第三話 堤防の下
朝から降り続いていた雪は、日が暮れてからも弱まらなかった。夕方には道路もすっかり白くなり、夜が深くなるにつれて積雪は増していった。天気予報を見ても、朝まで雪が続くことになっている。
今夜は出る。
夏樹から電話をもらわなくても、それくらいは誰にでも分かる降り方だった。
日付が変わったころから、重機車庫には一台、また一台と車が入ってきた。
浩志も軽トラを停め、防寒着の襟を立てて車庫へ向かった。GD705の周囲を一通り見て回り、タイヤやチェーン、ブレードを確認する。運転席へ上がってエンジンを掛けると、古いディーゼルが低い音を響かせた。
そのままGD705を車庫の外へ出し、暖機させておく。
ほかの機械も次々と外へ出されていた。雪の降る車庫前で、黄色い回転灯がいくつも回っている。
浩志はGD705を降りると、ストーブのある部屋へ戻った。
中にはすでに何人か集まっていた。外の冷え込みとは別世界のように暖かく、ストーブの周りで缶コーヒーを飲む者、スマートフォンで天気予報を見る者、それぞれ勝手に時間を潰している。
「結構降ったな」
「まだ来るべ」
「朝までだな、こりゃ」
戸を開けるたびに冷たい空気が入り込み、外で暖機している重機の音が大きく聞こえた。
しばらくして、智也が時計を見た。
「たまには早く出るべ」
「たまにはって何よ」
誰かが言って、小さく笑いが起きた。
それを合図に皆が立ち上がった。
暖かい部屋から外へ出ると、雪は相変わらず降り続いている。それぞれが自分の機械へ向かい、浩志もGD705のステップを上がった。
準備のできた者から、一台ずつ車庫を出ていく。
浩志も担当路線へ向かった。
まだ十二月の初めだったが、今夜は結構な量が降っていた。
除雪前の道路には新雪が積もっている。このまま車が何台も通れば、同じ場所ばかり踏まれて深い轍ができる。さらに締まれば路面は凸凹になり、普通車なら簡単にハンドルを取られる。
浩志はブレードを下ろし、新雪を路肩へ押しながら進んだ。
担当路線の一つへ入ったところで、雪の上にタイヤ跡があることに気づいた。
一台だけ、除雪前に走っていった車がいる。
「こんなとご走っていったやついんのがよ」
浩志はひとりごちた。
こんな夜なら国道を走った方がよほど安全だった。国道には国道の除雪が入っている。わざわざこれだけ新雪の積もった道へ入ってくることもない。
「国道走れば安全なのによー」
ぼやきながら、そのタイヤ跡ごと雪を押していった。
*
その少し前、一台の大型トラックが堤防沿いの道路を走っていた。
運転手は普段より速度を落としていた。
雪道には慣れている。それでも除雪前の道路を荷を積んだ大型車で走るとなれば、気を遣う。ヘッドライトの中へ絶え間なく雪が飛び込み、ワイパーが一定の間隔でそれを払っていた。
前にも後ろにも車はいない。
新雪の上に、自分のトラックだけがタイヤ跡を刻んでいく。
長い直線へ入ったところで、運転手は前方に何かを見つけた。
「……ん?」
道路の真ん中に、黒いものがいる。
最初は雪の上に何か落ちているのかと思った。
だが、動いた。
「熊か?」
子熊ほどの大きさだった。
真っ白な道路の上に、そこだけ黒く塗り潰したような四つ足の何かがいる。
運転手はブレーキを踏んだ。
重い車体が前へ沈み込む。
止まりきれない。
反射的にハンドルを切った。
黒いものがヘッドライトの中で急速に大きくなる。
ドンッ。
車体の前部に鈍い衝撃が伝わった。
「うわっ!」
何かをはねた。
そう思った直後、車体が大きく振られる。
運転手は慌ててハンドルを戻したが、荷を積んだ大型車はすぐには姿勢を戻してくれない。タイヤが路肩へ寄り、そのまま道路の端を越えた。
車体が傾いた。
次の瞬間、大型トラックは堤防の法面へ落ちていった。
運転席が激しく揺れた。荷台から大きな音がして、シートベルトが体に食い込む。
最後に大きな衝撃があり、トラックは斜めになったまま止まった。
運転手はハンドルを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
