第26話:目指せ昇格
◆◆◆【ユーリス】
「ユーリス様は推しの一人です」
暗闇にポゥと淡い光が浮かんでいて、ぼんやりとアデルの後ろ姿を形作る。
(違う! 違うんだ!)
泥のようなぬかるんだ地面に足をとられ、ユーリスはもがきながら沈んでいく。光源を追いかけようとすればするほど、身動きが取れなくなる。体が重い。アデルの背が遠くなっていく。
「書面上の婚約関係ですよ」
(俺はそんなこと思っていない! だから待ってくれ! 変わる! 必ず変わるから――)
「どうか、そのままでいてくださいね」
どろりとした地面がせり上がり、愚か者の頭のてっぺんまで飲み込んだ。
(頼むから、こっちを見て――……‼)
「うわぁぁぁッ!」
ユーリスは全身汗だくで飛び起きた。
見渡すとそこは駐屯所にある副団長室で、ユーリスはソファの上で毛布に絡まっていた。どうやら、ここで夜を明かしたたらしい。
(たしか昨晩は歓迎会があって……。その後、ここでバルドゥル様とサミュにアデルのことを話して……)
白い顔で額に張り付く前髪を掻き上げていると、徐々にぼんやりとしていた頭がはっきりとしてきた。
アデルに「推しの一人」認定され、後悔の念と途方に暮れる気持ちを友人たちに吐き出したのだ。珍しく酒をしこたま胃に流し込んだためか、体が他人のもののように重い。
ユーリスは慌てて皺のついたシャツ姿の自分を見下ろし、次に窓から差し込むやや高くなった太陽の光を見てため息を吐き出した。なんとだらしないのだろう。
ユーリスは薄い唇を噛み締めると、両手で己の頬をピシャリと叩いた。悪夢に魘されている場合ではない。目を開けて、逸らさずに、自分の置かれている状況を受け入れなければならなかった。
(アデル……俺は必ず、君の“特別”になってみせる!)
そう決意したのはいいものの、食堂のオープンキッチンにアデルはいなかった。
というか、そもそも誰もいなかった。ユーリスが身支度を済ませた頃には、朝食時間がすっかり過ぎてしまっており、無人の空間はシン……と静まり返っていた。テーブルもカウンターもピカピカに磨かれており、昼間では店じまいといった雰囲気だ。
(う……しまった。風呂に時間をかけ過ぎたか)
婚約者の気を引くという言い方だと俗っぽく聞こえるが、ユーリスはまずはアデルの目に留まらなければと思い、鏡と睨み合いをしてきたのだ。
見苦しい外見ではないと自負しているが、これがアデルの好みの顔なのかと問われると、まるで分からない。ユーリスはいつもバルドゥルのかっこよさをアデルに解いてきたが、彼女が思う「かっこいい」は話題になったことがなかった。
そういうわけで、巷でよく聞く「男は清潔感」をとにかく重視した爽やかユーリスは、ひとりぽつんと食堂に立ち尽くし、ため息を吐き出す。
二日酔いのせいで胸がむかむかするが、しくしくと切なくもある。
(出直そう)
ユーリスがとぼとぼと廊下に出ようとした時だった。
「ユーリス様?」
オープンキッチンの奥の勝手口からひょっこりと顔を出したのは、エプロンを纏ったアデルだった。今日はピンクブロンドの髪を後ろで一つに束ねていて、黒い生地に金色の飾りのついた上品なリボンが彼女の動きに合わせて揺れていた。
(か……可愛い……)
「どうかしました?」
「あ、いや……なんでもない! それより、もう朝食の提供は終わってしまったのか?」
女性を褒める言葉など持ち合わせていないユーリスは、顔の前でぶんぶんと両手を振った。
婚約者の不自然な誤魔化しに小首を傾げながらも、アデルは「まぁ、そうですねぇ……」とホールの振り子時計を見やった。時刻は10時前なので、夜勤明けを除く一般の騎士たちは勤務に出ている頃だ。
「ユーリス様はお仕事の時間では? 今日はバルドゥル団長と王都西部の見回りをして、その後部隊編成の資料の決算をバルドゥル団長からいただいて、バルドゥル団長の防具を鍛冶屋さんに取りに行かれるはずですよね?」
見事にバルドゥル関係の予定がぎっしりである。
「今日は特別に内勤のみになっていて……って、なんでこそまで詳細に把握しているんだ、君は」
「だって、好きなんですもの」
「えっ」
「王国騎士団のことが」
上げて下げる女、アデル。ぽっと頬が赤くなっていて、まるで恋する乙女だ。
だよな……と、ユーリスは肩を落とした。
「事務長さんに差し入れを持って行ったら、全員の1週間分の予定表を見せてくださるんです。騎士様のお仕事内容を見て献立を検討できるので、大変ありがたいです」
(事務長、餌付けされている……ッ! 俺はもう、個人的な差し入れをもらえないというのに!)
その内、騎士たちの個人情報まで流しかねない気がするので、事務長には釘を刺しておく。釘は長いものになるかもしれない。
アデルは婚約者の抱く恨めしい気持ちなどつゆ知らず、キッチンで寸胴鍋の蓋を開けた。鼻腔を刺激する甘い香りがふわりと立ち昇り、ユーリスの腹はぐぅと音を鳴らした。
(しまった。いきなり格好の悪いところを……ッ)
「アデル……これは……その……」
「今から私も朝食なのですが、ご一緒にいかがですか? ちょうど、ユーリス様にぴったりなメニューがありますよ」
「アデルと朝食……?」
もじもじと腹を擦っていた動作から一変。ユーリスは前のめりになり、「ぜひ頼む!」とコクコクと頷いた。
(2人切りで食事……これはチャンスだ! “推しの一人”から昇格してやる‼)




