第一話 平安時代とスマホと俺
「スマホでもあればな……」
そんなことを呟きながら、私は腕に止まった蚊を「えいやっ」と叩き潰した。
気が付くのが一歩遅かったらしい。
広げた手のひらには、潰れた蚊の残骸とともに、ポツリと赤い血の跡がこびりついていた。
随分と吸ってくれたようだ。
それは、私自身の血なのだが、想像以上の量にやや引いてしまう。
「……はぁ」
思わずため息が漏れる。
今日は朝から主計寮の埃っぽい物置で、杉やヨモギの葉をいぶして蚊を追い払っていたのだ。
それなのに自宅に帰って早々、これだけ派手に吸われるとは、日頃の行いが悪いせいなのだろうか。
あるいは、今日叩き潰した羽虫たちの怨念、すなわち祟りというやつかもしれない。
皐月(五月)の夜。
雨が降るたびに、嫌な湿気とともに蚊の羽音が増していく。
これからの鬱陶しい数ヶ月を想像するだけで、私の胃はきりきりと痛み出すようだった。
そもそも、ここには厚畳ひとつ置く余裕すらない。
私が今寝転んでいるのは、板張りの床の上に藁を薄く敷き、その上からボロ布を被せただけの、お粗末極まりない寝床。
父、藤原良範が早くに亡くなってからというもの、私には後ろ盾と呼べるものが一切ない。
正八位上という、爪の先ほども前に進まない万年「地下」貴族の暮らしなど、所詮はこの程度なのだ。
貴族とは名ばかりで、官人としての収入は雀の涙ほどしかない。一緒に暮らす子供たちや下人を十分に養うだけの蓄えもないのが、悲しい我が家の現実であった。
当然、家には、杉やヨモギの葉を用意するような余裕は残っていない。
暗闇の中、遮るもののない寝室。そこを羽虫どもが我が物顔で飛び回っているのも仕方がないのかもしれない。
――プゥゥーン
――プーーン
「……うっとうしいな」
その不快な羽音から逃げるように、ごろりと寝返りをうった。
その瞬間。
指先が、何やら平たくて硬い、妙に滑らかな異物に触れた。
「――ん? 待てよ、スマホだって?」
私は床をギチリと軋ませ、上体を起こす。
幸いにも、今夜は月が明るい。
格子窓から差し込む青白い月光が、狭い室内をそれなりに照らし出してくれていた。
血のついた自分の右手をもう一度眺める。
その手のひらに握られていたのは、鏡のように冷たく磨き上げられた黒い板だった。
「いや、嘘だろ……?」
私は周囲を何度も見渡した。
一応は板壁で囲まれているものの、隙間風が通り放題の、外と大差ない部屋。
頭の中の記憶、常識から考えれば、農家の納屋でももっと頑丈に作られているはずだ。
「私は……何でこんな場所にいるんだ?」
意識せず呟いたスマホという言葉。
さっきまでスマホなど知らなかったのに、自然に口に出していた。
そのスマホという言葉に対する違和感をトリガーにして、脳裏に「別の記憶」が濁流のように流れ込んできたのだ。
――残業帰りの夜道。
一人でコンビニ弁当をぶら下げて歩く、冴えない男である自分。
この時、お気に入りVtuberの配信をスマートフォンの画面で見ながら、フラフラと歩いていたはずだ。
突然、視界が真っ白になるほどのヘッドライトの光が差し込み、すさまじい金属音が響く。
次の瞬間、目の前がスローモーションになり、普通車の運転席に座った女の驚く顔が見えた。
そう、俺はその女が運転する車に突っ込まれたのだ。
「痛っ……!?」
こめかみを突き刺すような鋭い痛みとともに、今度は私――「藤原純友」としての三十五年分の記憶が、車に撥ねられた俺の記憶と完全に噛み合っていくのを感じる。
痛みが引く頃には、俺はすべてを思い出していた……。
「今年は延長九年……いや、改元されて承平元年、だったか。それって西暦で言うといつだ?」
俺はすがるような思いで、見慣れた黒い板の画面をそっと親指で擦った。
「――つ、ついた」
月明かりよりも遥かに明るい光が、目に飛び込んでくる。
そこには、見慣れたスマートフォンの液晶画面が、確かに表示されていた。
Vtuberマ○ン船長の壁紙が写っているところまで一緒である。
え、三十五歳でVtuberが好きだなんて?
