第一話 囲炉裏を囲んで
本格的な雪が降り始める前の土曜日、稲沢地区の除雪班は小松会館に集まった。
小松会館は稲沢地区に昔からある宴会場だった。大人数の宴会にも使える畳敷きの広間があるが、親方を含めて九人ほどの除雪班でそこを使うことは滅多にない。いつも予約するのは、囲炉裏のある小さな部屋だった。
囲炉裏といっても、本物の炭火を熾すものではない。部屋の中央には囲炉裏を模したテーブルが据えられ、その上には天井から自在鉤が吊り下がっている。昔の農家の座敷を思わせる造りで、九人で料理と酒を囲むにはちょうどよかった。毎年ここで飲んでいるうちに、誰からともなくこの部屋を選ぶのが当たり前になっていた。
今年は単なるシーズン前の飲み会ではない。新しく除雪班へ入った石田の歓迎会も兼ねている。
テーブルには刺身や焼き物、小鉢が並び、瓶ビールも何本か置かれていた。全員が揃ったところで、夏樹が石田を見た。
「へば、今年から石田さん入ったがら。まず一言」
「はい」
石田は軽く頭を下げた。
「今年からお世話になります。分からないことも多いと思いますので、いろいろ教えてください。よろしくお願いします」
「お願いしまーす」
「よろしくー」
あちこちから声が上がった。
「へば、乾杯するべ」
ビールや日本酒、ウーロン茶、ノンアルコールビールがそれぞれ持ち上がる。
「乾杯!」
グラスが鳴った。
石田は酒が好きだった。ただし、周りにつられて次々と空けるような飲み方はしない。最初のビールをゆっくり口にし、料理をつまみながら自分のペースで飲んでいた。
その隣で、浩志はウーロン茶を飲んでいる。
「浩志さん、飲まないんですか?」
石田が気づいて聞いた。
「俺、酒飲まないんすよ」
「それは意外ですね」
「よく言われます」
見た目のせいなのか、酒も煙草も相当やりそうだと思われることが多い。実際にはどちらもやらない。
向かい側では、つっちーがノンアルコールビールを飲んでいた。
「つっちー、それ今日もノンアル?」
「んだ」
「飲み会だぞ」
「筋肉に悪いがら」
「またそれがよ」
智也が笑った。
「酒飲まねくせにタバコ吸うべ」
「それは別」
「何が別なんだよ」
「筋肉に酒はいらねえもの」
「タバコもいらねえべ」
「それは別だって」
「どんな理屈だよー」
笑いが起きた。
譲と智也は、乾杯からほとんどペースが落ちなかった。智也は酒を飲みながら煙草も吸う。譲も昔は吸っていたが、禁煙してからもう長い。今では煙草を欲しがる様子もなく、酒だけが順調に減っていく。
辰雄も機嫌よく飲んでいた。禁煙に成功したばかりで、煙草の話になると妙に得意げだった。
「俺もう全然吸いたくねえもの」
「まだ何か月よ」
「関係ねえ。もうやめだ」
「飲んだら吸いたくならねえ?」
「ならね」
智也が煙草の箱を差し出す。
「一本やる?」
「いらねって!」
「二本やる?」
「もっといらねって!」
黒沢は酒にはそれほど強くないが、煙草の本数なら誰にも負けない。それでも飲み会ではちゃんとビールを飲み、煙草を吸い、またビールへ戻る。
祐介は一杯目からすでに顔が赤かった。
「祐介、もう赤いぞ」
「俺、赤くなるだけで飲めるんすよ」
「親父もそうだもんな」
「そうなんすよ」
祐介は気にせずグラスを空けた。
それを見ていた夏樹が、何の脈絡もなく言った。
「祐介、今年も事故起こすなよ」
「なんで俺なんすか」
「気ぃつけれよ」
「いや、俺、事故起こしてないっすよ」
「今年こそやるがもしれねえべ」
「縁起でもねえこと言わないでくださいよ」
何人かが笑った。
別に祐介が事故を起こしたことがあるわけではない。いつから始まったのかも分からない、仲間内でのただのいじりだった。
「事故って言えば、かべちゃんだべ」
智也が浩志を見た。
「なんで俺になるのよ」
「ナナマルゴ落としたべ」
「落としてねえよ」
「落としかけたべ」
「タイヤ半分だけだって」
「それ落ちでるべ」
「完全には落ちてねえもの」
黒沢が煙草をくわえたまま笑った。
「自分で上がれねがったんだべ?」
「……上がれなかったけど」
「土田のサンゴーで引っ張ってもらったべ?」
「もらったけど」
「へば落ちでるべ」
「落ちかけただけだって」
浩志が反論すると、今度は祐介が嬉しそうに笑った。
