第二話 下級貴族の生存戦略
平安時代の下級貴族の朝は早い――
東の空にようやく薄明かりが差す、朝の五時――この時代の言い方なら卯の刻の初めには、俺はもう目を覚ましていた。
梅雨の湿気を含んだ空気がひんやりと朝を包んでいる。
そんな中、六時前には大内裏へ向かうのが俺の日課だ。
今は勘会の時期にあたる。
諸国から届く、山のような数の租庸調の帳簿を、一つひとつ地道に精査しなければならない期間。
それは地方から届いた帳簿と、中央に保管された過去の記録や規定を照らし合わせ、納入状況や帳簿に不備がないかを確認する作業だった。
そんな俺の仕事場、主計寮へと、とぼとぼと向かっている。
俺の暮らすボロ家は、春日小路に面した場所にあった。
そこから仕事場である大内裏の主計寮までは、歩いておよそ二十分ほどの距離だ。
豊かな家格の貴族であれば、牛車に揺られて優雅に出仕するのだろう。
だが、我が家に居るのは、あばら骨の浮き出た痩せ馬が一頭のみ。とても乗れたものではない。歩くほかなかった。
まあ、昨夜のうちに調べた脳内スマホについて、整理するのにはちょうど良い時間だ。
そう自分を納得させ、俺はいつも使う郁芳門ではなく、少し遠回りをして朱雀門から宮へと入ることにした。
歩きながら、まずは脳内にある「イマジナリーなスマホ」の件を整理する。
このスマホ、他人からは見えず、充電も電波も、今のところは必要ないようだ。
電波や電池のアイコン自体は画面の端に、常に存在している。
おそらく何らかのエネルギーや電波なりが必要なはずなのだが、昨日、一晩中弄り倒してもバッテリーは一パーセントも減っていなかった。電波の感度も変わりはない。
理由は全くわからないので、考えても仕方がない。
そんなものは気にせずにガンガン使っていこうと思う。
試しに、軽く藁の上に投げてみても、二、三歩ほど離れただけで自動的に俺の手の中に戻ってきた。これなら紛失の心配もなさそうだ。もっとも、石に叩きつけるような度胸はないのだがね。
検索機能やAIの能力についても分かったことがある。
どうやら、俺が前世で死んだ時点より先のウェブサイトや未来の情報は、一切検索できないようだった。
AIのデータベースも同様だ。
「未来の知識で不老不死の方法があるのか」と聞いたところで、「情報がありません」と冷たく返されるのが関の山。
俺の死んだ時点のデータが、このスマホに答えられる限界なのだ。
だが、がっかりすることばかりでもない。
日付や時間、メモ帳、そして地図アプリの機能は、前世の情報ではなく、すべて今いる平安時代のリアルタイムに置き換わっていた。
これは生存戦略にとって、非常に有益な機能ではないだろうか。
この時代の地図なんて、お絵描き同然のいい加減なものばかり。
だが、このスマホの地図アプリには、現在地が正確に表示され、それどころか重要そうな場所には赤いピンが立っている。
その中に、かなり興味深いピンを見つけることができたので、いずれ寄ってみたいとも考えている。
「ふわぁ~あ」
ほぼ徹夜でスマホを弄っていたため、大きな欠伸が出てしまった。
相変わらず朱雀門はデカいな……。
いつも使っている郁芳門の素朴さに比べ、大内裏の正門たる朱雀門の立派さにはいつも圧倒される。
だが、門をくぐりながら、俺はすぐに後悔し始めていた。
雨の多い皐月(五月)。
現代の暦なら、もう六月に入っている。
雨が降るたびに泥濘と化す大路は、歩く者の足を容赦なく汚す。当然、俺の足も汚れてしまっていた。
本来なら漆塗りの浅沓を履くべきところ。しかし、そんな余裕もない俺は常時藁靴だ。
藁が吸い上げた泥は大内裏の美しい白砂を容赦なく汚染する。そう、白砂汚染の戦犯はどう見ても俺なのだ。
――失敗したな。
前世の記憶を思い出したせいで、この時期特有の最悪な道路事情をすっかり失念していた。
朱雀門の綺麗な白砂の上に、俺の泥の足跡が転々とついているのだ。
「これこれ。公の場で大欠伸とは、いささか見苦しい。
……おや、藤原の少なき属殿ではないか。見なされ、せっかくの白砂が泥で汚れておるぞ」
背後から、ねっとりとした声。
振り返ると、そこに立っていたのは、やけに仕立てのいい上質な朝服に身を包んだ男。
嫌味な上司、主計寮大属の三善行兼であった。
「こ、これは失礼いたしました、三善の大属殿」
即座に腰を軽く折り、挨拶をする。
「歩みて宮に参るとは……仮にも貴族の端くれならば、牛車にて来ればよかろう。白砂を汚す手間も省けようにな」
俺の返事を聞いた行兼は、口元に扇を当てながら、勝ち誇ったように目を細めた。
「大属殿、お戯れを。
藤原の少なき属殿は、牛車などお持ちではございませぬゆえ……」
すかさず、その脇に控えていた同僚――これまた三善の一族の者が、わざとらしく俺に聞こえるように耳打ちをした。
「おお、そうであったか! それは悪いことを申したな……。
なれどそなた、名高き藤原北家の血を引く者であろう? その、もう少し身なりをなんとかなさらぬか。のう?――ホッホッホッ」
