第二十三話 天から降りる怪僧
声の主は、天から降りてきた。
偽空海が、夜空から煌々と照らす月明かりを背に受け、不動明王の慈救呪を唱えながら、ゆっくりと降りてくる。
「ノウマク サマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カンマン――」
その姿は、まるで天より降臨する仏魔そのもの。
重力など無いように降りてくる彼が放つ圧――それは蛇女の比ではない。
空気が張り詰め、這うような悪寒が背筋を駆け上がる。
「いかん……!」
俺は咄嗟に指先を天に向け、偽空海の慈救呪を止めるべく『赤帝の矢』を放った。
指先から射出された紅蓮の炎が、夜の闇を切り裂きながら上空の偽空海へと一直線に突き進む。
だが、その矢が彼に届くことはなかった。
一瞬の隙を突き、見えざる鎖から解放された蛇女が、凄まじい跳躍で炎の矢の射線へと身を投げ出したのである。
偽空海が放つ法力に押し負け、慈眼房の慈救呪が効果を無くしていたのだ。
――ギシャアァァッ
肉を焦がす異臭と共に、蛇女も身を焼かれ、苦悶の声を上げながら地面に叩きつけられた。
主を庇うその身を挺した防御によって、俺の術は防がれてしまったのだ。
しかし、俺の放った一撃は決して無駄ではなかった。
蛇女が矢を防いだ直後、偽空海の背後に回り込むようにして、一人の影が跳躍していたのだ。
良源である。
夜叉の如き赤黒い肌に、濛々と水蒸気を立ち昇らせた良源が、空中に浮かぶ偽空海の背後へと現れた。その隆起した筋肉が見て取れる両手には、身の丈ほどもある鉄杖が握りしめられていた。
――振ンッ!
不動明王の力が込められた渾身の振り下ろし。
空気を叩き潰すような風切り音が鳴り響き、鉄杖が偽空海の脳天へと迫る。
決まった――。
そう確信した瞬間だった。
偽空海は、振り返りすらしない。
ただ無造作に、左手をスッと背後へかざしただけだった。
良源の振り下ろした鉄杖は、偽空海の手のひらにすら触れていない。
彼の手の寸前、何もない虚空で、まるで分厚い空気の壁にでも阻まれたように、ピタリと静止していたのである。
「な、ん、だと……ッ!?」
空中で良源が驚愕に目を剥く。
これほどの勢いで鉄杖を振り下ろしたというのに、弾き返される反動すらない。
まるで鉄杖そのものが、彼の手元にある不可視の泥に飲み込まれ、完全に固定されてしまったかのようだった。
だが、偽空海が良源の攻撃を防ぐために片手を使ったことで、彼が胸の前で結んでいた印が解けた。
その瞬間、周囲を支配していた圧倒的な重圧がフッと霧散し、地に這いつくばっていた慈眼房が大きく息を吸い込んで立ち上がった。
「印が解けたぞッ!」
地面に着地した良源は、慈眼房と俺に呼び掛ける。
俺は再度『赤帝の矢』を――そして慈眼房は新たな真言を唱えようと構えた。
そんな俺たちを空中から見下ろしている偽空海が、煩わしそうに左手を払った。
――ボッッ ッ
空気が爆発したかのような轟音が響き、目に見えない巨大な槌で殴りつけられたような衝撃波が、俺たち三人を容赦なく襲った。
「ぐわぁッ!」
「ぬぅあっ!」
抗う間もない。
凄まじい風圧と衝撃に弾き飛ばされ、慈眼房は悲鳴と共に斜面を激しく転がり落ちていく。
俺と良源は空中で錐揉み状態となりながら森の太い木々に背中から激しく叩きつけられた。
「かはッ……!」
肺から空気が絞り出され、目の前がチカチカと明滅する。
強化したエーテル体がなければ、間違いなく背骨が折れていた。
「藤原殿……無事か!」
「ええ……なんとか……」
激痛に耐えながら立ち上がると、良源も僧衣を土にまみれさせながら体勢を立て直し、俺の側に並び立った。
彼の顔には、隠しきれない戦慄が浮かんでいる。
「あの男……今、三密の作法を何一つ行わずに法力を放ったぞ……!
