第二話 午前三時半
十二月一日。
本格的な根雪にはまだ早かった。十一月にも何度か雪は降ったが、道路を白くした雪はそのたびに消え、田んぼの隅や山際の日陰にわずかに残っている程度だった。それでも朝晩の冷え込みは日に日に強くなっている。
前日の夕方、浩志のスマートフォンに親方から電話があった。
『明日の朝、冷えるみでだ。三時半から塩撒ぐがら、石田さんど乗ってけれ』
「分がりました」
翌朝の最低気温は氷点下の予報だった。日中に降った雨で道路は濡れている。このまま冷え込めば、橋や坂道、日陰になった場所から凍り始める。
雪が積もらなくても仕事はある。
塩撒きだけなら、たいてい前日の天気予報を見て親方が出動を決める。運転手の石田と、その日に助手として乗る者には前もって連絡が入る。
ただし、夜になって天気が急変すれば話は別だった。予報以上の雪が降り始め、除雪が必要になると判断されれば、遅くとも午前一時半前には電話が来る。そうなれば石田の散布車だけではない。稲沢の除雪班全員が起こされ、それぞれの機械に乗ることになる。
この夜、電話は鳴らなかった。
午前三時前、浩志は自分でセットしておいた目覚ましを止めた。着替えて外へ出ると雪は降っていなかった。軽トラのフロントガラスには薄く霜がつき、吐いた息が白く残った。
重機車庫へ着くと、石田はすでに来ていた。
「おはようございます」
「おはようございます。早いっすね」
「初日ですから。遅れたらまずいと思いまして」
「三時半に出れれば大丈夫っすよ」
車庫の中には融雪剤散布車が停まっていた。荷台の後ろに大きなホッパーを載せた中型車で、これがこの冬から石田の担当になる。
浩志は照明を点け、梁に取り付けられたホイストを動かした。車庫の一角には融雪剤の入った五百キロのが並んでいる。その一つに吊り具を掛けると、モーター音とともにゆっくりと持ち上がった。
「石田さん、バックお願いします」
「はい」
石田が散布車に乗り込み、ゆっくりと後退させる。
「もうちょい……はい、そこで」
ホッパー上部の金網が袋の真下へ入った。浩志はホイストを操作し、少し浮かせたところで止め、鎌を手にする。
「切りますよ」
「はい」
袋の底へ鎌を入れた。
切れ目が開いた途端、白い粒が勢いよく流れ落ちた。金網にぶつかり、その隙間を抜けてホッパーへ落ちていく。五百キロの中身がなくなると、しぼんだ袋だけがホイストからぶら下がった。
散布量は一平方メートルあたり二十グラム、散布幅は六メートルに設定した。
「俺が高速で乗ってたやつとは機械違いますけど、やることは大体同じっすよ」
「分かりました」
「今日は俺が助手なんで、石田さんは運転に集中してください」
「お願いします」
午前三時半。
二人を乗せた散布車が重機車庫を出た。
道路は黒く濡れていた。まだ凍っているようには見えないが、気温はすでに零度まで下がっている。
助手席の浩志はスマートフォンを開いた。Googleマップには、道路のあちこちに散布ポイントが表示されている。役所から渡された紙の地図をもとに、浩志があらかじめ一つずつ登録しておいたものだった。共有リンクは石田のLINEにも送ってある。
現在地を確認し、前を見る。
「次、橋っすね」
「はい」
橋の手前まで来たところで、浩志は散布レバーを入れた。
サイドミラーで見ると作業等に照らされて放射状に融雪剤が撒かれているのが見えた。
石田は速度を保ったまま橋を渡る。橋を抜けたところで浩志がレバーを戻すと、散布が止まった。
「次、しばらくないっす」
「分かりました」
二人で乗るときは、散布する場所を判断するのは助手だった。石田は運転に専念し、助手が地図と実際の道路を見ながら必要な場所でレバーを入れ、区間を抜ければ切る。
橋、坂道、交差点。凍結しやすい場所だけを拾いながら、散布車は暗い稲沢を走っていった。
やがて浩志の担当路線へ入った。
