第四話 東寺のアップデート・ターミナル
「こちらにございます」
東寺に着いた時にはまだ明るかったが、参拝の許しを待つうちに、夜の帷もすっかり下りていた。
五重塔など、巨大な建物の輪郭が俺を圧倒する。
月明かりが周囲を照らし、闇に溶けている建物をわずかに浮かび上がらせていたのだ。
ここは東寺の「講堂」前。
俺が案内されたのは、まさにその扉の前だった。
「藤原殿。真言の徒たる我らは、この時が訪れるのを、長きにわたり待ちわびておりました……」
僧の声は緊張を和らげるように柔らかい。
「去る弘仁・天長の頃、お大師様がこの講堂の立体曼荼羅を構想し、お造らせになられた折、密教の奥義を授くべき数名の者たちの中に、そなたの名を挙げておいでであった――」
俺の名前を?? 空海が知っていた?
義兄経由で摂政殿に参拝許可を頼んでもらうと、すんなり通ったのだが、そんな理由があったからなのか?
あの空海が百年も前に、このことを予言していたというのか。
背筋に冷たいものが走るのを堪えながら、俺は小さく息を吐いた。
「そして、『かの者たちがここを訪れ、仏の教えを乞うたならば、この曼荼羅の世界を余すところなく見せるべし』と言い残されたのです」
僧は静かに重々しい閂を外して扉を開ける。
ゆっくりと開かれた扉の向こうからは、香の匂いと、冷ややかな空気が混ざり合った独特な気配が漂っていた。
「さあ、恐れることはございませぬ。このような夜更けとはなりましたが、どうぞ、心ゆくまでお参りくだされ」
僧が持っていた灯りを渡してくる。
俺はそれを受け取ると、一歩ずつ慎重に中に入っていった。
格子から差し込む月明かりにより思いの外明るい。
ただ、仏像たちが配置されている場所。その明かりの届かない向こう側は、漆黒の闇に包まれていた。
そう、見えないはずなのだ。
薄らと朱色の柱は見えるが……仏像そのものは漆黒の闇に包まれている。
それなのに、その気配だけが異様なほど感じられた。
俺はゆっくり。
手に持った灯りを闇に向けた。
――ッ。
思わず息を呑む。
大日如来。
阿閦如来。
宝生如来。
阿弥陀如来。
不空成就如来。
大日如来が暗がりの中から厳かに俺を見下ろしていた。
闇の中に浮かび上がる木像は、鋭く、しかし慈悲を湛えた瞳で俺を射すくめてくる。
更に周囲から感じるのは、様々な感情を孕んだ存在感――
俺はその場から動けないまま、周囲に感じる存在感へと灯りを向けた。
金剛波羅蜜多菩薩
金剛薩埵菩薩
金剛宝菩薩
金剛法菩薩
金剛業菩薩
不動明王
金剛夜叉明王
降三世明王
軍荼利明王
大威徳明王
巨大な仏像群が立ち並ぶ光景――
頭では分かっていた。分かっていたはずなのに、その桁外れのスケールと存在感に圧倒される。
俺の持つ灯りの揺らぎは、その木像たちに命を宿らせたように息をさせていた。
静寂がまるで音のように肌を撫でた。
多聞天
梵天
持国天
広目天
帝釈天
増長天
手に持ったか細い灯りなど届かぬはずなのに、感じるのは闇に息づく存在。
確かに……俺は闇に宇宙を感じている。
そこにあるのは様々な情報の混沌なのだ。
闇という混沌が満たす空間。
その闇の奥に潜む二十一躯の仏像すべてが、この仏たち一つひとつの姿として顕現することで、秩序を得て存在しているのだ。
これが宇宙、いや世界以外になんなのであろうか。
闇という情報の混沌スープに生じた澱たち――それが、この仏像なのだ。
その仏像たちは集まる情報により姿を変える。
しかし、この多種多様な仏像たちは、元はすべて同じ一つの……。
――大日如来。
見下ろす目は、静かに、だが太陽のように俺の全てを照らしていた。
大日如来はこの混沌のスープそのものなのであろう。
そう直感した瞬間、俺の肌を撫でていた静寂が不意に消え去った。
――――――――――
――どぅぅ ぅ ぅ ん
――どぅぅ ぅん
――どぅぅ ぅ ぅ ん
――どぅぅ ぅん
「五大ニ皆響有リ。十界ニ言語ヲ具ス」
遠くで空気を揺らす大砲のような音が、鼓動のように拍動する。
[ 脳内画面:システム・アップデートログ ] ---
> 新しい阿頼耶識パーティションを検出。
> 未定義の末那識システムを検出。
> 阿頼耶識の共有領域から、ローカル末那識へのシステム複製を開始します。
>
> ――[唯識コンパイラ(末那識言語)]:正常に取得されました。
>
----------------------------------------
――どぅぅ ぅ ぅ ん
――どぅぅ ぅん
