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第十八話 夜警




 夜の帳(とばり)が下り、干上がった犬上川(いぬかみがわ)の河口にも、わずかばかりの涼風が吹き始めた。


 木柵に囲まれた村の中では、いくつもの篝火(かがりび)が赤々と焚かれ、疲れ切った犬上の郡兵や難民たちが、身を寄せ合うようにして浅い眠りについている。

 平判官(たいらのほうがん)殿は、犬上大領(いぬがみのたいりょう)たちと一緒に屋根のある場所で休憩していた。


 そしてその部下である剛太(ごうた)を含む五人は、交代で夜警の任に就いている。

 夜警といっても焚き火を中心にし、車座になって交代しながら起きているだけなのだが――



「主計(かずえ)の少属(しょうさかん)殿は屎(くそ)が長いのう」



「お筥(はこ)がのうて、致せなんだか?」




  ――ドッ


     ――ハハハハッ


        ――ワハハハッ




 筥(はこ)とはこの時代の貴族が家で使っている「おまる」だ。


 こいつら基本、野糞で全然OKなタイプだから、貴族の習慣のことイジってきてやがる。

 隠世(かくりよ)の塗籠(ぬりごめ)から帰ってきた俺は、夜警の様子を見るため彼らのところに立ち寄っていた。



 やっぱりこいつら俺のこと舐めてるな。



 俺が弱そうに見えるからだろう。

 力こそジャスティスなこの世界、強そうに見えることは大事なのだ。


 ただ俺も下級だが貴族なのは貴族、あまりイジり過ぎても良くないという認識なのだろう。笑いが収まる頃には、こいつらの話題はこの村のことへと変わっていった。



「しかし、京も死体だらけだが、ここも変わらんのう。

 田舎はもっと食い物があるように思っていたが、日照りなのはどこも変わらんか」



「村のものは、淡海(おうみ)も水が減って獲れるのは死んだ魚ばかりじゃといっておった」



「目先の快楽に目が眩んで、邪教に転ぶ気持ちもわからなくはないな――」



 そんな感じに話しながら、周囲を警戒している。



「……あの、護衛の方々」



 ふと、背後から蚊の鳴くような細い声がした。



 この場に緊張が走る。

 皆、手に持った武器を身構え、声のした暗闇へと目を凝らした。


 振り返ると、先ほどの職人の妻が、夜闇に紛れるようにしてひっそりと立っている。



「このような夜更けに……いかがした? 主(あるじ)はどうした」



 武器を構えた一人が、そのままその職人の妻に話しかけた。



「夫は……疲れ果てて、死んだように眠っております」



 彼女は怯えたように周囲を窺いながら、火のそばへと歩み寄ってきた。

 火の粉が舞う明かりの中、泥に汚れてはいるが、その顔立ちはどこか儚げで、いかにも村の女といった風情だった。



「ここへ逃げてこられたとはいえ、まだ……恐ろしくて。

 あの怪僧の目が、今も闇の中から私を覗き込んでいるようで、身の震えが止まらないのです……」



 女はそう言うと、話しかけた男の袖口にそっと白い指を添える。

 ガタガタと、本当に小刻みに震えているようだった。



「どうか、護衛の方々……。少しだけ、お側におらせてはいただけませぬか。皆様のような強いお方のお側にいれば、私も、少しは心強く……」



 周囲の男たちは毒気を抜かれたように、武器を下ろし、「……まあ、ここに座るくらいなら」と職人の妻を迎え入れる。




 ――おいっ!


     ――緊急だ!!



  ――大領殿はおいでか!




 その時、蹄(ひづめ)の音が響き渡り、郡兵たちの声が聞こえると、村の中がにわかに騒がしくなり始めた。

 職人の妻は「ひっ」と短く息を呑み、慌てて身を翻すと、逃げるように闇の中へと消えていく。


 俺たちもそれどころではない。すぐに立ち上がると、騒ぎの中心へと向かった。





――――――――――





 すでに平判官(たいらのほうがん)殿と剛太(ごうた)、そして良源(りょうげん)たちも駆けつけており、駆け込んできた伝令を取り囲んでいた。


 犬上の大領、稲継(いなつぐ)が村の屋敷から飛び出してくる。



「何事か! 怪僧の兵が夜襲でも仕掛けてきたか!」



「いえ、違いまする! 東山道の方角より、松明の列が……軍勢が、夜の山を越えて長寺(おさでら)へと向かっております!」



「なんだと……?」



「先頭を進むのは、二十人近い僧兵たちでした!