藤原殿、貴殿の験力と同じではないか!」
(末那識からのアストラル操作です。
単純に大量のエーテルを動かし、ぶつけてきました。
量の多さと運動スピードにより衝撃波となったのです)
見えない壁で鉄杖を受け止め、手振りのみで衝撃波を生み出す。
両者ともエーテルを操作することで成し得たのだろう。
俺の放った矢で負傷した蛇女は、焼け焦げた体から煙を上げながらも、今は大人しく地上にトグロを巻き、ふわりと地上へ降り立つ主の姿を恍惚とした表情で見上げていた。
彼はまるで空中を散歩でもしているかのような優雅さでこちらを見据えている。
「くくっ……三密を妨げれば、術が使えぬとでも思ったか?」
偽空海の声には、芝居がかったような異様な高揚感と、狂気を孕んだ響きが混ざり合っているように感じた。
ふと俺は思う。
奴は全能感に酔いしれているのだろうか。
「身密、口密、意密……そのような型に縛られるのは、所詮、仏の真理に届かぬ未熟者ゆえのこと。真に極めた者は、意密ただ一つで事足りるのだ」
偽空海は高揚感によって、語らずにはいられなくなった様子で、高らかにそう言い放った。
――スッ
ゆっくりと右手のひらを下へ向け、何かを押し潰すような所作を見せた。
――ギシィィッ ッ
瞬間、頭上から目に見えない巨大な岩盤が落ちてきたかのような、圧倒的な重力が俺と良源を襲った。
「ぐぅぅうッ……!」
「がッ……!?」
足腰が限界まで軋み、膝が強制的に土にめり込む。
俺と良源は、這いつくばるように地面へと押さえつけられた。
(膨大なエーテルによる圧力です――)
桁違いの力が俺たちを押さえつけていた。
「政に塗れ、仏の教えより才能や家柄ばかりを重んじる、腐りきった今の仏教界……。
あのような泥水の中で、真の即身成仏など叶うはずもない」
偽空海が、両腕を大きく広げ、天を仰ぐようにして語り始める。
綺麗な顔が歪み、ジトリと陰湿な目つきに変わった。
その口調には、高野山や東寺、あるいは比叡山といった権威への恨み、特権階級へのどす黒い憎悪が滲み出ているように思えた。
「私は、腐った仏教界に代わり、この世に真の救済をもたらすために選ばれたのだ。
――そう、私こそが「新たなる空海」ッ!」
重圧に耐えながら、良源が吐くような声で吼える。
「貴様……やはり真言の者か……!
確かに、昨今の仏教界が政の道具となり果てていることは否めぬ!
だが、それは顕教の教えを疎かにし、権力に擦り寄った結果ではないか!
貴様は密教の法力をもって、力で民を支配しようとしている!
それは、今の乱れた仏教界と何が違うというのだ!」
良源の非難が森に響く。
その言葉を聞いた瞬間、偽空海は顔を伏せ、肩を震わせた。
――くく……
――はーっはっ ハッハ ッ!!
狂気を孕んだ高笑い。
俺たちを押さえつける力がさらに跳ね上がる。
骨がミシミシと悲鳴を上げ、地面の土が俺たちの重みで陥没していく。
「顕教だと?
相変わらず都のお高くとまった僧は、綺麗事の理屈が好きだな!」
偽空海は、表情に憎悪を滲ませ、良源を射抜いた。
「釈尊の教理? 戒律の厳格さ? なるほど、結構なことだ。
……だがな、問おう。
お前たちが崇めるその高尚な文字の羅列が、ひび割れた田畑に一滴でも水を降らせたか!? 飢えと病に苦しむ民の腹を、一度でも満たしたことがあるのか!?」
「くッ……」
良源は目をそらす。
「お前たちが安全で暖かい高座の上にてふんぞり返り、「顕教がどうの」「心がどうの」と暇つぶしの論争に花を咲かせている間にも、下々の民は泥を舐め、生きるために我が子を売って死んでいくのだ!
お前たちの言う「正しい仏教」とやらは、権門の腹を満たし、己の顔を立てるための、ただの道楽に過ぎんッ!」
偽空海は仏教界を憂いているのか?
しかし、俺の思い違いかもしれないが、その言葉の端々からは、権力者への恨み言のような……周囲から認められないことへの怒りを感じる。
言っていることは正しく見えるが、そこには自分のプライドと承認欲求のようなものを感じるので、俺にはあまり響かなかった。
まあ、何よりもイケメンの言うことだし。
「私は支配などしていない! 私は「救済」しているのだ!