――どぅぅ ぅ ぅ ん
――どぅぅ ぅん
「六塵ハ悉ク文字ナリ。法身ハ是レ実相ナリ」
何か聞こえている気がする。
光の中を体もなく漂っている浮遊感を感じた。
[ 脳内画面:システム・アップデートログ ] ---
>
> ――[コンパニオン・インテリジェンス]:ビルドを開始します。
> ・識別名:Yui
> ・マネージャーアプリケーション「唯識」:インストール完了。
>
> ホーム画面への配置を完了しました。システムを起動します。
>
----------------------------------------
――どぅぅ ぅ ぅ ん
――どぅぅ ぅん
――どぅぅ ぅ ぅ ん
――どぅぅ ぅ
静寂が世界を支配する。
俺は冷たい石の床で目を覚ました。
――――――――――
暗闇に不快な湿り気がまとわりつく。
俺は脳内スマホの「ライト」をか細く点灯させ、おそるおそる大路を進んでいた。
このイマジナリーなスマホが発する光は他人の目には見えないらしい。家族で試してみたが誰も光を感じることができなかった。
しかしあの僧侶、優しそうに見えたが、講堂で目を覚ましたあと「夜道、どうぞお気をつけてお帰りくだされ。仏道修行に励む者が、不浄な俗人を夜通し寺内に留めるわけには参りませぬゆえ」と東寺から追い出されてしまった。
泊めてくれないんかい。
くっそ、夜の平安京に放り出されちゃったよ。
この時代の京、めちゃくちゃ賊がでてるじゃんか。そこら辺に死体転がってるし。
夜めっちゃ怖いわけよ。
もう、生きた心地がしないわけ。勘弁してほしい。
いや、寺に着いた時はまだ明るかったんだけどな……。
それに、寺に入るまであれだけ待たされたんだから泊めてくれると思うじゃん。
―――ガタッ
「―――ひっ」
何か物音が聞こえるたびにビクついてしまう。
(屋敷まで直線で約四.三キロほどです。
徒歩だと直線では進めませんので一時間ほどかかりますね)
突如、脳内でイマジナリースマホのAIであるYuiさんの声が聞こえてきた。
鼓膜を通してではなく、脳内に響く車のナビのような女性の声。
そう、あの「アップデート・ターミナル」で目が覚めたあと、スマホと会話ができるようになっていたのである。それも脳内で。
「立体曼荼羅」を見た効果なのだろうか。
俺のスマホはバージョンアップしたようなのだ。
まあ、人前でいちいちスマホを見なくてすむというのは便利だな。
他人からは見えないとはいえ、九郎とかどう思っていたのだろう?
普通、急に何もないところポチポチやりだしたら、こいつ変になったと思われるよね。危ないところだった。
ん。思われてたのか?
いやなぁ、うーーん。
……まぁいい。
変わったことといえば、そのぐらいのもので「スマホからビームが出て野盗から身を守ってくれる」とかはなさそうだ。
(そんなものとは失礼ですね。
ビームも出そうと思えば出せますが、純友様のエーテル量ではそのシステムを構築したとしても発射できません。私の問題というより純友様側の問題ですね)
―――とまあこんな感じで脳内会話できるのだが……はいはい、エーテルとかまた訳のわからない用語が出てきましたよと……。
ははーん、わかったぞ。バカを難しい言葉で煙に巻こうとしてるな。高卒の俺を、難しい専門用語で煙に巻こうとしているのがありありと伝わってくるぜ。
(エーテルとは『この物質世界と、高次元の精神世界の壁を跨いで存在する最小の素粒子』です)
ちょっと夜道の怖さを紛らわすため、テンション高く絡んでみたら、あっさり返される俺。
(東洋の医学やこの世界のオカルトで言うところの「精気」や「プラーナ」に近いものです。
このエーテルが結合してマクロ化することで、現実世界の物質や、光、電気といった物理エネルギーへと姿を変えます。
私たちのこの「脳内スマホ」や、純友様が今後使うことになるチート能力も、すべてこのエーテルを燃料にして稼働するのです)
じゃあ、画面の端っこに表示されてるバッテリーの%表記がそれってことか?
(その%表記が、現在の純友様が使用できるエーテルの貯蔵量です。そして電波アイコンは、周囲にある「霊力」の感度ですね。
本来、人間誰もが末那識という魂の領域で、精神エネルギー、すなわちアストラルエネルギーを操作しており、そのアストラルエネルギーを経由してエーテルを操作。そして体にエーテル体を構築しています)
ええ! 術!? 術っすか!
俺ってチート術が使えるの!? やった! 無双きたっ! これで勝つる!!