 当陣には目もくれず、真っ直ぐに甲良郷(こうらごう)へと進軍しております!」



 伝令の兵は息を乱しながら、報告を口にした。



「東寺の真言衆め……。

 遅陣いたしたかと思えば、当山を出し抜いて夜間行軍とはな……」



 その報告を聞き、良源(りょうげん)は焦りが漏れ出たように呟いた。



「若! 奴らに先を越されては、叡山の面目が丸潰れにございます!」



 慈眼房(じげんぼう)が鼻息を荒くして身を乗り出す。

 だが、伝令の報告はそれだけではなかった。



「さらに! 東寺の僧兵たちの背後には、国司(こくし)様の旗印……!

 そして何より、南の愛知郡(えちぐん)より、依智(えち)の軍勢が合流し、共に百名近くが進軍しております!」



「依智(えち)の軍勢だと!?」



 犬上大領(いぬがみのたいりょう)が、叫び声を上げた。

 その顔には、先ほどまでの疲労は消え失せ、すさまじい憎悪と殺気が浮かんでいる。



「己れ……己れ依智(えち)の奴らめ!

 やはり!! やはり我が郡を滅ぼすための陰謀であったか!

 怪僧と裏で手を結び、国司(こくし)様や東寺の連中まで巻き込んで、長寺(おさでら)を……我が氏寺を完全に我が物にせんとする腹か!」



 これは参ったな――


 このまま、東寺を含む国司(こくし)、依智(えち)連合軍が長寺(おさでら)を制圧してしまえば、依智(えち)が長寺(おさでら)を実効支配することになるだろう。

 そうなってしまうと、我ら「朝廷側のお目付け役チーム」と「比叡山チーム」の面目は丸潰れ、犬上からの信頼も無くしてしまいかねない。



「皆の者、起きよ! 武器を取れ!

 依智(えち)の奴らに我が土地を蹂躙されてたまるものか!