「親方、今年事故起こすなって言うなら、浩志さんに言った方いいっすよ」
「おめは黙ってれ」
「なんで俺だけなんすか!」
また笑いが起きた。
石田も一緒になって笑っている。こういう席に一度入ってしまえば、今年から来た人間だという壁は思ったより早くなくなっていく。
料理が減り、酒が進んだころ、話は自然とこれからの仕事へ移っていった。
「石田さん、散布車乗るってことは中型持ってるの?」
「大型持ってますよ」
「大型?」
「はい」
「二種は?」
「大型二種もあります」
浩志が箸を止めた。
「大型二種まで持ってるんすか」
「持ってますよ」
「なんで?」
石田が少し笑った。
「なんでと言われても。昔取りましたから」
智也が面白がって口を挟んだ。
「バイクは?」
「昔限定解除しました」
「他には?」
「船舶とかも」
石田が持っている船舶免許を答えると、譲が呆れたように笑った。
「それ、客乗せる船も操縦できるやつでねえの?」
「できますね」
浩志は思わず笑った。
「石田さん、農家ですよね?」
「農家ですよ」
「稲作農家に必要ねえ免許ばっかりじゃないすか」
「取れるときに取っておこうと思いまして」
「飛行機は?」
「さすがにそれは持ってないです」
「飛行機だけかよ」
部屋に笑いが起きた。
すると、それまで免許の話ではすっかり蚊帳の外だった祐介が、急に身を乗り出した。
「俺、ドローン免許あるっすよ!」
智也が間髪を入れずに返した。
「調子こぐな! それなばオレも持ってる!」
「知ってますよ!」
「へば何自慢してんのよ」
「いいじゃないすか! 俺だって一個くらい自慢しても!」
智也がドローンの免許を持っていることは、全員知っている。農業法人で働いているのだから、むしろ仕事の延長にある資格だった。
「祐介、ほか何持ってんの?」
進藤に聞かれ、祐介は指を折るまでもなく答えた。
「普通取って、そのあと中型っすね。農業でトラック乗るんで」
「それだけ?」
「それだけって言わないでくださいよ。二輪もねえし、二種もねえし、船もねえっすよ」
「大特は?」
「それは仕事でいるからありますけど」
「へばあるべ」
「でも石田さんの話聞いたあとだと弱いじゃないすか!」
「あ、大型特殊なら持ってますね」
石田がお酒をクイッと一口飲んでから言った。
それを聞いた皆が笑った。
浩志が笑いながら石田に聞いた。
「石田さん、ドローンは?」
「ドローンは持ってないですね」
祐介の顔がぱっと明るくなった。
「ほら!」
「何が、ほら、なのよ」
「俺、勝った!」
「何に勝ったんだよ」
「ドローン!」
「そこだけだべ」
「そこだけでも勝ちは勝ちっすよ!」
「免許で勝負してねえから」
石田も笑いながらグラスを口へ運んだ。
夏樹が話を戻した。
「まあ、免許は問題ねえな。あとは散布のルートだな」
「そうですね。どこで撒くかはまだ全然分からないです」
「紙の地図あるがら。それ渡す」
「除雪ねえ日は、助手一人つくんだべ?」
黒沢が聞いた。
「んだ。順番でな」
融雪剤散布は、本格的な除雪が始まる前から仕事になる。
雪が降らなくても、道路が濡れたまま明け方に気温が氷点下まで下がれば路面は凍る。そんな日は除雪車が一台も動かなくても、散布車だけが出る。午前三時半から走り始め、おおむね六時半には一回りを終える予定だった。
運転手は石田である。
ただ、それを毎回石田一人の仕事にすれば、他のメンバーより深夜早朝の勤務が明らかに多くなる。当然、給料にも差が出る。そのため二人まで乗っていい日は、ほかのメンバーが順番で助手席に乗ることになっていた。
「雪降らなくても結構出るんだべ?」
「凍ればな」
「濡れてれば撒かねばねえしな」
夏樹が浩志を見る。
「最初、浩志さん乗ってやればいいべ」
「俺?」
「高速で散布車乗ってたんだべ」
「乗ってたけど」
「へば、分がらねことあったら、浩志さんさ聞いで」
石田が浩志へ軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「機械のことなら多少分かりますけど、俺もここの散布ポイント知らないっすよ」
「紙の地図見ればいいべ」
「夜中に車ん中で紙の地図見るの嫌なんだよなぁ」