ああ、何が悪い。ブラック企業で働いていると癒しが必要なんだよ、癒しが。
電波など通じているはずもない。
しかし、駄目元で画面を叩き、AIアシスタントのチャット画面を立ち上げて質問を打ち込んでみる。
『承平元年って、西暦何年?』
ほんの数秒、画面が明滅したのち、無機質な機械音声のようなテキストが返ってきた。
『承平元年は、西暦931年です。平安時代中期の元号で、延長9年4月26日に改元されました。この時代は朱雀天皇の御代であり、後に平将門の乱(承平天慶の乱)へとつながる社会不安が始まった時期でもあります』
「う、嘘だろ……」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
指を震わせながら、次の質問を入力した。
『承平元年にいる、藤原純友って何者?』
『承平元年(931年)時点の藤原純友は、歴史的に有名な「海賊」の頭領ではなく、瀬戸内海の海賊を取り締まる側の、しがない地方官僚になる前でした。出自は藤原北家の傍流であり、中央での出世は望めない立場にあります。承平2年(932年)頃に伊予掾として赴任する予定です』
俺は、必死に中高生の頃の記憶を掘り返していた。
藤原純友、ふじわらのすみとも……。
なんか聞いたことあるぞ……授業であったよな……。
あれ? 思い出せそう。
平将門の乱と同じ時期にあったやつ――
「承平天慶の乱ッ!?」
喉の奥から悲鳴が漏れそうになる。
冗談ではない。
藤原純友なんて、歴史の教科書に載るレベルの超弩級のテロリストではないか。
え、って俺のことか? え、じゃあ何? 俺って処されるの? 乱起こして国に処されちゃうわけ??
「ふ、ふざけるな……!」
思わずスマホを壁にぶん投げそうになるが、寸前のところで踏みとどまる。
落ち着け、俺。
落ち着けよ……。
この手のひらの中にある光は、この不条理な平安時代を生き延びるための、唯一の「生命線」と言っても過言じゃないはずだ。これがぶっ壊れたら損しかないのは少し考えればわかること……そ、そういえば電源はどうなんだろ?
バッテリーの消耗を恐れ、すかさず電源を落とす。
心を落ち着け冷静に、冷静に。
……どうやら俺は平安時代へと転生したらしい。
俺は絶望を噛み締めながら、暗闇に戻った室内で、尻の下にある藁の寝床の布を握りしめるのであった。
――――――――――
平安時代、乱を起こす予定の現在三十五歳のおっさん藤原純友に転生した俺なのだが……。
前世って言っていいのか?
前世の俺も三十五歳、パッとしない男だったけどもさ、それでも思うわけよ。
転生ってそんなもんじゃないだろと。
こーいうのって若い体に転生するもんじゃないの?かと。
「父上、いかがなされましたか!?」
「何かあったのですか、父様!!」
パタパタと板床を走る足音とともに、月明かりの中から二人の子供が飛び込んできた。
「マツ、早く父上にお水を持ってきておくれ」
慌てた様子で下女に指示をしている活発な十歳の少年が、長男である直澄。
「父様、お熱は上がっておられぬようですが……」
俺の額にひんやりとした手を当て、心配そうに覗き込んでいるのが、十五歳になる娘の瑠璃だった。
「主、えらいお声を上げておいででしたな。何か盗人でも出ましたか」
心細い油灯を掲げて部屋を照らしたのは、下男の九郎だ。
俺が幼い頃、修理職町で口減らしに遭いかけていたのを拾った男で、家での力仕事は彼が主に担っている。
「殿……お水にございます。どうぞ、落ち着いてお飲みくださりませ」
器に水を注ぎ、俺に差し出してくれたのは、下女のマツだった。
下級貴族の我が家にあって、彼女は私が幼少の頃から忠義を尽くして家を支えてくれている。
「すまない、マツ」
――ング。
――んぐんぐ。
差し出された器を受け取り、冷たい水を喉に流し込む。
一気に飲み干すと、頭はようやく現実に追いついてきた。
俺は一息つくと手のひらの中のスマホを、心配そうに見つめる家族一同に見せる。
「皆、これが何だか分かるか?」
この場にいる者たちが俺の手元を眺める。
「……主の手でございますが」
「……父上、一体何のことをおっしゃっているのでございますか?」
九郎と直澄が答える。
「父様、やはりどこかお加減がおかしいわ……」
瑠璃は再び俺の額に手を当てた。
……どうやらこのスマホは他人には見えないらしい。差し詰め脳内スマホかイマジナリースマホといったところか。
前世の記憶があるということは、俺は転生したのであり、この魔法のようなスマホもその奇跡の一部なのかもしれない。
そもそも、現代――いや未来か。
その未来の知識があるからこの魔法のような奇跡も疑っているが、この時代は怨霊や妖が跋扈する平安時代。
だとするならば、このスマホの機能が「法力」や「術」のようなものであったとしても、不思議はないはずだ。
むしろ、不思議パワーによって充電器や電波塔を必要とせずに動いてくれるなら、その方が俺にとっては非常に都合がよかった。
平安時代という過酷な世の中を生き抜くなら、スマホはかなり有効。知識チートを与えてくれるものだと俺は感じていたからである。
俺は、これから数年後に乱を起こして世を騒がす、藤原純友なのだ。
しかし、どれだけ今世の記憶をひっくり返してみても、自分がそんな大それた謀反を起こすような気概のある男だとは思えない。
しかし、名前や立場、状況から考えて大乱を起こす藤原純友だという可能性は限りなく高かった。
嫌だ、死にたくない……藤原純友の乱はいつ起こすのだろう?