 直ちに長寺(おさでら)へ向かうぞ!」



 大領の怒号に呼応し、疲れ切っていた犬上の兵たちが、次々と殺気立って立ち上がり始めた。


 良源(りょうげん)も手にした数珠を握り締め――



「東寺の者共が国司(こくし)や土豪を味方につけて大立ち回りを演じようというのなら、当山が黙って見過ごす道理はない。

 ――我らも出るぞ!!」



「おおっ! 叡山の法がどれほどのものか、真言の青二才どもに思い知らせてやりましょうぞ!」



 慈眼房(じげんぼう)ら堂衆たちが、野太い歓声を上げて得物を手に取った。

 騒然とする陣の中で、平判官(たいらのほうがん)殿は幾分冷静に、剛太(ごうた)へと視線を向け――



「……剛太(ごうた)。支度をせよ。我らも追う」



「へいへい。ゆっくり休めるかと思いきや、とんだ夜遊びになりやがった。

 ――野郎ども、遅れを取るんじゃねえぞ!」



 長寺(おさでら)の大きさから考えて、中にいる敵は多くても三十人ほどか。

 東寺連合軍が総勢百人ほどの軍勢であれば、いくら怪僧といえど長くは持たないだろう。


 急がねば……。

 開戦してしまっては、横から入ったとしてもどうなるかわからない。


 俺たちは怒号と松明の炎が入り乱れる中、夜の長寺(おさでら)へ向けて、慌ただしく進軍を開始することとなったのである。





――――――――――






  ――パチッ


      ――パチ パチ


    ――パチッ




 長寺(おさでら)を望む場所に設営された陣内。

 そこに焚かれた無数の松明が音を鳴らしている。


 山の影を背にして建つのは、かつて犬上氏の繁栄の象徴でもある氏寺(うじでら)――長寺(おさでら)である。


 村々の粗末な板葺きの家とは一線を画す、重厚な暗灰色の瓦屋根。

 しかし、松明の光に照らし出されている金堂や三重塔の柱は、かつての豪奢な朱塗りが剥げ落ち、雨風に晒された黒ずんだ木肌を晒している。


 古いが、格式高き古寺といった所だろうか。

 だが、そんな格式高き古寺の周囲には、無骨な丸太の木柵や、先端を鋭く尖らせた逆茂木(さかもぎ)が何重にも張り巡らされていた。



 仏を祀る神聖な寺院の敷地である伽藍(がらん)が、邪教の者どもの「野戦砦」へと成り果てている。そのアンバランスな対比が、夜闇の中で異様な威圧感を放っていた。



 その長寺(おさでら)へと続く参道の手前、矢の届かぬ平坦な地に、東寺・国司(こくし)・依智(えち)からなる百名近い軍勢は陣を敷いていたのだ。



 無事と言っていいのか?

 俺たちは夜の闇の中、干上がった犬上川(いぬかみがわ)の川床を上流へとひた走り、この陣へと辿り着いたのだ。


 朝廷・比叡山・犬上の連合軍、五十人ほどが、東寺・国司(こくし)・依智(えち)の百人近い連合軍を追いかけるという構図なわけだ。



 追いつくのは、本当に疲れた……。


 遥か東の地平に点々と連なっている灯りを必死に追いかけたのだ。

 暑さによる水を求める身体の渇き。

 それに加え犬上川(いぬかみがわ)の足元に転がるごつごつとした岩に足を取られそうになりながらも黙々と歩くのはかなり大変だったのである。



 幸い、牛車や輿を連ねた大部隊だったらしい東寺連合軍のスピードは遅く、俺たちが川を上り切る頃、奴らはやっと到着したぐらいのタイミングだったようだった。


 あとは彼らが陣を張っている間に、綺麗に整理され、碁盤の目のように区画された通りやすい道を進む。

 かくして、日照りで無惨な様を晒している、枯れ果てた水田に囲まれた、東寺連合軍の陣へと辿り着いたのだ。



 陣の奥には天幕が張られていた。

 今現在、俺たちはその天幕内にて顔合わせをしている。



「――ですから!

 我ら依智(えち)が兵を出したのは、犬上の不手際を補うため!

 このままでは日照りの影響が少ない我らの郷まで、怪僧の害が及びまする!」



 陣幕の内で平伏するようにして訴えていたのは、肌の色艶もよく、がっしりとした体躯の男――犬上の南にある愛知郡(えちぐん)を牛耳る依智大領(えちのたいりょう)であった。


 その先には、小さいが立派な意匠の床几(しょうぎ)に腰掛ける年若い青年がいた。

 おそらく国司側であろう、ただ、この目の前の青年は目代(もくだい)にしては若すぎる気がする。


 もしかしてこの若さ、源高明(みなもとのたかあきら)、近江権守(おうみのごんのかみ)本人か?


 直接その顔を見たことなどない。だが、近江の国司(こくし)を遙任(ようにん)している貴人の名は、書類上で幾度も見ていたのを覚えている。


 帝の異母兄にして、醍醐源氏(だいごげんじ)の御曹司。

 確か年齢は二十にもなってないはずだ。


 通常、京の上級貴族は目代(もくだい)を派遣し、自らは赴任せずに京で政(まつりごと)を行う。


 いわゆる遙任(ようにん)というやつなのだが、この目の前の青年が目代ではなく、国司である近江権守(おうみのごんのかみ)・源高明(みなもとのたかあきら)本人だとするなら、なぜわざわざこんな地方まで下向しているのだろうか。



