第62話: 俺だけの『婚約者』
【アデル】
出窓に置かれた水の入ったグラスに、一輪のシクラメンが活けられていた。白いシクラメンの花言葉はたしか「思いやり」だったなと思考と飛ばすアデルに、ユーリスがもう一度、念を押すように唇を動かした。
「ここは、君の寝室でもあると言ったんだ」
「聞こえてます! 聞こえております!」
改まった口調で告げてきたユーリスは、自分でそう言ったくせに頬が赤らんでいる。無論、アデルの顔も真っ赤になっていた。
よく考えれば、当然のことだ。アデルとユーリスは婚約関係。日頃は同じ職場で働き、今日も2人揃って現当主の危機に駆けつけた。
つまり、傍から見れば、いつでもどこでも一緒にいる相思相愛の順風満帆カップルなのだ。
「推しと同じ部屋で寝るなんて恐れ多いです! 隣の部屋から壁越しに存在を感じるくらいがちょうどいいかと……!」
「それはそれでどうかと思うぞ」
アデルはユーリスの上半身から目を逸らしながら、顔の前であわあわと恥ずかしそうに手を振った。
なぜか、駐屯所での訓練後と大違いだ。騎士たちが汗を流すため、ポイポイとシャツを脱いで水浴びをしているところはよく見かけるし、その筋肉を査定するくらいのことは度々やってきたアデルなのだ。
(なのに、ユーリス様だけ……なんで……)
ドッドッドと心臓が暴れ、ぎゅっと目をつぶって固まっていると、「安心してくれ」というユーリスの角のない声が降ってきた。
「君が嫌がることは何もしない」
目を開けると、ユーリスは薄いシャツを纏い、ベッドの縁に腰掛けていた。銀色の髪が月明りを受けて色香を匂わすように輝く。ぽんぽんっと自分の隣を軽く叩くその表情は、騎士装束に包まれているときよりもずっと優しく、柔らかく見えた。
「これはこれでどうかと思います!」
「なに⁉」
安全性をアピールしたかったようだが、ユーリスは何も分かっていない。ギャップ萌えという言葉を知らないんですかなどと、アデルは無駄にぷりぷりと怒ってみせながら、頭から毛布を引っ被り、彼の隣にすとんっと腰を下ろした。
まるでオバケのような恰好だ。アデルからはユーリスの表情が薄っすらと透けて見えたが、光の加減で彼からは中身が見えていないらしい。
「どうしてこうなる?」
「怪しげな空気は自ら壊していくスタイルなのです!」
「だが君は、ここには『婚約者』として来たのだと言っていたぞ」
「そ、そうですが……」
「なら――」
「あっ」
毛布越しに肩を抱きしめられ、驚いたアデルはあっけなくベッドに倒されてしまった。
けれど、ユーリスの顔は見えない。彼は毛布にくるまったアデルを背中から抱きしめ、その肩口に顔をうずめていた。
布越しにユーリスの体温が伝わってきて、アデルの心臓はドクンと跳ね上がった。彼の厚い板にすっぽりと収まってしまっている自分自身を想像すると、さらに鼓動の激しさが増していく。
今なら分かる。舞台上の「推し」として見ていたユーリスは、まぎれもなく触れ合える距離にいる「男」だ。ちゃんと血が通っていて、アデルから見えないところで悩んだり、泣いたりだってする。
アデルを抱きしめる逞しい両腕は、まるで縋りついているかのように小さく震えていた。
「背中を貸してほしい。今、君は、俺の……俺だけの『婚約者』だろう……?」




