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第63話: 私だけの『婚約者』様

【アデル】



「背中を貸してほしい。今、君は、俺の……俺だけの『婚約者』だろう……?」


「……お酒くさいですよ。飲み過ぎです」


(あぁ……こんなユーリス様……私は知らない……)


 酔っているのだろう。

 聞いたことのない弱々しい声と、毛布越しに伝わってくる緊張感。「仕方ないですね……」と答えると、ほんの少し、ユーリスがアデルを抱きしめる力が優しくなった。




 ユーリスは「ごくありふれた話だ」と前置きをしてから、静かに語りだした。


「母は使用人の身で父に見初められ、侯爵夫人になった。それをよく思わない者も当然いて……俺が7つの頃だ。信用していた侍女が、母を毒殺した。俺の食事にも微量ながら毒が盛られ続けていて、体の弱かった母が先に亡くなったことで、それが発覚したんだ。俺はすぐに王都の病院で解毒治療を受け……無事に退院したが、なかなか元のようには戻れなかった。例の侍女に相応の処分を与えたと父が言ったところで、母は帰ってはこない。俺を貼り付けた笑顔で出迎える侍女たちの目が恐ろしかった。皆が敵であるわけがないのにな」


「ユーリス様……」


 アデルは毛布の中で唇を噛み締めた。

 貴族の世界から嫉妬は切り離すことができない。だが、仲睦まじい両親や親戚、使用人たちに囲まれて育ったアデルは黒い感情に晒された経験がほとんどなかった。あったとしても、お茶会で嫌がらせを受けた程度だ。


「父は俺を気遣い、しばらく女性の使用人を遠ざけてくれていたんだ。だが、俺があまりにも不甲斐ないまま、部屋に引き籠っていたからだろうな。やり方を変えて、新しい『母』を連れて来た」


「ダリア様……ですね?」


「あぁ。愛情に触れることで、俺を立ち直らせようとしたんだろう。ダリアさんは根っからの善人で、愛情深くて、優しくて……。父を前に進ませたことにも納得できる、素敵な女性だった。俺にも根気強く話しかけてくれたよ。そのおかげで……結果的に俺は、部屋の外に出ることができた。ただし、屋敷の外だ」


 すり……と、ユーリスの額がアデルの背中に擦り合される。後悔しているような声音だった。


「その頃ちょうど、バルドゥル様が同年代の付き人を探しているという話があって、俺は自らその役に志願した。せっかく父と一緒になってくれたダリアさんから、時間を奪うことが申し訳なくて……、家にいたくなかったから。俺がいなければ、父も彼女も、もっと自由で……もっと幸せなんじゃないかと思えてならなくて……」


 アデルは腑に落ちた感覚を覚えて目を閉じた。


 ユーリスがバルドゥルに執着し、仕事に没頭していた理由。彼のそばを離れなかった理由――。

 ユーリスにとってバルドゥルは、自身を問答無用で包容し、信頼し、求め、肯定してくれる太陽のような男性だ。彼の隣はユーリスの単なる居場所ではなくて、“逃げ場”だったのだ。


「バルドゥル様について行く形で、叔父上に騎士見習いとして預かってもらい、その後は士官学校の寮に入った。実家に顔を出さない日々が続く中、エリーゼが生まれた。叔父上に引きずられるようにして誕生祝いだけは行ったが、その時の父とダリアさんの幸福そうに笑む姿を、俺は忘れられない……」


 ユーリスはきっとその時、家族が自分抜きで完成しているように見えたに違いない。

 まだ大人になりきれていない、けれど子どもでもない。そんなユーリスが異分子の自覚を持ってしまったことは、その後の彼の生き方に影をもたらした。


「悪人なんていないんだ。父も俺のためを思っていて、ダリアさんも何度も手を差し伸べてくれた。エリーゼはあんなに純真無垢で、俺のこと『兄さま』と呼んでくれる……。だがそこに、俺の居場所は……」


 ユーリスの声がくぐもる。漏れ出す感情を押さえようとしている。「本当に、ありふれた話だよ」と自虐的に言い放つ彼の腕に抱かれながら、アデルはバルドゥルのいる城へ、そして王国騎士団へと帰って――逃げていく副団長の背中を思い浮かべた。


