第十九話 長寺、血戦
――ガアアァァァッ!!
獣のような咆哮と共に、陣幕を薙ぎ倒した狂人が、床几から崩れ落ちた源高明へと躍りかかった。
錆びついた鍬が、若き権守の頭上へと振り下ろされる。
朝廷の権威でもどうにもならない、純粋で理不尽な暴力。
上流貴族である高明にとって、初めて直面する類のものなのだろう。
高明は恐怖に顔を歪めながら、ただ目を見開き、迫り来る死の刃を呆然と見上げるしかなかった。
「――うおおおおおッ!」
その時、俺の肩を借りていた平判官が、力を振り絞って前へ出た。
僧たちの真言によって弱まっているとはいえ、怪僧の放つ異常な威圧の中で、武官としての意地と精神力だけで呪縛をねじ伏せたのだ。
抜刀の閃きが闇を切り裂く。
平判官の太刀が、高明に襲いかかった狂人の胴を深く薙ぎ払った。
――ガアァッッ!!
大量の血しぶきが陣幕に降り注ぐ。
それでも狂人は痛覚が麻痺しているのか、胴を斬られたまま不気味な笑みを浮かべ、再び鍬を振り上げようとした。
――ヒュッ
平判官は苦しそうな表情を浮かべながらも、返す刃で狂人の首を刎ね飛ばした。
ゴトリ、と生首が転がり、ようやく狂人はその場に崩れ落ちる。
「はぁっ……はぁっ……! 剛太ッ!」
肩で息をしながら、平判官は血塗られた太刀を構え直して怒鳴った。
「剛太! 権守と犬上殿を連れて、直ちにここから退け!
――私は……残る!」
「判官殿ッ……!」
「行けぇッ!」
呪縛に抗いながら、剛太が高明の腕を掴み、後方へと引きずっていく。
犬上大領も、流石は武者といったところか、呪縛に縛られてはいるがまだ体力には余裕がありそうだ。剛太と一緒に高明を守るようにして立つ。
高明の瞳には、先ほどまでの冷徹な野心や知的好奇心は微塵も残っていなかった。
未知の怪異を前にして、己の理屈が完全に粉砕され、恐怖と衝撃だけが、その幼さを残した顔に張り付いている。
俺もとにかく、何があってもいいように身構えよう。
近くに散乱している矛を拾い上げた。
その間にも、周囲の状況は絶望的なものへと変わりつつあった。
――ノウマク サ マン ダ ……ガハッ!
――ぐあ あっ……!
周囲で必死に真言を唱え返していた比叡山と東寺の僧たち。
怪僧の放つ圧倒的な真言に耐えきれず、一人、また一人と鼻や耳から血を吹き出し、白目を剥いて倒れ始めたのだ。
彼らの唱える『慈救呪』の合唱が、みるみるうちに薄れていく。
「……くそっ、これほどの法力とは……!」
寛朝が血の滲むような声で呻く。
気がつけば、この恐るべき威圧の中で立ち続けていられる者は、Yuiさんのバリアに守られている俺と、気力で耐えている平判官殿、そして良源、慈眼房、寛朝そして数名の僧だけになっていた。
高明、犬上大領、剛太たちは、数名の動ける兵を連れて、この場からもう離れられたようだ。
陣幕の外を見渡す。
俺は思わず息を飲んだ。陣幕の外は、まさに地獄――
百名近くいたはずの東寺・依智連合軍の兵士たちは、動けないまま大半が虐殺されていたのだ。
血の海に沈む死体の山。
そして、その屍を乗り越え、錆びた農具や奪った刀を手にした「目を赤く輝かせた狂人たち」が、俺たちをぐるりと包囲しているのだ。
地面に落ちた松明の火が狂人たちを照らし、その狂気を演出するように揺らいでいる。
――その時。
ぴたりと、長寺から響いていた不気味な真言が止んだ。
同時に、大気を押し潰していた重圧が、ふっと消え去る。
――はぁっ…… は ぁっ……
――ぐっ
重圧から解放され、良源も寛朝も、錫杖や太刀を支えにして膝をついている。
だが、安堵する暇はない。
ふっ――と月明かりが陰ったと思うと、夜空から、何かが降りてきたのだ。
ふわりと、まるで重力など存在しないかのように降りてくる。
長寺の方向から夜の闇を滑るように飛来し、血塗られた陣の中央へと静かに舞い降りたのは、一人の若者だった。
「面妖な……おぬしが、怪僧か」
慈眼房が歯をギリッと鳴らし、良源を守るように前へ出て、その男を睨みつける。
僧衣をはだけたその身体は、無駄な肉が一切ない、しなやかで美しい筋肉に覆われていた。
年齢は二十代半ばほどだろうか。
中性的なまでの美貌を備えているが、その瞳の奥には、人間を虫けらとしか見ていないような、底知れぬ狂気と静謐さが同居していた。
「怪僧とは心外な。
我が名は空海――」
若き怪僧は、薄く美しい唇を弧に歪める。
「おのれ……!