浩志はそう言いながら、良い方法を思いついた。
紙に印を付けてあるだけなら、それをGoogleマップへ移してしまえばいい。現在地も分かるし、車の中で地図を広げる必要もない。
「できたら石田さんにLINEで送りますよ」
「それは助かります」
「それあれば俺、何回も乗らなくてもいいし」
「浩志さん、助手は順番だから乗るんだぞ」
「分がってるって。教育係で毎回乗るのが嫌なの」
夏樹に言われ、浩志は笑った。
そのとき、智也が煙草の灰を落としながら、思い出したように言った。
「そういや、西田新聞店の親父のやつよ」
「ああ、なんかに追っかけられだってやつ?」
「猟友会、見に来たんだど」
「へば何だった?」
「それがよ。慎吾さん見ても、わがらねがったど」
「慎吾でも?」
黒沢が少し意外そうな顔をした。
後藤慎吾のことは皆知っている。長く猟をやっているベテランで、熊やイノシシを見慣れている男だった。
「なんも跡ねがったんだって。道路だもの」
「へば分がらねべ」
「軽トラは凹んでだんだろ?」
「凹んでだって。獣臭もしたってよ」
「なんだべな」
譲が首を傾げた。
「もう十一月だぞ。熊にしても時期おがしぐねえ?」
「イノシシもな」
「出ねえわけじゃねえんだべ?」
「そりゃ出る時は出るべ」
「慎吾さんもそんなこと言ってたらしいぞ。時期はおがしいけど、見でもいねえもの分がるわけねえって」
「慎吾さん言いそうだな」
誰かが笑った。
祐介が、すっかり赤くなった顔でグラスを持ったまま言った。
「夜中のパトロールで見たら嫌っすね」
「やめれよ」
夏樹が即座に返した。
「俺毎日パトロールで夜中走るんだぞ」
「車ん中なら大丈夫でねえすか」
「おめが先に降りて確認してこい」
「絶対嫌っすよ」
黒いものの話は、それで終わった。
慎吾でも分からなかったというのは少し気になったが、山のある土地で正体のよく分からない獣が出た。それだけの話だった。
やがて話題は去年の雪の量だの、どこの路線が面倒だの、誰がどの機械を壊しただのという話へ移っていった。
一時間もすると、たつおさんの声が聞こえなくなった。
「辰雄さん?」
祐介が覗き込む。
返事がない。
「寝でる」
「もう?」
浩志が時計を見た。
「まだ八時半だぞ」
「早えよ」
「さっきまで飲んでたべ」
「いつものことだ」
辰雄は壁にもたれ、完全に眠っていた。
「禁煙すると健康になるんでねえの?」
「寝るの早くなっただけでねえか」
「起こす?」
「ほっとけ。そのうち起きるべ」
誰も気にしなかった。
譲と智也の酒は相変わらず減り続けている。祐介は顔どころか耳まで赤い。それでもまだ普通に飲んでいた。黒沢もだいぶ出来上がっているが、煙草の本数だけは変わらない。土田は最後までノンアルコールビールで通し、浩志のウーロン茶も変わらなかった。
石田はそんな連中に混じって、最初と同じように自分のペースで飲んでいた。
「今年、降るがな」
誰かが言った。
「どうだべな」
「去年より少ねばいいけど」
「少ない年は少ない年で仕事ねえって言うべ」
「それはそれだ」
「降っても文句、降らなくても文句だな」
「そんなもんだべ」
毎年、同じような話をする。
今年は多い。今年は少ない。山の雪が早い。里は遅い。カメムシが多いから大雪になる。いや、そんなものは関係ない。
誰にも分からない。
分からないまま冬を迎え、降れば夜中に起きて道路へ出る。それを春まで繰り返す。
宴会も終わりに近づいたころ、夏樹がグラスを置いた。
「まあ、今年もよろしく頼むな。石田さんも初めてだがら、分がらねことあったら誰でもいいがら聞いで」
「はい。よろしくお願いします」
「あと祐介」
「はい?」
「今年も事故起こすなよ」
「だから俺、事故起こしてないっすって!」
「かべちゃんもナナマルゴ落とすなよ」
「落としてねえって!」
「自力で上がれねがったくせに」
「落ちかけただけだって!」
最後まで笑いが起きた。
小松会館を出ると、外はずいぶん冷えていた。
酒を飲んでいない浩志は、軽トラのドアを開ける前に空を見上げた。雲が低く垂れ込め、星は一つも見えない。
「冷えできたな」
白い息を吐き、誰に言うでもなく呟いた。
本格的な雪は、まだ降っていなかった。
それでも、冬はもう始まっていた。