二人は顔を見合わせ、「ホッホッ」と大爆笑を始めた。
いつものことだが、俺の貧乏弄りを楽しんでやがる。
だが、未来の生活を知っている俺からすれば、お前らの「優雅な生活」など、エアコンも水洗トイレもない後進国以下のお粗末なレベルなんだよ。そんなレベルの低い人たちに、いちいち苛立ってやる義理はないね。
「皆様方の目を汚さぬよう、これより足を洗うて参ります。なれば、これにて――」
俺、藤原純友はクールに去るぜ。と思いながら、そそくさと退散する。
背後からは、三善の一味の笑い声が、大内裏の重々しい空気に響き渡り、見えなくなるまで聞こえてくるのだった。
――――――――――
よし、元気に生存戦略を考えるとしよう。
スマホの時計を見れば、未の刻の下刻――つまり午後の三時を過ぎた頃だ。
大きく体を伸ばしながら、やっと今日の仕事が終わったことを実感する。
「んんっ、腰が痛い……」
腰をトントン叩く。
三善の奴ら、案文を作るための面倒な「肉体労働」ばかりを俺に押し付けてきた。
埃っぽい倉庫まで、重い巻物を取りに行き、過去の記録を探し出さなければならなかったのだ。
そのくせ、過去データと照合する勘出作業は自分たちでやりたがる。どうせ、国司から賄賂でももらっているのだろう。
三善一族の利権構造から外れている俺に「肉体労働」が回ってくるのは、当然といえば当然なのだが、なんだか釈然としない。この時代の帳簿は和紙の巻物で、一つひとつが地味に重いのだ。
それを薄暗い物置で探し回るのだから、これはもう立派な重労働だと言えるだろう。いつか主計頭に賄賂の告げ口でもしてやろうかとも思えてくる。
まあいい、これからは自由時間だ。
俺はウキウキとしながら帰り道、スマホを眺めていた。
歴史の転生もので最も楽しいのは、やはり「知識チート」だろう。
前世の技術や知識で、この貧乏生活を脱却し、死亡フラグを叩き潰してやるぜ。そんなことを想像するだけでもワクワクが止まらない。
さて、俺がまず何を作ろうとしているか。
フフフ。まあ、実は昨日の夜から考えてたんだよねー。
「ジャジャン! 蚊取り線香~~!」
脳内で青い猫型ロボットのモノマネをしながら、意気揚々と発表した。
――ヒソヒソ
――ヒソヒソ
おっと、危ない。嬉しさのあまり、脳内の声がそのまま口から漏れていた。
大路を行き交う歩行者たちから、変なものを見るような目で見られてしまったじゃないか。自重せねば……。
ふんふんふ~ん。
まあいい、気を取り直して、俺は脳内スマホを立ち上げ、チャット画面に打ち込む。
『今、平安時代の京にいるんだけど、蚊取り線香ってどう作ったらいい?』
もちろん「知識チート」など言えるほどの知識は俺にはない。
蚊取り線香の作り方なんか知るわけがないし、進学校でもない農業学校出の高卒、成績も底辺だったぐらいだ。
そんな俺がチートを成し遂げるには、このAI様のデータベースに頼るほかないのだよ。
それにね、昨夜、蚊に刺されながら思ったのだ。
この時代、マラリア――いわゆる瘧に似た熱病は、命に関わる死の病。
生存戦略を立てるなら、これらの病魔の対策はいの一番だと言えるだろう。
どれどれ、AI先生の返信は、と。
『平安時代にいるのですか? それは大変ですね。
結論から申し上げますと、平安時代の京では、近代的な蚊取り線香を作ることは不可能です。
近代的な蚊取り線香は、除虫菊の粉末をお香のように成形したものですが、除虫菊が日本で利用されるようになったのは近代以降です。
現在お困りであれば、日本に自生している「ヨモギ」を乾燥させて燻すのが、現地で最も調達しやすく、かつ手軽な方法になるでしょう』
……うん。ヨモギが虫除けに効くのは知っている。
だって、今まさにこの時代、現在進行形で使っているのだから。
うーん、この聞く方のスキルがないと、欲しい情報が返ってこない感じ……懐かしいぜ。
自分の学のなさがAI能力の邪魔している感じをヒシヒシと感じる。
だが、そんなことでしょぼくれているわけにはいかない。めげずに再トライだ。
『そこをなんとか! ヨモギとかじゃなくて、もっとこう凄いのない?』
『樟脳などはいかがでしょうか。
クスノキ(楠)の精油から抽出される「樟脳」には防虫効果が期待できます。
クスノキは西日本や温暖な沿岸部に自生しており、その芳香には防虫効果があります。
製法は、木のチップを水蒸気蒸留して結晶を取り出す方法があります』
おお、一気に具体的な情報が表示された。
こんな質問でも答えてくれるのは、実にありがたい。
精製レシピについても、続きに詳しく書いてあるようだ。
[DISPLAY] -----------------------------
クスノキの精製方法(水蒸気蒸留法)
・工程1:粉砕
クスノキの丸太を細かく刻んでチップにする。
・工程2:蒸留
和釜の上にチップを詰めた木樽を置き、湯を沸騰させて水蒸気を通す。
・工程3:冷却
樽から出した蒸気を竹筒で冷却槽へ導き、冷えた部分に付着した白い結晶を採取する。これが樟脳です。
※なぜ直接燃やさないのか?