「……いてえ」
肩を打ったらしい。
恐る恐る腕を動かす。動く。脚も大丈夫だった。
大きく息を吐き、運転手はシートへ背中を預けた。
「なんだよ……」
道路の上では、トラックにはねられた黒いものが倒れていた。
血は流れていなかった。
やがて、その輪郭が崩れ始めた。
頭と胴、四本の脚の境目が曖昧になり、全身が黒い煙のようなものへ変わっていく。
それは風に流されることもなく、その場で薄くなった。
そして消えた。
あとには何も残らなかった。
降り続く雪が、そこを静かに覆っていった。
*
浩志はGD705で雪を押し続けていた。
新雪の上に残っていた一台分のタイヤ跡は、まだ先まで続いている。
しばらく進んだところで、その跡が突然乱れた。
「ん?」
浩志は速度を落とした。
それまでほぼ真っすぐ続いていたタイヤ跡が大きく蛇行している。その先では路肩へ向かって逸れ、道路から外れていた。
跡はそのまま堤防の法面へ続いている。
その先に明かりが見えた。
堤防の下で赤い光が二つ灯っている。その反対側からは白い光が斜めに伸び、降りしきる雪を照らしていた。
テールランプとヘッドライトだった。
「マジかよ……」
大型トラックが落ちていた。
さっきまで浩志がぼやきながら掻いてきたタイヤ跡が、何の車のものだったのかも分かった。
GD705を停め、浩志は外へ出た。雪を踏みながら法面へ近づく。
「大丈夫っすか!」
声を張ると、トラックの運転席側で人影が動いた。
「大丈夫です!」
「怪我してねっすか!」
「肩打ったくらいです!」
「無理して動がね方いいっすよ!」
浩志はスマートフォンを取り出した。
警察と消防、それから親方へ連絡を入れる。
やがて遠くからサイレンが聞こえてきた。
最初にパトカーが到着し、続いて消防車と救急車がやってきた。それまで705一台しかいなかった堤防道路に、次々と車両が並んでいく。
パトカーや消防車、救急車の赤い警光灯が回り、その脇では705の黄色い回転灯が回り続けている。
降りしきる雪が赤や黄色の光を拾い、絶え間なく明滅した。
ついさっきまで静かだった夜中の堤防道路が、赤や黄色い光の点滅で、にわかに賑やかになった。
法面の下では、大型トラックのヘッドライトとテールランプが点いたままだった。
救急隊員が運転手を診たが、幸い大きな怪我はなかった。
警察官が事情を聞き始める。
「どうして道路から外れたんですか?」
「いたんですよ」
「何がです?」
「熊……だと思います」
「熊?」
「道路の真ん中にいたんです。黒いやつが」
少し離れたところにいた浩志が、その言葉に顔を上げた。
「大きさは?」
「子熊くらいです。急に見えて、ブレーキ踏んで避けようとしたんですけど……たぶん、ぶつかってます」
「動物に?」
「はい。音もしましたから」
警察官が懐中電灯を持って道路へ上がった。
事故地点にはトラックの乱れたタイヤ跡が残っている。
だが、雪は今も降り続けていた。
警察官が辺りを照らして探したが、動物の姿はない。血も見当たらなければ、毛も落ちていない。足跡らしいものがあるのかどうかさえ、降り続く雪の中では判然としなかった。
「この辺だったと思うんですけど……」
運転手も道路を見回した。
「絶対ぶつかったんですよ」
トラックの前部も確認されたが、法面へ落ちた車である。あちこちに雪や泥が付き、傷もある。その場で動物との接触によるものだと断定できるようなものはなかった。
浩志は、祐介が塩撒きの最中に見たという話を思い出した。
黒くて、犬より大きかった。
熊かもしれない。
そう言っていた。
西田新聞店の敏夫が見たというものも黒かった。
「……またかよ」
浩志は小さく呟いた。
「何か?」
警察官が振り返った。
「あ、いや。なんでもねっす」
事故対応はしばらく続いた。
大型トラックは、その場ですぐに引き上げることにはならなかった。車両は法面の下に残し、明るくなってから大型車に対応できるレッカー車やクレーン車を手配することになった。
浩志は時計を見た。
かなり時間を食っている。
