第9話:紅炎鶏のスパイススープ①
◆◆◆【レオ】
夜を孕みつつある群青色の空が広がり始めた頃――。
「はぁ、はぁ……」
新人騎士レオ・マクレイは、駐屯所の西階段の手すりにしがみつくようにして、段を必死に上がろうとしていた。
今日は団長バルドゥルが、自ら新人騎士たちに訓練をつけるというスペシャルデーだった。といっても、走り込みと剣の素振りを延々と行うという、気がおかしくなるようなメニューだ。
屋外訓練場を駆け回らされた足はぱんぱんに浮腫み、生まれたての小鹿のようにぷるぷると震えが止まらない。手は潰れた豆だらけで、力がほとんど入らない。
その上、バルドゥルが隣で同じメニューを軽々とこなし、尚且つ笑顔を絶やさなかったという事実が、レオの精神をいっそう削り取っていた。
レオとて、真面目に騎士を目指し、体と剣を鍛えて来た自負があった。その成果が王国騎士団採用という結果に表れているものの、いざ入団してみれば、上官たちとの力の差に圧倒されるばかりだった。
特に団長バルドゥルと副団長ユーリスの2人は、体力もパワーも人間離れしていて恐ろしい。どれほど激しく動いても息切れひとつ起こさないし、木刀で真剣以上の切れ味を見せつけてくる。きっと魔獣相手の戦場では、ますます容赦のない鬼のような戦いぶりをするに違いない。
いや。そもそも魔獣と戦うためには、上官たちと肩を並べるくらいの実力が必要なのかもしれない。でなければ、生き残ることすらできない可能性が――……。
(オレみたいな凡人じゃ、いくら努力しても追い付けない……。このままじゃ、訓練か戦場か、どっちかで死ぬ……。あぁ……実家に帰りたい……)
そう思わずにはいられないほど、レオは疲弊していた。
朝の訓練後、料理長に口から流し込まれたクソまず栄養ドリンクがなければ、本当に死んでいたかもしれない。体は悲鳴を上げているし、本物の悲鳴だって上げたい気持ちだ。
「うっぷ……やばい……」
ぐるぐると目が回り、胃のむかつきが全身に不快感を誘う。
やはり今夜も食欲がない。胃が何も受け付けない。
今すぐ自室のベッドにダイブして、そのまま寝てしまいたいという想いに駆られ、レオは行き絶え絶えに階段を上がる。
しかし、不意にふわりと刺激的な香りがレオの鼻をくすぐった。
(え……なんだ、この匂い)
1階の階段横にある食堂から流れて来る、複雑で誘惑的な空気に思わず振り返ってしまう。
(スパイス……?)
レオは貴族の家の出なので、一応、スパイスには触れて生きて来たのだが、甘さ、辛さ、酸味、香ばしさといった複数の香りが複雑に重なっているのか、何が使われているのか見当がつかない。
ただたしかなことは、例の激マズどろどろ栄養ドリンクではないということだ。
じゃあ、いったい何なんだと、レオは吸い寄せられるように食堂を覗き込んだ。食堂と厨房は料理の受け渡しをするカウンターで繋がっているので、レオは調理場から響く場違いな声を耳にした。
「そぉれ、わっしょいッ‼ わっしょい‼」
ピンクブロンドの髪の女性が、両手にうちわを持って、鍋の前で元気にはしゃいでいる。
レオは「へ?」と間の抜けた声を漏らし、その不思議な光景に目が点になってしまう。
(何かの儀式?)
魔女が怪しい薬を調合した鍋をぐるぐる回す……というファンタジックな理由付けが一瞬頭をよぎったが、にしては動きとうちわが陽気すぎる。
うちわは黒字によく目立つ蛍光ピンクの文字で、「王国騎士団♡」「魔獣討って♡」と書かれている。なんだこれ……という感想が止まらないレオである。
「あ! ほら、成功ですよ!」
「まさか、本当に来るとは……」
レオが呆けたまま突っ立っていると、うちわの女性が嬉しそうに目を瞬かせる。
彼女に呼応するように厨房の奥から料理長のグレゴも顔を出した。グレゴの手には栄養ドリンクのジョッキはなく、代わりにお玉が握られていた。
「……食べてけよ。新人」
どろどろの液体を飲まされずに済むとホッとしていたレオにかけられた、予想外の言葉だった。
この見知らぬ女性はともかく、グレゴは自分たち新人騎士が、食欲が失せるほどの訓練で疲弊していることを把握しているはずだ。だから彼は、いつも栄養の凝縮された飲み物を用意してくれていたと思っていたのに――。
「いや、オレ……食欲なくて――」
「――果たしてそうでしょうかっ?」
レオのやんわりとした拒絶を遮ったのは、ピンクブロンドの女性だった。
彼女はうちわを鉄製のフライパンに持ち替えると、焜炉に火を点けた。
「さぁ!」
荒廃地でしか採掘されない、魔法の力の宿った魔石が仕込まれている焜炉からは、明るいオレンジ色の炎が上がる。熱されたフライパンに手際よく油を敷き、食材を投入すると、ジュワジュワと脂の始める小気味よい音がレオの耳に届いた。
(たまらない音……)
「さぁ!」
グレゴが女性の声に合わせ、鍋の中身を器によそう。
器によそわれたもの――さらりとしたスープの湯気に乗って、香辛料の匂いがレオの鼻先でほどけた。
階段で感じた香りが何十倍にも濃い状態で、レオの感覚を刺激する。自分はこの香りによって、食堂に引き寄せられたのだと気づいた時には、女性がフライパンで焼いていた食材たちが、美しく器に盛りつけられていた。
揚げ焼きされたピーマン、ニンジン、皮つきのじゃがいも、ナス、キノコ。半分に切られたゆで卵。
そして、骨付き手羽元。手羽元の鶏皮は燃えるような紅色をしている。見たこともない鶏だが、パリパリに焼かれた皮の香ばしい匂いからは魅力しか感じない。
赤茶色のスープにバランスよく具材が盛られた料理に、レオは思わずうっとりと見惚れてしまった。
(香りも見た目も、たまらない……)
「さぁ! 召し上がってください!」