「……よかろう。犬上にはこの地を治める力が不足しているのは明白。

 朝廷への租庸調(そようちょう)の確保を思えば、まだ水に余裕のある依智(えち)にこの一帯の水利を預けるのが実務上の道理――」



 青年は、蝙蝠扇(かわほりおうぎ)を弄びながら、冷徹な切れ長の目で依智大領(えちのたいりょう)を見下ろした。



「おおっ! 権守(ごんのかみ)様の御裁断、ありがたき幸せ!」



 権守(ごんのかみ)ということはやはり源高明(みなもとのたかあきら)か……。

 依智大領(えちのたいりょう)は「それ以上、下がらないのでは?」というぐらい頭を地面に擦り付ける。



「勘違いをするな」



 源高明(みなもとのたかあきら)はピシャリと扇を閉じ、その視線を依智大領(えちのたいりょう)から外した。

 彼は陣幕の外、不気味な威圧感を放つ長寺(おさでら)へと視線を向ける。



「私がわざわざ都から下向したのは、貴様らの泥臭い領地争いに肩入れするためではない。

 面白いではないか……前代未聞の大干ばつと、民を狂わせる未知の怪異。

 これらを我が手で解き明かし、完全に鎮撫(ちんぶ)することこそが、この源が近江権守(おうみのごんのかみ)として立つ最初の実績となろうと考えてだ」



 そう言い終わると、陣幕に視線を戻し薄く笑った。



「それに、真言の開祖を騙る下賤な者の術理がどのようなものか、学問の徒としてもいささか興味を惹かれるゆえな……」



「お、お待ちくだされッ!!」



 たまらず、俺たちと共にいた犬上大領(いぬがみのたいりょう)が血走った目で怒鳴り声を上げた。



「長寺(おさでら)は我が犬上の氏寺!

 それを勝手に踏みにじり、あろうことか領地まで奪おうなどと……おのれらっ! 怪僧を唆して我らの水を奪ったのはやはり依智(えち)の仕業であったか!」



「何と? 吠えるな、犬上。

 おのれらの徳が足りぬゆえに天は雨を降らさぬのだ。

 水欲しさに我が領地をたびたび荒らしおって、目障りなことこの上ない!」



 依智大領(えちのたいりょう)が鼻で笑う。

 犬上の武者たちと依智(えち)の武者たちが一触即発の睨み合いとなった。



 そんな泥沼の言い争いを、陣の隅から冷ややかに、そしてはっきりと蔑むような目で見ている若き僧がいた。


 権守(ごんのかみ)とほぼ同年代、まだ十代半ばの若さでありながら、厳かな青黒(しょうこく)の法衣を隙なく纏う僧。おそらく東寺の寛朝(かんちょう)であろう。



「……見苦しい。地方の土豪どもの水争いも、貴族の浅はかな好奇心も、関わりのなきこと。

 あの山門の奥に巣食う怪僧は、あろうことか我が真言の開祖・弘法大師の名を騙っておるのだ。

 真言の威信にかけて、この寛朝(かんちょう)が直々に仏罰を下さねばならぬ」



 正義感とプライドの高さを体現したような顔つきの若者は、やはり寛朝(かんちょう)なのであろう。

 握りしめた拳には怪僧に対する怒りが滲み出ていた。



「真言の御曹司殿には、この泥臭い田舎の政(まつりごと)は退屈でおわしたかな」



 俺の横にいた良源(りょうげん)の声が幕内に響く。

 嘲笑を込めた笑みを浮かべて寛朝(かんちょう)を挑発したのだ。



 やめろ。俺のそばで……。

 俺まで仲間だと思われるじゃんか。



 寛朝(かんちょう)が不快げに視線を向けると――



「叡山の山猿どもか。お出ましが遅い。天台の出る幕はないわ」と言い返す。



「無理をせず、京で仏像でも彫っていればよかりしものを。

 まあ、怪僧の根を絶たねば、真言の面目も立たぬであろうて」



 良源(りょうげん)の皮肉に、慈眼房(じげんぼう)が「そうだそうだ」とばかりに荒縄を握りしめ、獰猛な笑みを浮かべている。



「――権守(ごんのかみ)」



 一触即発な陣の中で、平判官(たいらのほうがん)殿が静かに、だが鋭い視線を若き国司(こくし)へと向けていた。



「我らは検非違使(けびいし)。

 帝より直接、この地の怪異と騒乱を鎮めるよう命を受けている。

 国司(こくし)の勝手な裁量で兵を動かし、領地争いに乗ずることは承服しかねまする」



「これは地方の政(まつりごと)。京の武官が口を挟まれるな」



 若き権守(ごんのかみ)は扇を再度開いてピシャリと閉じ、平判官(たいらのほうがん)の言葉を遮った。


 今にも味方同士で刀を抜きかねない空気が膨れ上がっていく。

 話し合いは完全に平行線を辿っていた。




  ――パチッ



      ――パチ パチ


    ――パチッ




 この辺りの水田は干上がっており、カエルの声はおろか、虫の音さえも途絶え、ただ茹だるような熱風だけが吹き抜けている。


 不気味な静寂がこの地を支配していた。




 ……その時だった。




「ノウマク サマンダ バザラダン

 センダ マカロシャダ!