地図に印のない場所へ差しかかったところで、浩志は前方を見ながらレバーを入れた。
「ここもですか?」
「んだす。ここ、朝凍るんですよ。脇から水出るんで」
「地図にはなかったですね」
「役所の指定にはないっす。あとでポイント足しときます」
凍りやすい区間を抜けるとレバーを戻した。
こういう場所は、実際にその路線を担当している者でなければ分からない。どのカーブが冷えるのか、どの坂に水が流れ出すのか、どこの日陰だけ路面が乾かないのか。何年も同じ道を除雪していれば、嫌でも覚える。
その日は何事もなく、六時半ごろには予定していた路線を一回りした。
その後も塩撒きの助手は順番に交代した。黒沢が乗れば、自分の路線で「ここも撒いでけれ」と場所が増えた。智也が乗れば坂が一つ増え、祐介が乗れば交差点が増えた。そのたびにGoogleマップへ新しい印が追加された。
最初に役所から指定されていた場所だけでは、五百キロ積んだ塩は一回りしても余った。それが助手を一巡するころには、ほぼ一袋を使い切れるようになっていた。
誰も無闇に撒いているわけではない。それぞれが自分の担当する道路の癖を知っているだけだった。
*
十二月に入って数日が過ぎた。
その日は夕方から細かな雪が降り始めていた。道路へ落ちた雪はすぐに消え、まだ除雪を出すほどではない。夜中になっても積雪は増えず、親方から除雪出動の電話が来ることもなかった。
ただ、明け方には氷点下まで下がる予報だった。
予定どおり、散布車だけが出ることになった。
この日の助手は祐介だった。
午前三時半。散布車が重機車庫を出た。
細かな雪がヘッドライトの中へ次々と飛び込んでくる。
「眠いっす」
助手席の祐介が欠伸をした。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫っす。起きてます」
「今、眠いって言ったじゃないですか」
「眠いのと寝てるのは違いますから」
「それはそうですね」
石田が笑った。
祐介はスマートフォンに表示した地図へ目を落とした。
道路はまだ白くなっていない。散布車は四十キロほどで走り、登録されたポイントへ近づくたび、祐介がレバーを操作した。橋の手前で入れ、渡りきったら切る。坂へ来ればまた入れ、必要な区間を抜ければ戻す。
何度か繰り返しているうちに、散布車は両側に田んぼが広がる区間へ入った。民家も街灯も少なく、ヘッドライトの外はほとんど真っ暗だった。
祐介は次のポイントまでまだ距離があることを確認し、スマートフォンから顔を上げた。
何気なく助手席側の窓を見る。
道路脇に、何かいた。
黒かった。
犬よりは大きい。けれど熊と言うには小さい。四つ足だったようにも見えた。
散布車は四十キロほどで走っている。
ほんの一瞬だった。
「……あれ?」
「どうしました?」
祐介は体をひねって後ろを見た。
暗闇と、降り続ける雪しか見えない。
「今、なんかいませんでした?」
「何か?」
「熊……かな」
「熊ですか?」
「いや、分かんないっす。黒かったんで」
石田もバックミラーへ目をやった。
「どの辺です?」
「もう過ぎました。道路脇っす」
「この時期に熊ですかね」
「ですよねえ」
祐介はしばらく後ろを見ていたが、何も追ってはこなかった。
「見間違いかな」
「眠いって言ってましたからね」
「いや、起きてましたって」
石田が笑った。
祐介もそれ以上は気にせず、スマートフォンへ視線を戻した。
散布車はそのまま次のポイントへ向かった。
その後は何も見なかった。
午前六時半を少し回ったころ、散布車は重機車庫へ戻った。
しかし、祐介にとってはそこからが長かった。
散布車を所定の場所へ入れると、石田はすぐに温水高圧洗浄機を引っ張り出した。塩を撒いたまま放っておくわけにはいかない。まずホッパーの中へノズルを向け、残った塩を温水で念入りに洗い流していく。内側の隅、金網の周囲、塩が入り込んでいそうなところへ順番に高圧の湯を当てた。