クスノキを直接燃やすと、樟脳を煙や燃焼ガスとして失ってしまうため、効率よく回収できません。
樟脳が水蒸気とともに揮発する性質を利用し、水蒸気を「運び屋」として成分を取り出すのが水蒸気蒸留です。
直火の「焼き料理」ではなく、素材の旨味を壊さない「蒸し料理」のイメージです。
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なるほど、水蒸気蒸留か。
多分、肉まんを蒸すようなものだろう。
で、その白いロウ状の結晶はどう加工すればいいのだろうか。
『結晶のままでも防虫剤として使用できます。
布や紙などで包み、衣類や寝床の近くに置いてください。
樟脳は揮発するため、密閉しすぎず、香りが届く程度の状態で使用するとよいでしょう』
おお、これなら簡単だ。
『袋はどんなものがいい?』
『目の細かい布袋などが適しています。
中身がこぼれず、樟脳の香りが外へ出るものを使用してください』
なるほど。これなら、わざわざ線香を作る必要もない。布さえあれば何とかなる。
樟脳を作るところまでが大仕事だが、使うだけなら随分と簡単だ。
「よし、早く帰って九郎と試してみよう!」
俺は胸を躍らせ、足早に帰路を急ぐのであった。
【第二話・用語解説】
■ 平安用語
・勘会
諸国から提出された税(租庸調など)の帳簿を、法律や過去の規定と照らし合わせ、不備や不正がないか厳重に審査する主計寮の監査実務のこと。現代の「会計監査」に近い役割を持つ業務です。
・大内裏
天皇の住まいである「内裏」と、中央官庁が立ち並ぶ「八省百官」のエリアを包含する広大な宮城全体を指す言葉です。周囲は高い築地塀で囲まれ、四方に朱雀門などの重厚な門が置かれていました。
・朝服
貴族や官人が公務の際に着用する正装です。
・少属
主計寮などの官司に置かれた四等官のうち、主典にあたる官職の一つ。四等官のうち最下位にあたる。
※本作では、純友は正八位上の位階を持つものの、主計寮では少属として不遇な扱いを受けている。
・大属
主計寮などの官司に置かれた四等官のうち、主典にあたる官職の一つ。大属と少属があり、大属は少属より上位にあたります。
・瘧
現代のマラリアに似た、周期的な発熱を伴う熱病を指す言葉。当時は原因が十分に理解されておらず、加持祈祷なども病への対処として行われました。
■ 現代知識
・樟脳・水蒸気蒸留法
クスノキ(樟)の木材や葉から抽出される、強い芳香を持ち、古くから防虫などに利用されてきた結晶。
クスノキを直接燃やすと樟脳を回収できなくなるため、木を細かく刻んで蒸し、その蒸気を冷やすことで樟脳を取り出す「水蒸気蒸留」という技術があります。
■ 登場人物/歴史人物
・三善行兼
【本作オリジナル人物】
純友が勤務する主計寮の大属。純友に対して貧しい身なりや牛車を持たないことなどを皮肉り、嫌味を言う上司として登場します。
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※AIを文章の校正・改稿、設定整理、資料調査、アイデア検討等に活用しています。また、一部の本文にはAIが生成した文章を直接使用しています。物語・世界観・登場人物・展開等の創作および最終的な文章の判断は作者が行っています。
※本作に登場する仏教用語・哲学用語・科学用語は、実在する思想・学説・科学的知見を参考にした、作中独自の解釈です。現実の思想・学説・科学的見解を厳密に説明するものではありません。
※本作に登場する歴史上の人物・出来事は、実在の史実を題材としておりますが、人物像・人間関係・行動・出来事などに作中独自の創作・改変を含みます。史実とは異なる部分がありますので、歴史創作としてお楽しみください。




