若干思ってはいたけれど、伊道のこの言い様は、世間様的にはあれが夜這い、すなわち婚姻の儀式である三日夜通いの始まりであったのだと暗に語っている。


「そんな……それじゃ、私、なんてことを……!」


じわりと目尻から滴が溢れる。

この身は実明の妻となるのだと思って過ごしてきた。

彼なら少しくらいお転婆な自分でも笑って許してくれる。お裁縫が上手じゃなくても、歌が上手くなくても、彼はゆっくりでいいよと、三雪の苦手なことを強要したりはしなかった。

でも、それじゃ駄目だと、一大決心をして叔母のもとへ嫁入り修行に出掛けたのが間違いだったと、実明を裏切ることになるなどと誰が思っただろう。

三雪のやる気は空回りし、運命の糸があらぬところで絡まった。

三雪はもう、実明のお嫁さんにはなれないのだ。

そう思ったら、ほろほろととめどなく涙が溢れてしまって。


そんな三雪を痛わしそうに見る兼資は内心気が気でない様子で三雪と伊道に交互に視線を向ける。

伊道の言葉には若干、いや他聞に語弊があるためか、三雪は何やら誤解をしているような気がする。

本当は違うと言って安心させてやりたいが、これも橘のお家のため、引いては春原のために繋がると兼資は信じている。

つらいのは今だけで、入内してしまえばなんの不自由もない暮らしが待っているのだ。

実明には申し訳ないが、帝も関わるこのような大事の手前、身を引いてもらう他ない。


三者三様な思いのなか、伊道は自分の我を押し通す。


「不香花の君、分かったか? お前は実明に嫁ぐより先に主上の妻となってしまったのだ。正式には入内しなければ后として認められぬが、もしこれを断ればお前だけではなく、橘のお家そのものが帝のご意向に反するものと知れ」


三雪は伊道の言葉に唇を噛み締める。

厳かに告げられた言葉は、三雪を服従させるには十分すぎるほどだった。

三雪は項垂れて、弱々しくも返事をする。


「……もう、後戻りはできないと仰るのですね。主上の気まぐれといえども、私が何も考えずに主上の戯れを許したから……」

「そうだ」


全ては自分がいけないのだ。

これ以上、誰にも迷惑はかけられない。

実明も、呆れて愛想をつかれてしまったのやも。


「……父上にこれ以上のご迷惑はかけられません。お家のためと言うのなら、私は慎んでこのお話をお受けいたします」


三雪の言質を取った伊道はほくそ笑む。天は我らに味方した。

今こそ不躾に政界に入り込んできた藤原を追い詰めるとき。


兼資は頭を下げて感謝の意を表す伊道の顔をすぐ隣で見ていた。

その顔は野心を持つ男の笑み。

常に中立を保とうと心がけていた兼資にとって、それはあまりにも危ない橋を渡る人間のものに見えた。

だが兼輔には反対できる余地はない。

兼資には兼資なりの考えがあってこうやって動くことを同意したのだから。


「それでは大君、また詳しい段取りが決まったら伝えに来るからね。そうそうお前がが弘徽殿に行っていた間、暇を出していた者たちが明日には戻ってくるはずだからそれまでは寂しい思いをさせるだろうが、我慢しておくれ」

「ありがとう、お父様。それは楽しみ」


空っぽになったような、感情のない声で三雪は言葉を返す。

そのあと、心配そうな素振りを見せる兼資は何度か三雪の方を振り返りつつも、伊道とともに退出した。二人はまだしばらく段取りを決めるために話し合うらしい。


再び屋敷の喧騒から切り離された三雪は脇息にしなだれかかる。

美しい着物の着方も、化粧の仕方も、言葉遣いも教養も。

実明のために磨くつもりで弘徽殿に行ったはずなのに、手に入れられるのは帝の后という地位。

後宮には叔母もいるが、自分には重たすぎるお役目だ。

そしてまた、小さい頃から理想の相手だった実明との婚約が白紙になるのも、今の三雪の心を重たくする。

誰にも言わなかったけれど、初恋、だったから。

父の決めた婚約だったけれど、三雪にとって一番身近にいて安心できる異性は、いつだって実明だった。


お転婆だった自分をたしなめてくれた貴方。

大きくなったねと抱き上げる逞しい腕。

どこか母にも似た面持ち。

三雪、と名前を呼んでくれる涼やかな声。

そのどれもが大好きで。

幼い頃には意識していなかったけれど、弘徽殿で恋のお話を聞くたびに、そっと思い浮かぶのはいつだって彼だった。


やっと、やっとこれが恋だって気づけたのに。


……三雪はその夜一晩、声を圧し殺し、闇の中に吸い込まれるように涙を流し続けた。

後悔と悲しみを洗い流してしまえるように。


───二度と会えない恋人を思って。

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