 ソワタヤ――」




 ――ウン


   ――タラタ


     ――カンマン!!




 どこから響いているのだろうか。

 これは幕の外――長寺(おさでら)の方から、地を這うような低い読経の声が響きわたっているように聞こえた。



「不動明王(ふどうみょうおう)の慈救呪(じくじゅ)だ!!」



 寛朝(かんちょう)が叫ぶ。



 ――空気が、急に重くなった。



「ノウマク サマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カンマン ノウマク サマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カンマン ノウマク サマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カンマン――」



 ただの読経ではない。


 腹の底、いや、大地の底から直接脳髄に響いてくるような、重苦しい言霊(ことだま)のうねりが耳元で繰り返されるように感じる。




 ――ガ シャンッ




「……な、なんだ……身体が……」



 剛太(ごうた)が手にした刀を取り落とし、その場に膝をついた。


 見れば、武芸に秀でた平判官(たいらのほうがん)殿でさえも、顔を青ざめさせ、刀の柄に手をかけたまま石像のように固まっている。



(『九字護身法』を発動。バリア強化により、純友(すみとも)様へのエーテル干渉をブロックします)



 Yuiさんが俺にバリアを張ってくれたようだ。



(相手の「心(アストラル)」と「身体(エーテル)」を縛り付け威圧する調伏目的の関数『不動明王(ふどうみょうおう)』が含まれた真言です。

 金縛りに遭ったように身動きが取れなくなり、呼吸が苦しくなります。

 プレッシャーによる発汗や動悸、眩暈など様々な症状を併発します。

 影響を受けている者は、エーテルが乱され、まともに行動ができなくなるでしょう)



 依智(えち)の武者たちも――

 さらには、先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた若き権守(ごんのかみ)源高明(みなもとのたかあきら)でさえ、綺麗な顔を苦痛に歪ませ、崩れ落ちるように膝をついた。



 本物の『呪(しゅ)』の圧力。

 皆が一様に首を掻きむしり、呼吸を苦しげに乱し、滝のような冷汗を流している。

 まるで、見えない巨大な掌(てのひら)で頭から地面に押さえつけられているかのような異常事態。



 俺は周囲を見渡し観察する。



 良源(りょうげん)、慈眼房(じげんぼう)、寛朝(かんちょう)を含む比叡山と東寺の僧たちは、ジャラジャラと数珠をもみ鳴らしたり、指を複雑に交差させて印を結んだりして、聞こえてくるものと同じ『不動明王(ふどうみょうおう)の慈救呪(じくじゅ)』と思われる真言を唱えている。



「ノウマク サマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カンマン ノウマク サマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カンマン ノウマク サマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カンマン――」



 真言の大合唱が周囲に満ちる。


 平判官(たいらのほうがん)殿や剛太(ごうた)などは、良源(りょうげん)たちの真言を聞いていくぶん楽になっているようだが、それとは逆に僧たちの表情からは、必死さと滝のように流れ出る汗が見てとれた。



(相手のエーテル干渉を同じ術で中和しようとしています。

 ――ただ、相手の方が上手のようです。操作しているアストラルの出力が違いますね。どうやらここにいる僧たちよりも、怪僧の方が格段に力が上のようです)



 どんだけ怪僧ヤバいんだよ……。

 俺はエーテル体バリアにより動けているので、とりあえず近くにいる平判官(たいらのほうがん)殿に肩を貸す。



「……すまぬ。身体が上手く動かんのだ。

 これほどの僧の威圧……い、今まで見たことがない……」



 苦しそうに平判官(たいらのほうがん)殿は顔を歪めた。



(純友(すみとも)様もEPを毎分使用して、バリアを維持しなければなりません。

 『緑青(ろくしょう)の鏡』に蓄えられているエーテルから、維持コストを調達するよう切り替えます。



 ――あっ!!