スマートフォンを取り出し、土田へ電話を掛けた。
『はい』
「つっちー、今どご?」
『今、川西線。県道手前』
「悪い。俺、事故で動げねえ」
『事故?』
「大型、堤防から落ぢでる。警察と消防来てる」
『マジで? 運転手大丈夫なの?』
「大丈夫みでだ。肩打ったぐらいだって。悪いけど、県道だけ代わりに掻いでもらっていい?」
『県道だけ?』
「んだ。ほかは俺やる。終わったら戻るがら」
『分がった。やっとく』
「悪い、頼む」
これで電話を切るものと思った。
『あ、浩志さん』
「ん?」
土田の声が急に真面目になった。
『お願いあるんすけど』
「何よ」
『浩志さん。事故の動画か写真送ってけれっす』
浩志は一瞬黙った。
「……何でよ」
『見でえっす』
「おめ、それがお願いがよ」
『お願いします』
「真面目な声で頼むなよ」
電話の向こうで土田が笑った。
「暇あったらな。まず県道頼むど」
『了解っす』
電話を切った。
警察から除雪を再開して構わないと言われ、浩志はGD705へ戻った。
法面の下には大型トラックが残っている。
「こっちさ雪落とせねえな」
いつもの方向へ雪を押せば、トラックが落ちている側へ雪を落とすことになる。朝になれば大型のレッカー車なりクレーン車なりが来て、引き上げ作業をするはずだった。
浩志はブレードの向きを変えた。
事故現場の手前から、トラックが落ちた側とは反対方向へ雪を掻いていく。引き上げ作業の邪魔にならないよう、事故地点の前後も同じように処理した。
そこまで済ませてから、浩志は残った担当路線へ向かった。
県道は土田がやってくれている。
ずいぶん遅れたが、残りは自分で終わらせるしかない。
雪はまだ降り続いていた。
浩志は再びブレードを下ろした。
土田の頼み事は頭から消えていた。
*
夜が明けてから、大型トラックの引き上げ作業が始まった。
事故の話は、その日のうちに稲沢地区へ広まった。
大型トラックが堤防から落ちた。
運転手に大きな怪我はなかった。
道路にいた熊を避けようとしたらしい。
そんな話になっていた。
祐介は聞くなり食いついた。
「ほら! 俺が見たやつじゃないすか!」
「まだ同じだって決まってねえべ」
智也が言った。
「でも黒かったんすよね?」
「熊だば黒いべ」
「大きさも同じくらいじゃないすか」
「おめのは寝ぼけで見だやつだべ」
「まだそれ言うんすか!」
浩志は二人のやり取りを聞きながら、夜中に聞いた運転手の言葉を思い返していた。
子熊くらい。
黒いやつ。
確かに似ている。
だが、似ているというだけだった。
*
午前中、雄勝猟友会の佐藤勇と後藤慎吾が事故現場を訪れた。
勇は雪の残る道路脇を歩きながら、周囲を注意深く見ていた。
「運転手さんの話では、この辺なんですよね」
「みでだな」
慎吾がぶっきらぼうに答えた。
二人はしばらく雪面を調べた。
事故から何時間も雪が降り続いていたうえ、すでに警察や消防、トラックの引き上げに関わる人間や車両が出入りしている。
勇が一つの跡を見つけてしゃがんだ。
「これ……違いますよね」
慎吾が一瞥する。
「人だ」
「ですよね」
勇は立ち上がり、また別の場所へ移った。
それらしい窪みはいくつもあった。しかし、どれが獣の足跡なのか、そもそも足跡なのかさえ分からない。
「分からないですね」
「これだば無理だ」
慎吾は周囲を見回した。
勇も道路を見ながら言った。
「トラックにぶつかったなら、毛くらい残ってもよさそうですけどね」
「ねえな」
「血もないです」
「ねえ」
勇はしばらく黙ってから尋ねた。
「熊だと思います?」
「知らね」
「慎吾さん見ても分からないですか」
慎吾は勇を見た。
「何も残ってねえもの見で、何分がれってよ」
「……それはそうですね」
二人はその後もしばらく周囲を調べた。
だが、獣がそこにいたと証明できるものは、結局何一つ見つからなかった。
血もない。
毛もない。
はっきりした足跡もない。
残っているのは、大型トラックが道路を外れた跡だけだった。
その日の夕方。
稲沢地区では、また雪が降り始めた。