ホッパーが終われば、今度は車体だった。
後部、タイヤの周囲、下回り。付着した塩を残さないよう、温水を当てて流していく。
祐介も手伝っていたが、頭の中はすでに朝飯のことしかなかった。家へ帰って飯を食い、八時前にはまた出勤してこなければならない。
「石田さん、もういいんじゃないっすか」
祐介が言った。
石田はしゃがんだまま車体の下を覗いた。
「まだ残ってますよ」
「どこに?」
「そこです」
指を差されたところを見る。
「……分かんないっすけど」
「白くなってるでしょう」
「これ毎回こんなにやるんすか?」
「塩ですからね。残しておきたくないです」
「いや、それは分かるんすけど……」
石田はノズルを持って反対側へ回った。
「祐介さん、ホースお願いします」
「まだやるんすか」
「こっち側がまだです」
「石田さん、綺麗好きすぎるって」
「汚いままの方が嫌じゃないですか?」
「俺は今、腹減ってる方が嫌っす」
石田が声を出して笑った。
結局、石田が納得するまでホッパーも車体も洗い、祐介が解放されたころには七時近くになっていた。
「んじゃ俺、一回帰ります」
「はい。お疲れさまでした」
「八時前には戻ってきます。石田さん帰らないんすか?」
「今から帰っても、またすぐ来ることになりますから。ここで食べます」
「ですよね。じゃ、あとで」
祐介は軽トラに乗って家へ帰った。
石田は詰め所へ入った。自宅からここまでは距離がある。散布のある日は最初から帰らないつもりで、昨日のうちに家で作ってもらった弁当を持ってきていた。
ストーブを点け、誰もいない詰め所で朝飯を食べる。
七時半を過ぎると、重機車庫の周りも少しずつ賑やかになってきた。軽トラや乗用車が一台、また一台と入ってくる。
八時が近づくころには智也、譲、黒沢、土田、辰雄、浩志出勤してきた。一度帰宅して朝飯を食べた祐介も戻ってきた。
詰め所では、いつものように朝のお茶が始まった。
今日どこへ行く。何をやる。午後から雪になるらしい。そんな取り留めのない話が続いている途中で、祐介が思い出したように言った。
「そういや俺、今日の塩撒き中に何か見たっすよ」
智也が湯呑みから口を離した。
「何よ」
「熊……なのかな。分かんないっすけど」
「また熊が?」
「田んぼの辺りっす。道路脇に黒いのいたんすよ」
黒沢が聞いた。
「でっけがった?」
「いや、そんなでもないっす。犬よりは大きかったと思うけど」
「イノシシでねえの?」
「分かんないっす。一瞬だったんで」
石田が口を挟んだ。
「私は見てないんですよ。祐介さんが急に、何かいたって言い出して」
「いたんすって」
ともやさんが笑った。
「おめ、寝でだんでねえの?」
「寝てねえっすよ!」
「三時半だべ。半分寝でだんだべ」
「起きてましたって!」
石田が湯呑みを持ちながら言った。
「出発したときから眠いとは言ってましたけどね」
「石田さん、それ言ったら俺が寝ぼけてたみたいになるじゃないすか」
詰め所に笑いが起きた。
譲は湯呑みを置いて首を傾げた。
「西田新聞店の親父が見だのも、黒いやつだったべ?」
「ああ」
「慎吾さん見でも、結局何だが分がらねがったんだべ」
「みでだな」
「十二月なのにな。熊だば、まだうろついでるやつもいるんだべが」
誰にも答えはなかった。
夏樹が入ってくると、話は今日の仕事へ移った。黒いものの話も、それで終わった。
その日の午後、祐介は車庫の脇に停めていた軽トラから降りようとして、凍った地面に足を取られた。
「うおっ」
尻からまともに落ちた。
「いってぇ!」
近くにいた浩志が振り返った。
「何してんのよ」
「滑った!」
「見れば分がる」
「ケツ打った……」
「若いんだから大丈夫だべ」
「若くても痛いもんは痛いっすよ!」
祐介は尻をさすりながら立ち上がった。
その日の夕方も、稲沢では細かな雪が降ったり止んだりを繰り返していた。