我が真言の開祖、弘法大師の御名を騙るか!」
その名を聞いた瞬間、寛朝の顔が怒りで朱に染まった。
「騙る? 否、我こそが真に至高の境地に達した者。
……京の阿闍梨どもは滑稽よな。経典の『文字』ばかりを追い、寺の格付けや領地、政ばかりに現を抜かしておる。僧の皮を被った欲深き俗物どもめ。愚かなことだ」
怪僧――。
自らを空海と名乗る男は、周囲に転がる死体の山を一瞥もせず、まるで仏像に見る菩薩のような表情で優雅に語り始めた。
「我は中国の道教、その房中術の深淵に至るため、この地を占拠した。
そして得たのだ……究極の秘術をな」
男は自らの腹――下丹田を指差し、そこから指を上へ這わせ、頭頂へと持っていく。
「気海たる下丹田より気を練り上げ、督脈を通して背骨を昇らせ、頭頂の百会へと至らせる。
これぞ、そなたら僧や修験者が何十年苦行を重ねても至れぬ「道との合一」。
――すなわち「即身成仏」の完成よ」
天上天下唯我独尊の釈迦の如く、左右の手で天と地を指し、俺たちを見下ろす。
「戯れ言をッ!
欲に塗れた邪法を以て仏を騙るか!」
良源が鋭く喝破する――
が、怪僧はくすくすと笑った。
「邪法? 誰もが救われる道を説くのが仏であろう。
我はこの秘術を、特権階級である貴様らだけでなく、あまねく民草に普及してやるのだ」
男は、周囲で唸り声を上げる赤い目の狂人たちを見渡した。
「女の肌を通して気を背骨に這わせ、脳髄を焼き尽くしてやればいい。そうすれば、人は誰でも仏になれる。
限界を超えた力を得て、解脱の悦びに浸れるのだ。
……誰もが等しく力を持てば、貴様らのような驕り高ぶる僧どもなど、不要となるであろう?」
怪僧は蔑むような笑みを浮かべて、僧たちを見た。
「狂人が……民の魂を壊し、ただの獣に堕とすことが救いだとでも言うのか!」
良源は手に持った数珠を握りしめた。
――オン シュチリ キャラロハ ウン ケン ソワカッ!!
その時、脇で見ていた寛朝が立ち上がり、真言を唱えた。
(大威徳明王の真言です。
周囲のアストラル濃度が上昇します――)
世界がブレたように見え、怪僧の周囲に吹き下ろすような風が吹いた。
「オン シュチリ キャラロハ ウン ケン ソワカ
オン シュチリ キャラロハ ウン ケン ソワカ
オン シュチリ キャラロハ ウン ケン ソワカ
オン シュチリ キャラロハ ウン ケン ソワカ
オン シュチリ キャラロハ ウン ケン ソワカ
オン シュチリ キャラロハ ウン ケン ソワカ――」
寛朝は必死に真言を繰り返す。
バリアに守られた俺にでも、感じられるような重圧が、怪僧に向かってのしかかっていた。
しかし、怪僧は涼しげな顔で、その重圧を受け流している。
(――そんな!?)
Yuiさんが驚きの声を漏らす。
――オン シュチリ キャラロハ ウン ケン ソワカ
怪僧は涼しげに、しかし、居合のように素早く真言を言い放つ。
――ぐああっ!!
――ガハッ……!
――がぁ!
先ほどよりもさらに濃密で暴力的な威圧が、爆発的な衝撃波となって陣内を薙ぎ払った。
俺もその衝撃に跳ね飛ばされ、ゴロゴロと地面を転がる。
(純友様――怪僧の『末那識』に『空海関数』を使用したシステムを感じます。
おそらく彼は、空海の力を『末那識』で行使することができる、限りなく空海に近い能力を持つ術者でしょう。
この膨大な出力は、そのシステムを利用することによって生まれているようです)
俺は転がりながらも、怪僧を見失わないように視線で捉えている。
勢いが止まると、すぐさま飛び起きた。
(ノイズが少なすぎます。このシステムは、肉体から経験によって取り入れた『種子情報』を反応させて生み出したものではない可能性が高いでしょう。
――すなわち純友様のスマホのように、『末那識』にノイズの少ないシステムをインストールしたようなものなのです。
空海に近い能力を持ったこの対象を空海と区別するため空海・異体と呼称します――ッ!!)
口調からYuiさんの焦りが伝わってくる。
(空海・異体は近くの地脈を利用しエーテルを集めているようです。
その結果、高出力で物質界に影響を及ぼすことができているようです)
辛うじて耐えていた数名の僧たちが、今度こそ完全に気を失い、糸が切れた人形のように倒れ伏す。
残ったのは、俺と、膝をつきながらも必死に耐える平判官、そして血を吐きながらも睨み返す良源、慈眼房、寛朝の五人のみとなった。
「……ほう、まだ立つか。だが、ちょうど良い」
怪僧は薄く笑うと、背を向け、再び空へと浮かび上がるように跳躍した。
「叡山と東寺の若いの。貴様らは生かして帰してやろう。
京の師どもに伝えるがいい。新たなる仏が誕生したとな。
――それ以外は、お前たちの好きにするがいい」
それだけを言い残し、怪僧は夜の空へと浮かび、長寺へと消えていった。
――ガアアァァ ァッ!!