 副団長の鎧をまとったユーリスは、強くて凛々しい。けれど、愛することも愛されることも下手くそだ。


「ユーリス様」


 毛布にくるまったまま体をねじって振り返ろうとしたアデルに、ユーリスは「そのままでいてくれ」と懇願するように言った。


「……こんな話を聞かされたら、君はますます俺に嫁ぎたくなくなってしまうな……。本当にどうしようもない『婚約者』ですまない……。いや、すまなかった。これまで君の献身に気づかず、ずっと孤独にさせていた」


 ユーリスの口から出た、アデルとの向き合い方に関する、おそらく初めての謝罪だった。

 あの3年間を振り返ったのは自分だけではなかったのだと、アデルは静かに唇を噛み締めた。


 今さら――そう耳元で唱える自分と、ようやく、と顔を上げたくなるアデルがいた。


 ユーリスは言葉を紡ぐ。やはり酔いがそれなりに回っているのか、少しずつ呂律が怪しくなっていた。


「俺はみっともなく君に縋りついて……『特別』になろうとした。だが、根本が変わらないのでは意味が、ない。家族から逃げ続けている男が、人ひとり幸せに……できるわけがないんだ。俺は君の幸せも邪魔したくない。もし……『副団長』としても解釈違いで……箱推しの箱からも除いてしまいたいと思ったその時は……遠慮なく、言ってくれ……」


「酔ってますねぇ……。ワイン、美味しかったですもんね」


 ひりひりと痛む胸に息を吸い込む。

 アデルは毛布越しにユーリスの両手をよしよしとあやすように撫でながら、彼に尽くしてきた――尽くしてきた「つもり」の日々を思い出す。


(過去の私がしてきたことは、『献身』なんかじゃない。ただ、婚約者が王国騎士であることが嬉しくて、舞い上がっていただけ。私はユーリス様の外側しか見ていなかった。王国騎士の隣にいる自分を夢見て、形だけの歩み寄りをして――)


 ユーリスがそっと、アデルの手を握った。布の向こうにある大きな手は強張っていて、握り返すと驚いたように小さく震えた。


 そういえば、まともに手を繋いだことがないかもしれないと思うと、アデルにはユーリスとのこれまでの関係が、酷く薄っぺらくて脆いもののように感じられた。


(そうか……。私は恋を知らなくて、ユーリス様は愛し方を知らなかったんだ……)




 ユーリスは、きっと気づいていた。

 酒が苦手な父親が、自分のためにワインを開けてくれたことを。

 いつまでも少年の胃袋だと思い込んでいる義母が、たくさんの肉料理を作ってくれたことを。

 義兄に喜ばせたいと思った義妹が、摘んできた花を卓上に飾っていたことを。

 婚約者が間を取り持とうと、彼らを手伝っていたことを。



 アデルも気が付いていた。

 ユーリスが怪我をした父親の容態を気に掛け、使用人たちに話を聞いて回っていたことを。

 屋敷の食堂にあった燻製の本に染みついていた香りは、ユーリスが駐屯所で食事代わりにしがんでいた干し肉と同じものだということを。

 義妹が飾った花をユーリスは愛おしそうに見つめ、こっそりと1輪ポケットに入れていたことを。





「お夕食、とっても味わって食べていらっしゃいましたね……。それに最後は『美味しかった』というご感想まで。私、感心しちゃったんですから」


 大切に思われていることをユーリスはちゃんと分かっている。ただ、その応え方が不器用なだけ。


「私は分かってましたよ」


 アデルがそう言うと、ユーリスは無言で両腕に力を込めた。これもまた、彼の不器用な返事なのだろう。


「人はお腹がすくと、悩み出しちゃうんですって。だから今夜は美味しいご飯の夢を見て、明日、朝食をたっぷり食べましょう。腕によりをかけますよ、私」


「アデル……ありがとう……」


 ぐすんっと鼻をすする音がする。

 今、ユーリスはどんな顔をしているのだろう。







 アデルが朝ご飯に何を作るかを話していると、ユーリスはゆっくりとまどろみの淵へと落ちていった。


「おやすみなさい、私の『婚約者』様」


 明日の朝、ユーリスは覚えていないだろう。アデルが毛布から這い出て、彼の額にそっと口づけを落としたことを。


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