言葉だけの偽善者どもから民を奪い返し、大師様の圧倒的なお力をもって、この苛酷な現世の苦痛から解き放っているのだ!」
偽空海は熱に浮かされたように両手を広げ、舞台の中心で独白するような芝居がかった声で高らかに宣言した。
「これこそがッ!! これこそが、お前たち腐りきった山や寺には口が裂けても言えぬ、真の「無差別にして絶対の救済」、真言の救済であろうッ!」
その叫びと共に、偽空海は人差し指をスッと天に向けた。
次の瞬間、俺と良源の体が、見えざる巨大な手に掴まれたように、強制的に空へと引き上げられる。
「な、ぐぅッ……!」
「体が……動かん……!」
俺たちは、圧迫感を感じながら、空中に固定された。
言葉を発することこそできるものの、指先一つ動かせない。
完全なる金縛り状態だ。
眼下を見下ろすと、急斜面のかなり下のほうで、先ほど吹き飛ばされた慈眼房が気を失って倒れているのが見えた。
命に別状はなさそうだが、この戦闘に復帰するのは無理そうだ。
その向こうには麓の淡海まで続く平野が見渡せる。
偽空海もまたふわりと宙に浮かび上がり、俺たちと同じ目線で、山の麓――甲良の地を見下ろす位置に立った。
「国を護る最強の守護神であり、今も高野山で生きているとされる空海。
だが、その力も入定より百年近くが経とうとしている今、確実に弱まりつつある――」
偽空海は、自らの手で世界を創り変える神にでもなったかのように、背後にある神籬で囲まれた泉――弘法池を指差した。
「今の乱れた世に必要なのは、高野山からの見えざる祈りではない。
世を直接救えるだけの「力」を持った、真の空海である私なのだ。
そして私は、この力の源泉たる泉を手に入れ、絶対的な力を得た――」
遠くの眼下では、長寺の輪郭が月明かりによって浮かび上がっている。
無数の松明の灯りが激しく蠢き、犬上大領たちの軍勢による激闘が繰り広げられているのが、空中にいる俺たちの位置からはっきりと感じ取れた。
「ここで、お前たちのような小石に躓くわけにはいかん。比叡山の者にも、東寺の者たちにも、真なる空海の力というものを教えてやろう」
偽空海が、両腕を天に向かって大きく広げた。
その瞬間、彼の全身から凄まじい気が立ち昇る。
肌が粟立つ。
(弘法池から、膨大なエーテルが滝のように偽空海へと流れ込んでいます。空間そのものが歪むほどの、途方もないエネルギーの奔流です!!)
Yuiさんが慌てている。
緑青の鏡の時のようだ。
偽空海は印を作るため両手の指を強く握り込み、拳を作ると、それを合わせた。
合わせた拳の両小指をピンと上に立て、ぴったりと合わせる。
同時に両手の親指も立て、同じように合わせていた。
みぞおちから胸の高さで、体から少し離して結ばれたその印を構える。
――オン メイギャ シャニエイ ソワカ
重々しく、天地を震わせるような声で、偽空海が真言を唱え始めた。
――オン メイギャ シャニエイ ソワカ
――オン メイギャ シャニエイ ソワカ
それを聞いた良源が、金縛りに遭いながらも目を見開き、声を上げた。
「……その印、それにその真言は、八大龍王の真言!?」
良源の声が合図となったように、空気が急激に冷え込んだ。
先ほどまで青白い月明かりに照らされていた空が、瞬く間に墨汁を流したような漆黒の暗雲に覆い尽くされ始めたのだ。
――ポツ リ
――ポツリ
頬に冷たい水滴が落ちた。
――豪ォぉぉぉ
――ざぁぁぁ ぁ
――ざぁ ぁ
――ピカッ
――ドッ オォォォン
かと思うと、それは一瞬にして滝のような豪雨へと変わる。
天の底が抜けたかのような尋常ではない雨量。
そして、紫電が幾筋も暗雲を引き裂き、耳をつんざくような雷鳴が暴れ狂う。
く、苦しい。
凄まじく吹き荒れる風と雨は、空中に浮かぶ俺たちに容赦なく当たる。
エーテルのバリアがあってなお、息ができないぐらい苦しいものであった。
――豪ォぉぉぉ
――ざぁぁぁぁ
――ざぁぁ
――さぁぁ ぁ
――ぁぁ ぁ
しかし、その暴風雨はほんのしばらくの間だけだった。
嘘のように雨が止み、暗雲が割れて、再び青白い月明かりが平野を照らし出す。
「な、なんだったんだ一体……」
