第64話:2人の朝
◆◆◆【ユーリス】
「頭が……いたい……」
厚めの生地でできたカーテンの隙間から漏れ入る朝陽の眩しさに、ユーリスはズキズキと痛むこめかみを押さえながら体を起こした。
見上げると見慣れぬ天蓋が頭上にあり、ここはどこだったかと無理やり思考を働かせる。
そうだ、実家だったと思い出した瞬間、目に飛び込んできたのは無駄に大きなベッドの縁に腰掛け、アデルがピンクブロンドを櫛で梳かしている姿だった。
(寝室に……ベッドにアデル……??)
これには二日酔いもあっという間に吹き飛んだ。ユーリスは飛び上がり、背中からベッドに激突した。痛みに悶絶しながら、アデルに問う。
「ぐぅぅッ! アデル……なぜここに!?」
「ユーリス様、おはようございます……! さすがは侯爵家。寝心地の良いベッドですね! 昨夜は恐れ多くも、同じ寝台で一夜を明かさせていただきました!」
「い……一夜……⁉」」
婚約者の衝撃の言葉に視界がくらくらと揺れた。
一夜って、一晩の? 夜を明かしたという意味の? それを同じベッドで??
油断したらバクバクしている心臓が口から飛び出てしまいそうで、ユーリスは片手で口元を覆った。
昨晩この部屋に来てからは、アデルに対して紳士的に振る舞おうだとか、万が一いい雰囲気になる可能性はないだろうかなどと散々考えていたはずなのに。気が付けば酒で記憶を飛ばしているなど、騎士として、いや男としてあるまじきことだ。
(まさか、俺はとんでもないケダモノに……?)
「お、俺は君に何かしたか……⁉」
「あー、ダイジョウブです。ユーリス様、よく眠っていらっしゃいました。私はベッドの半分で寝させていただきましたよ。大きいベッドはいいですねぇ」
青い顔でぶるぶる震えながら尋ねたユーリスに、アデルはあっけらかんと言い放った。「え」と逆に戸惑っているユーリスのことなど気にも留めず、手際よく髪をセットしていく。アデルは寝間着ではなく、すでにラベンダーブルーのエプロンドレスに着替え終わっているので、ユーリスは未だ寝具が絡みついている自分が恥ずかしくなってしまった。
(うぅぅぅ……なんてカッコ悪いんだ、俺は)
アデルが良眠を取れたようで何よりだが、隣にいながら男として意識してもらえないとは何とも情けない。推しと一線を越えてはならないという、アデルなりのポリシーだろうか。
いつまでも推し抜けできずにいることを改めて重く受け止め、ユーリスは「はぁ」とため息を吐き出した。
「朝ご飯にしましょう!」
アデルがハーフアップにした髪の結び目に留めたのは、ユーリスが贈った金木犀の髪飾りだった。
なんとなく、彼女が照れを隠すように明るい声を出しているような気がしたが、ユーリスにその理由は分からなかったのだった。
***
ダンッと包丁を振り下ろすと、ユーリスの腹に向かって瑞々しい赤色が弾け飛んだ。血ではない。トマトの汁だ。
「うわぁ……見た目が事件……。包丁は食材に打ち付けるんじゃなくて、スッと押したり、引いたりするとよく切れますよ!」
「ふむ。刀のような扱いだろうか」
「そうです! さすがはユーリス様!」
「ふふん」
ちなみにこのトマトはブラッドトマトという品種らしく、布に付着したら絶対に色が落ちないらしい。先に言っておいてほしかった。
ユーリスは、生まれて初めて実家の屋敷の厨房に立っていた。
料理など日頃はまったくすることがない。包丁を握り、鍋の番をしたのはもう何年も前のこと。王国騎士団の野営でも食事係を担当するのは新人騎士たちであり、副団長のユーリスが調理に携わることは皆無なのだ。
「まさか一緒に料理をしたいとおっしゃるなんて。私、白昼夢をみているかと思いましたよ」
「そこまで言うか? まぁ、たしかに俺は料理が得意じゃない。あまり食べ物にもこだわってこなかったしな……」
侯爵家の厨房は造りが古く、水回りが不便だった。だが、使い手たちが大切に扱ってきたのだろう。どこもピカピカに磨かれており、丁寧に使い込まれていることが見て取れた。
義母だろうか、とユーリスは鏡のような調理台に無言で触れた。
この家に専属の料理人はおらず、料理好きのダリアが皆の食事を作っているはずだ。社交界では“変わり者”だと噂されていたが、やっていることはアデルと似ている。
「純粋に、いいと思ったんだ。誰かに料理を作ることが。君は騎士たちの料理に想いを込めるだろう? また一日、無事に生き延びられるように……。笑顔で明日を迎えられるようにと……。口下手な俺でも、同じことができたらと……そう、思ったんだ……」
「ご家族に、ですか?」
言いながら恥ずかしくなってしまい、ユーリスはしまいにはこくんと頷くことしかできなかった。
ただでさえ、昨日はギスギスとした態度を取っていたところを見られているのだ。アデルがそんな自分に失望していないかが気にかかり、つい沈黙して固まってしまった。
家庭の味や、母の味なんてものから遠い場所で生きてきたせいか、ユーリスは「食」に興味を持てなかった。胃に入れば味など関係ないと思っていた。
だが、今では料理の一皿一皿を噛み締め、味わいたい。
アデルが王国騎士団にやってきてから、ユーリスは食べることの大切さや、作り手の願いを知ったのだ。
だから、気づくことができた。昨日の夕食には、家族のユーリスへの想いが詰まっていた。
「ユーリス様のお気持ち、きっとご家族にも伝わりますよ! 人を笑顔にするのは、いつの時代だって美味しいご飯なんですから!」
「なッ⁉ アデル⁉」
両手がお玉と鍋の蓋で塞がっていたアデルが、ユーリスの背中にぐりぐりと額をこすりつけてきたのだ。
他に訴える手段は考え付かなかったのかと言いたかったが、彼女なりの励ましなのだろうか。
(その言葉は叔父上の……いや、今はそれよりも)
聞き覚えのある言葉が胸を衝くと同時に、その動作のあまりの可愛さにユーリスは感情が崩壊しそうになってしまう。
アデルはどの推しにも同じことをするのだろうか。自分以外には絶対にしないでほしい――。
「その奇行は今後一切禁止する……!」
ユーリスが「権力のある推しでよかった」と思った唯一の瞬間であった。