伊予掾になってからか……。
伊予掾? 俺が? こんな冴えないおっさんがなれるものなのか?
来年の除目――官人の人事異動前にわかるのだろうか?
……ふ、不安だ。
この時代じゃ、人生四十~五十歳くらいが普通なんだろう。
三十五歳だと棺桶の中に片足突っ込んでるどころかタップダンス踊ってるぐらいの年齢だと思う。
平穏無事に、せめて八十歳くらいまでは生きたい!
前世の記憶が、そんな短い生涯を拒絶して、心の中で生き延びろと叫んでいる。
これは生存戦略を立てないとダメだな……。
そのためにも、まずはこのスマホを調べないとだ。
俺は、心配してくれる家族たちに礼を言い、それぞれの寝屋に返す。
そして引き続き、蚊と格闘しながらも、寝床でスマホを弄り、生存戦略を考えるのだった。
【第一話・用語解説】
■ 平安用語
・主計寮
民部省に属し、国家の予算編成、税の計算、監査などを司る役所。
・正八位上
平安貴族の身分(位階)ランクの一つ。三十段階ある位階のうち、下から八番目(上から二十三番目)という低いランク。
・地下
天皇の御殿である清涼殿への昇殿を許されていない人々を指す語。六位以下の官人が中心となるが、必ずしも位階だけで一律に区分されるものではない。下級官人の中には名ばかりの「貴族」で毎月の俸給だけでは家族を養うこともできない過酷な生活を送っている者もいました。
・伊予掾
伊予国(現在の愛媛県)の地方官(国司)における第三等官。国司の階級(守・介・掾・目)のうち「掾」にあたります。
・除目
大臣以外の諸官職を任命する朝廷の儀式。地方官を任命する春の県召除目、京官を任命する秋の司召除目などがある。毎年春秋に行われ、官職を求める地下の貴族たちが、必死に有力者へ賄賂やコネを使って猟官運動(就職活動)を繰り広げました。
・修理職
宮殿や内裏の造営・維持管理・修理を専門に担当する役所。下男の九郎は、この役所に仕える下層の職人たちがひしめき合って暮らす「修理職町」の出身です。
■ 登場人物・歴史人物
・藤原純友
【実在人物/史実を基にした主人公】
平安時代中期の貴族。藤原北家の出身で、父は大宰少弐・筑前守を務めた藤原良範とされる。後に伊予掾となり、瀬戸内海の海賊勢力と関わりを深め、承平天慶の乱における西国側の反乱の指導者として知られる。
史実上の藤原純友を主人公として、931年(承平元年)の時点から物語が始まる。史実では後に反乱を起こす人物だが、本作の純友本人はその未来を知ったことで、乱を回避して生き延びようとしている。
なお、純友の出自については、藤原良範の子とする説のほか、伊予の豪族・高橋友久の子とする後世の説もある。本作では「藤原良範の三男」という設定を採用している。
・藤原良範
【実在人物】
平安時代中期の貴族。藤原北家の流れをくみ、筑前守・大宰少弐などを務めた人物として知られる。藤原純友の父として系図資料などに記録されている。
本作では藤原純友の父として登場し、物語開始時点ではすでに故人となっている。
・藤原直澄
【後世の伝承に同名人物あり、それらを基にした人物】
藤原純友の長男。第一話では十歳の少年として登場する。
後世に成立した系図・家譜には「藤原純友の子孫として直澄」という人物が登場するが、この系譜は史料上の裏付けが乏しく、後世に作られた伝承と考えられている。
・瑠璃
【本作オリジナル人物】
藤原純友の娘。第一話では十五歳。突然様子がおかしくなった父・純友を心配し、額に手を当てて熱がないか確認するなど、父を気遣う少女として描かれている。
・九郎
【本作オリジナル人物】
藤原純友に仕える下男。純友が幼い頃、修理職町で口減らしに遭いかけていたところを純友に拾われ、その後、藤原純友に仕えている。
家では主に力仕事を担っており、第一話では純友の突然の叫び声を聞いて様子を見に来る。
・マツ
【本作オリジナル人物】
藤原純友に仕える下女。純友が幼少の頃から家に仕え、下級貴族の家を支えている。
第一話では、突然叫び声を上げた純友を心配した直澄の指示を受け、水を持ってくる。
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※AIを文章の校正・改稿、設定整理、資料調査、アイデア検討等に活用しています。また、一部の本文にはAIが生成した文章を直接使用しています。物語・世界観・登場人物・展開等の創作および最終的な文章の判断は作者が行っています。
※本作に登場する仏教用語・哲学用語・科学用語は、実在する思想・学説・科学的知見を参考にした、作中独自の解釈です。現実の思想・学説・科学的見解を厳密に説明するものではありません。
※本作に登場する歴史上の人物・出来事は、実在の史実を題材としておりますが、人物像・人間関係・行動・出来事などに作中独自の創作・改変を含みます。史実とは異なる部分がありますので、歴史創作としてお楽しみください。