主の命令を受け、包囲していた数十人の狂人たちが、一斉に牙を剥いて襲いかかってくる。
「来るぞッ! 退がれ!」
平判官の叫びと共に、俺たちは後方へと飛び退いた。
陣の端には、東寺の兵たちが防御のために並べていた分厚い掻盾や、先ほど薙ぎ倒された牛車や陣の残骸が、バリケードのように積み重なっている。
――ッ。
先頭の狂人に『赤帝の矢』を飛ばし、燃え上がらせた。
派手に燃え上がる狂人――。
だが、そんな炎にも奴らが怯む様子はなかった。
――くそっ。
平判官たちに続き、残骸バリケードへと逃げ込む。
俺は持っている『赤帝地雷符』を、ありったけばら撒いた。
「オオオオッ!」
「せいやぁッ!!」
バリケードの隙間から、慈眼房が鉄の錫杖を振り回し、狂人を打ち据えて骨をへし折る。
平判官も太刀を振るい、迫る敵を両断した。
彼らも、怪僧の呪縛がなくなったおかげか、幾分力を取り戻しているようだ。
だが、数人を斬り伏せ、打ち倒しても、狂人たちは己の死骸を足場にして次々とバリケードを乗り越えようとしてくる。
人間としての限界を外された彼らの腕力は凄まじく、分厚い木枠がメリメリと嫌な音を立てて軋み始めていた。
「くそっ、キリがない……!」
俺の隣で、錫杖や真言を飛ばす良源が、焦燥に満ちた声を漏らす。
前代未聞の怪異と、圧倒的な暴力。
俺たちは死体の山に築かれた陣の片隅で、完全に逃げ場を失い、絶望的な防衛戦を強いられていた。
ここは俺も覚悟を決めるしかないだろう。
「平判官殿――少しの間で構いません。時間を稼げますか!?」
俺がそう言うと、平判官は横目でこちらを見て、強くしっかりと頷いた。
――よし。
これ以上スローライフとか言って力を隠している場合じゃないだろう。
今、俺が「生きるのが危ない」のだから仕方がない。
「――皆さん!! ここに集まってください!!!
少しの間、隠世に避難させます!!」
――ゴゴォォぅ ッ
俺がばら撒いた『赤帝地雷符』が燃え上がっている。
『赤帝地雷符』と平判官が足止めしている間に、『緑青の鏡』の隠世へと、みんなを避難させた。
「平判官殿!!
こちらにきてください!!」
狂人たちを切り伏せながら退避する平判官を、『緑青の鏡』で回収。
「――効いてくれよッ! 急急如律令ッ!」
懐から取り出した『隠行符』を起動させる。
百鬼夜行の鬼たちにも効いたんだ。
俺は効果を確かめる時間も惜しみ、狂人たちの間を潜り抜けるようにして、彼らの囲みを突破するのだった。
【第十九話・用語解説】
■ 平安用語・密教用語
・掻盾
板を並べて作った持ち運び可能な盾。矢や攻撃を防ぐため、地面に立てて並べ、簡易的な防御陣として用いられた。
・大威徳明王
五大明王の一尊で、西方を守護する明王。梵名ヤマーンタカ(「死神ヤマを降す者」の意)。水牛にまたがり、六面六臂六足の姿で表される。閻魔をも打ち倒すとされ、戦勝祈願や強力な護身・調伏の本尊として信仰される。
・大威徳明王の真言
「オン シュチリ キャラロハ ウン ケン ソワカ」。大威徳明王を呼び出し、その加護・調伏の力を得るために唱えられる真言。
・下丹田
道教における「丹田」の一つで、臍下(へその下)に位置するとされる、気(生命エネルギー)が集まる要所。「気海」とも呼ばれる。
・督脈
中国医学・道教で説かれる経絡(気の通り道)の一つ。背骨に沿って会陰から頭頂まで伸びる、体の背面を走る主要な経絡とされる。
・百会
頭頂部に位置するとされる経穴。督脈が至る終点とされ、全身の気が集まる要所として重視される。
・即身成仏
真言密教の中心教義の一つ。この身このままで仏の境地に至ることができるとする考え方。本作では、怪僧が道教の内丹術による境地をこの語で僭称している。
・解脱
仏教における、迷いや苦しみの根源である煩悩から解き放たれ、悟りの境地に至ること。
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※AIを文章の校正・改稿、設定整理、資料調査、アイデア検討等に活用しています。また、一部の本文にはAIが生成した文章を直接使用しています。物語・世界観・登場人物・展開等の創作および最終的な文章の判断は作者が行っています。
※本作に登場する仏教用語・哲学用語・科学用語は、実在する思想・学説・科学的知見を参考にした、作中独自の解釈です。現実の思想・学説・科学的見解を厳密に説明するものではありません。
※本作に登場する歴史上の人物・出来事は、実在の史実を題材としておりますが、人物像・人間関係・行動・出来事などに作中独自の創作・改変を含みます。史実とは異なる部分がありますので、歴史創作としてお楽しみください。