(あの……確かに術を使うことは可能ですが、それにはこの端末の強化や私、Yuiの学習、そして純友様自身が纏うエーテル量を増やす必要があります。
この端末はあくまで純友様の末那識で形成されたシステムを操作するために映像化しているインターフェースだと考えてください)
つ、つまり、俺がレベルアップしてバッテリーの最大容量を増やしていけば、いつかは破壊ビームとまではいかなくても、生存率を上げるための強力な術が使えるようになる、と。
(その通りです。そこで私は、純友様の端末を操作し、エーテル体を効率よく強化するための『レベルアップシステム』を構築しました。
実体化を破られた敵の離散エーテルを吸収し、ご自身の総容量を強制的に拡張するシステムです)
ええ? 敵?? 敵って何??
――ごりっ
――ごりっ
――グチャ
土壁の向こう、暗い路地の角から、鼓膜にへばりつくような不快な音が響いた。
それは、何か硬いものを、信じられないほどの怪力で噛み砕き、柔らかいものを引きちぎるような、粘り気のある生々しい音。
俺は思わず足を止め、喉を鳴らした。
――ごりっ
――ごりっ
――グチャ
暗闇の路地。土壁の前にいる、背の曲がった老婆ほどの影がその音の主だった。
泥の臭いに混ざって、鼻腔を刺すような、酷い死臭が漂ってくる。
俺は音がする方、その人影にスマホのライトを向けた。
足。
鬼。
死体。
背中が異常に湾曲し、腹だけが妊婦のように異常に膨れ上がった鬼が足を咥えて貪り食っている。
しかも、その影は一つではなかった。
照らした灯りの端には無数に蠢く影――
「――ひッ」
放置された死体の肉を貪る、餓鬼のようなものたちに、俺は悲鳴を上げそうになる。
何が平安の時代だ。
まったく平安じゃねぇ。
俺は湧き上がる吐瀉物と悲鳴を、必死で両手で口を塞いで胃の底へと押し戻す。
静寂の闇の中、餓鬼どもが「ごりっ、ごりっ」と骨を噛み砕く音だけが、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。
【第四話・用語解説】
■ 平安・仏教用語
・弘仁・天長
平安時代前期の元号。弘仁は810~824年、天長は824~834年にあたります。東寺講堂の造営が始まったのは弘仁14年(823年)で、完成・開眼供養は空海入滅後の承和6年(839年)とされています。
・立体曼荼羅
東寺講堂の本尊群のこと。正式には「羯磨曼荼羅」と呼ばれ、大日如来を中心とした五智如来・五大菩薩・五大明王・梵天・帝釈天・四天王の計二十一体の仏像によって、密教の教主・大日如来を中心とした宇宙観(曼荼羅)を立体的に表現したもの。全体の構想は空海によるものとされ、日本最古の本格的な密教彫像群として国宝に指定されています。
・声字実相義
空海が著した密教の教義書。「五大に皆響き有り、十界に言語を具す。六塵は悉く文字なり、法身は是れ実相なり」という一節は、この書の冒頭部分にあたり、宇宙のあらゆる現象(音・文字・形)そのものが仏の真理(法身)の顕れであるとする、真言密教の根本思想を説いたものです。
・阿頼耶識・末那識
仏教の唯識思想(法相宗・真言密教などが取り入れた心の分析体系)における「八識」のうち、それぞれ第八識・第七識にあたる、人間の意識よりもさらに深層にある心の領域。阿頼耶識はあらゆる経験や行為の種子(記憶)を蓄える最も根本的な識、末那識はその阿頼耶識を「自分自身」だと執着する自我意識の識とされています。
■ 登場人物/歴史人物
・空海【実在人物をもとにしたキャラクター設定】
774年に生まれ、835年に没した平安時代初期の僧。真言密教を日本に広め、東寺を密教の中心として整備した人物として知られています。823年、嵯峨天皇から東寺を賜り、講堂などの伽藍整備を進めました。東寺講堂には大日如来を中心とする二十一尊の仏像群が安置され、密教の世界を立体的に表現しています。
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※AIを文章の校正・改稿、設定整理、資料調査、アイデア検討等に活用しています。また、一部の本文にはAIが生成した文章を直接使用しています。物語・世界観・登場人物・展開等の創作および最終的な文章の判断は作者が行っています。
※本作に登場する仏教用語・哲学用語・科学用語は、実在する思想・学説・科学的知見を参考にした、作中独自の解釈です。現実の思想・学説・科学的見解を厳密に説明するものではありません。
※本作に登場する歴史上の人物・出来事は、実在の史実を題材としておりますが、人物像・人間関係・行動・出来事などに作中独自の創作・改変を含みます。史実とは異なる部分がありますので、歴史創作としてお楽しみください。




