7、腐敗
楓まちるだが消滅してから、俺は一歩も外に出ていない。パソコンの仮想世界にも入ってはいない。ただそこにある生と、楓ちゃんの幻を、見ているだけだった。
「まことちゃん。今、いくつ?」
《今……七百二十、です。七百二十一になりましたけど》
「…………」
《例えば楓まちるだが、あたしが用意した人間だった、ってカラクリだったらどう思います?》
「どうって……そうだったら、少しはキズが浅くなる……」
《自分勝手というか……心無いですね……》
「ああ、俺はどうしよもない人間だよ。わかるだろ? 俺が正直になんてなったら、世界中を汚しつくしても足りない無産廃棄物なんだよ! ゴミ以上に激しくゴミなんだよ! あらゆる排泄物より汚い世界最悪の汚物。世界一記録を列挙している書物にでも載りそうなくらいだ! こんな、こんな腐った俺の相手してる暇があったら世界の裏社会で暗躍する嘘つき共を更生させてろよ! もう知らん。俺は寝る。全く眠くないけど寝るぞ」
《……楓さんも大島さんも、本物の人間ですよ》
「…………」
《嘘吐かないですよ?》
「嘘吐かないって言う奴は決まって嘘吐くよな」
あーあ。なんか疲れたよ、もう。俺はまた眠ることにして、目を閉じた。
次に起きたのは午後三時。冷蔵庫を開ける。何も無い。買いに行ってくれる楓まちるだちゃんはいるはずもなく、久しぶりに外に出た。半径五メートルの俺の世界から抜け出した。
郵便受けが、臨海間近。俺は三往復くらいして郵便受けを空にした。その後でようやく靴を履いていなかったことに気付く。習慣の消滅をむしろ清々しく感じながら、俺は玄関で靴を履く。履いた後で服とか髪の毛も整えるという習慣も思い出して、一旦靴を脱ぎ、それを実行した。九千円が入った財布を持って家を出て、近所のスーパーに出かける。最低限生きていくのに必要なものを買い揃えた。
六畳一間の部屋に戻って、部屋着に着替える。万年床に飛び込んで目を瞑る。
「あぁ、今日は疲れたー」
大したこともしていないのに、疲れた。
それにしても……やれやれ、いつの間にこんなふざけた事態になってるんだろうか。
――壊れてしまった……いや、壊れるも何も、元々人生なんてものを築き上げたりとか紡いできたりとかしてないからな。言うなれば、安定しない過去をただ積み上げただけ。だから脆い。そういうのを、俺は「成積」っていうね。成績じゃなくて。
昔、視界にあったボンヤリとした不安はもう無い。かわりに、鮮明な不安が、目の前いっぱいを覆いつくしていて、今の俺に、そこに射す光があるもんかって思う。まったく、保留している間に終わってしまうことの何と多いことか。
ホコリ舞う現実とホコリ無き現実。何かすることが罪で、何もしないことが罪だって思って、その時俺は何もしないことを選択した。だってどっちにしても同じなら、楽な方がいいじゃんって。もしも空を飛べたとして、空中でその翼が消えたら。折れたら。その絶望を感じるくらいなら、空なんか飛べなくて良いと思った。ああ、もう。どんなことをしても俺は最低な気がしてきた。まったくね、俺はいつまで漂流している気なんだろうね。まぁ例えば、好きな人でもいてくれたり、以前好きだったあの娘が俺の前に現れて好きだと言ってくれたりしたらちょっとくらいはやる気起きるかもね。いやあの娘のことは今でも好きだな。あぁ、もう知らん。ダメだぁ。俺もうダメだぁ。
――何かできないことがあるのか……いいや、何もできないんだよ。何かとかじゃなくて。
俺が変われば、ようやく俺の世界はまわり出すことになるんだろうが、俺はそれすらこわがっている。変わってしまうのがこわい。振り返れば、失ってボロボロの世界。失ったカケラたち。透明な何かで修理しただけの孔。知り合って仲良くなっても遠くへ行ってしまう友達。傷つけあって疎遠になってしまった人々。そんな世界の真ん中、絶海の無人島。その地下で閉じこもっている。体は外に出られても、心はずっと闇の中。ひとりきり。
あぁ、誰か、誰か気付いてくれないか。誰か連れ出してくれないか。こんなことを考え出す時点で腐ってる。腐敗。負けっぱなしなのに、腐敗。はっはは、どうだこのダジャレ。
「まことちゃん、今いくつ?」
《今の確認で、七百二十二になったです》
「何だ、全然余裕じゃん。大丈夫じゃん! 絶対、大丈夫じゃん……」(ヴ)(ヴ)(ヴ)
「この……」
《あたしにに八つ当たりしないでくださいね?》
「しないよ」
ぼふ。
と俺は結局八つ当たりした。
《もう……いったぁい……》
床に転がったまことちゃんが、咎めるようにそう言った。
(ヴ)