俺は突然の豪雨のような通り雨に、文句を言った。
(純友様、まだ終わりではありません。
先ほどの雨雲が、鈴鹿の山々に広がり、空を覆い尽くしています。
空海・異体は、まだまだ弘法池よりエーテルを引き込んでおり、術を完成へと導いています)
周囲には何事もなかったかのような静寂。
だが、偽空海の唱える真言だけが、不気味に夜の平野に響き渡っていた。
――ズズズ ズッ
――ズズズズ ズズズ ズズズッッ
――ズズズズッ
静寂も束の間、地響きのような重低音が、山々から鳴り響き始めた。
いや、違う。
山からだけではない。
空中から見渡せる眼下の平野、その大地を縫うように流れる、犬上川、愛知川、宇曽川、そしてそこから枝分かれする無数の川の連なりから響いてくるのだ。
――豪豪豪ゴゴゴゴゴッッ ッ
――豪豪ゴゴゴ ゴッ
凄まじい勢いの土石流。
その濁流が、山々から平野の川という川に流れ込み、水かさが異常な速度で増していく。
穏やかだった川は一瞬にして暴れ狂う激流へと変貌していた。
そして、さらに信じられない光景が眼下に広がり始める……。
平野中の川の水が――
――轟轟轟ゴゴゴッッ ッ
――轟轟ゴゴゴゴッ
物理法則を無視して、天に向かって立ち上がり始めたのだ。
泥と水を巻き上げた土石流の巨大な水柱は、やがて蛇のように……いや、鎌首をもたげた龍の形を成していく。
一つ、二つ、三つ……。
月明かりに照らされた淡海まで続く平野に、八匹の巨大な水龍が顕現したのだ。
「な……なんという……」
良源が絶望を孕んだ声を漏らす。
俺も言葉を失っていた。
平野からせり上がったその濁流の龍は、眼下を見下ろしているはずの俺たち裏山の高台よりも高く、巨大な首を持ち上げていたのだ。
天を突くほどの、圧倒的な水の質量。
地形をも変えるような、文字通りの天変地異だった。
長寺の周辺では、雨で消えずに残っていた松明の灯りが、狂ったように蠢き回っている。
突如として現れた規格外の化け物を前に、現場がどれほどの恐慌状態に陥っているかは想像に難くなかった。
偽空海は真言を止め、両腕を広げたまま夜空に向かって高らかに笑い声を上げた。
――くく……
――はっはっはっ は……
――アっハッハッ!!
「――見よ! これが空海の力だッ!」
狂気に満ちた笑みを浮かべたまま、偽空海は、眼下の長寺を両手で包み込むように指し示した。
「――天震地動、八大龍王の神威を以て、不遜なる敵を藻屑となせ」
その号令と共に、天を衝く巨大な八本の水龍のうちの一本が体を作る土石流で大地を揺らす。
そして咆哮のような破壊音を轟かせながら、長寺へ向かって一直線に突撃した。
眼下で、松明の灯りが一瞬にして飲み込まれる。
堅牢を誇っていた長寺の堂宇ごと、すべてが圧倒的な濁流の龍に飲み込まれ、押し流されていく。
その絶望的な光景を、俺たちはただ空中で見下ろすことしかできなかった。
【第二十三話・用語解説】
■ 平安・仏教用語
・八大龍王
仏法を守護するとされる八体の龍神の総称。天候や水を司るとされ、古来より雨乞いの対象として信仰されてきた。
・顕教
言葉や文字によって説かれた、誰もが理解しうる形の仏の教え。真言密教などが説く「密教」(秘密の、限られた者にのみ伝授される奥義)と対をなす概念として位置づけられる。
・権門
朝廷・貴族・大寺社など、政治的・経済的に大きな力を持つ権勢の家・勢力を指す言葉。
====================
※AIを文章の校正・改稿、設定整理、資料調査、アイデア検討等に活用しています。また、一部の本文にはAIが生成した文章を直接使用しています。物語・世界観・登場人物・展開等の創作および最終的な文章の判断は作者が行っています。
※本作に登場する仏教用語・哲学用語・科学用語は、実在する思想・学説・科学的知見を参考にした、作中独自の解釈です。現実の思想・学説・科学的見解を厳密に説明するものではありません。
※本作に登場する歴史上の人物・出来事は、実在の史実を題材としておりますが、人物像・人間関係・行動・出来事などに作中独自の創作・改変を含みます。史実とは異なる部分がありますので、歴史創作としてお楽しみください。