 敵影がここに近づいていますので、ナビゲーションを開始。

 視覚情報にリンクした『情報重畳表示(スマートオーバーレイ)』を起動。敵影を赤の輪郭フレームにて表示)



 視界に広がる赤い大群。

 複数の赤い輪郭の群れが、この陣に迫っていた。




  ――アアア アッ!!


     ――ぎゃああああぁぁぁッ!!




 僧たちの詠唱する真言に混ざり、悲鳴のような声が各所で上がる。



「ノウマク サマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カンマン ノウマク サマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カンマン ノウマク サマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カンマン――」



 張られた陣幕が薙ぎ倒される。

 そこに現れた光景は、阿鼻叫喚の地獄絵図。



 威圧によって動けなくなった兵たちが、松明の明かりにより目を赤く輝かせた無数の人影によって引き裂かれている光景だった。



 その人影は、着ている衣装から普通の村人のようだ。

 ただ、目を赤く輝かせたその様は、恐ろしい異形の獣のような表情をしていた。



 その者たちの錆びた鉈や鍬が、金縛りに遭って身動きの取れない兵士たちの頭を容赦なく叩き割っているのだ。


 一撃のもと、頭蓋を叩き割るその威力。

 明らかに常人の持つ力ではない。


 そんな理性を失った集団が、動けなくなった兵たちを虐殺していたのだ。



 もちろん陣幕を薙ぎ倒したのは、その者たちのうちの一人。


 その者は獣のような叫び声をあげ、苦しそうに呻いている源高明(みなもとのたかあきら)へと襲いかかるのであった。









【第十八話・用語解説】


■ 平安用語


・愛知郡(えちぐん)

 近江国にあった郡の一つ(現在の滋賀県愛知郡・愛知川流域一帯)。本話では、犬上郡の南に位置し、依智氏が勢力を持つ地域として登場する。


・目代(もくだい)

 国司が遙任(京にいながら任国に赴かないこと)する際、代わりに現地へ赴いて実務を執り行った代官。


・遙任(ようにん)

 国司が実際には任国に赴任せず、目代を代理として派遣し、自身は京に留まって収入のみを得る制度・慣行。上級貴族の国司に多く見られた。


・近江権守(おうみのごんのかみ)

 近江国の国司における「権守」(定員外の守)の官職。


・床几(しょうぎ)

 脚を交差させた折りたたみ式の腰掛け。主に屋外での儀礼や軍陣などで用いられた。


・蝙蝠扇(かわほりおうぎ)

 骨に紙を貼った折りたたみ式の扇。骨組みが蝙蝠(こうもり)の翼を思わせることからこの名がある。


・慈救呪(じくじゅ)

 不動明王の真言(呪文)の一つ。「ノウマク サマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カンマン」と唱えられ、密教における調伏・護身の修法で広く用いられる。


■ 登場人物・歴史人物


・源高明(みなもとのたかあきら)【史実を基にした実在人物・オリジナル設定あり】

 醍醐天皇の第十皇子。承平元年(931年)時点では十七、八歳。本作では近江権守として現地に自ら下向してきた青年貴族として登場する。


・依智大領(えちのたいりょう)【本作オリジナル人物】

 愛知郡を治める大領。犬上郡との間で水利をめぐり対立している。


・寛朝(かんちょう)【史実を基にした実在人物・オリジナル設定あり】

 東寺(真言宗)チームを率いる僧。承平元年時点で十五歳。




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※AIを文章の校正・改稿、設定整理、資料調査、アイデア検討等に活用しています。また、一部の本文にはAIが生成した文章を直接使用しています。物語・世界観・登場人物・展開等の創作および最終的な文章の判断は作者が行っています。

※本作に登場する仏教用語・哲学用語・科学用語は、実在する思想・学説・科学的知見を参考にした、作中独自の解釈です。現実の思想・学説・科学的見解を厳密に説明するものではありません。

※本作に登場する歴史上の人物・出来事は、実在の史実を題材としておりますが、人物像・人間関係・行動・出来事などに作中独自の創作・改変を含みます。史実とは異なる部分がありますので、歴史創作としてお楽しみください。

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