第五話 獣の話
黒いものが軽トラの後ろへ突っ込んだ。
ドンッ、と鈍い音がして、車体が揺れた。荷台へ転がり込んだ敏夫は、反射的に頭を抱えた。もう一度来る。そう思って身構えたが、何も起こらない。
数秒待った。
静かだった。
さっきまで聞こえていた地面を蹴る音もない。聞こえるのは自分の荒い呼吸と、掛けっぱなしにしていた軽トラのエンジン音だけだった。
敏夫は恐る恐る身体を起こし、荷台の縁から顔を出した。
いない。
道路の上にも、家と家の間にも、あの黒いものの姿はなかった。
「……なんだよ」
声に出した途端、自分がひどく息を切らしていることに気づいた。
しばらく荷台から降りる気にはなれなかったが、いつまでもここにいるわけにもいかない。敏夫は周囲を何度も見回してから荷台を降りた。
細かな雪はまだちらついている。アスファルトは黒いままだった。
軽トラの後ろへ回ると、すぐに分かった。
「うわ……」
後ろの鉄板が凹んでいた。大きく潰れたというほどではない。それでも昨日までなかった凹みなのは間違いなかった。あの黒いものがぶつかった場所だ。
敏夫は顔を近づけた。
「……臭せえな」
かすかに獣臭がした。
熊なのか、イノシシなのか。それは分からない。ただ、何か生き物がぶつかったのだということだけは、凹んだ鉄板が証明していた。
敏夫はもう一度、道路の先を見た。やはり何もいない。
配達はまだ残っていた。
一瞬、このまま帰ろうかとも思った。しかし新聞を待っている家はまだ何十軒もある。結局、敏夫は運転席へ乗り込んだ。
それからの配達は、いつものやり方をやめた。普段なら数軒分をまとめて抱えて歩くところを、一軒か二軒分だけ持って車を降りる。配り終えればすぐ軽トラへ戻り、また少し進む。
効率は悪い。
それでも、もう軽トラから遠くへ離れる気にはなれなかった。
*
空が明るくなり始めるころ、西田新聞店へ戻った。
照子の軽バンはすでに停まっていた。敏夫が軽トラを入れていると、店から出てきた照子が後ろの凹みに気づいた。
「なしたの、それ」
「なんかぶつかった」
「なんかって?」
「分がらね」
「何よ、それ」
説明するのも面倒だった。敏夫は車から新聞の残りや袋を降ろし、店の中へ入った。
少し遅れて、吉輝のヴィッツも戻ってきた。
「親父、軽トラどうした?」
やはりすぐ気づいた。
「だから、なんかぶつかったんだって」
「どこで?」
「県道から上ったどご」
「鹿?」
「鹿でねえ」
「熊?」
「分がらね」
吉輝が怪訝そうな顔をする。
「見たんだべ?」
「見だよ」
「へば分がるべ」
「分がらねものは分がらねえんだよ」
敏夫は少し苛立った。
照子が湯呑みを置きながら聞いた。
「どんくらいの大きさだったの?」
「イノシシくらいだがな」
「へばイノシシでねえの?」
「だがもしれね」
「でも、今ごろイノシシ出る?」
敏夫は答えなかった。
もう十一月だった。熊にしてもイノシシにしても、里で頻繁に見かける時期ではない。
「一回雪解けだがら、まだいるんでねえの?」
吉輝が言った。
「さあな」
敏夫にも分からなかった。
「何色だったの?」
照子に聞かれ、敏夫は少し考えた。
「黒」
「へば熊でねえの?」
「だから、そういうんでねえんだって」
二人が黙った。
敏夫自身、何が違うのか説明できなかった。黒かった。ただ、それだけではない。
街灯の下にいたのに、何も見えなかった。毛も、顔も、目も、脚さえはっきりしなかった。
「とにかく、変だったんだよ」
それ以上は言いようがなかった。
*
午前八時前。
稲沢地区の詰め所では、いつものようにストーブが燃えていた。
雪は止んでいる。浩志は自分で淹れたコーヒーを飲みながら、ぼんやりテレビを眺めていた。まだ本格的な降雪期ではない。出勤してすぐ除雪車へ乗るような日でもなく、今日も道路の補修や冬支度の続きになる予定だった。
智也が湯呑みを持ったまま言った。
「西田新聞店の親父、なんかに襲われだってよ」
浩志がテレビから目を離した。
「何に?」
「分がらね。熊だがイノシシだが」
「熊?」
夏樹も顔を上げる。
「怪我したんすか?」
「してねえって。軽トラの荷台さ逃げだらしい」
祐介が眉を寄せた。
「なんで智也さん、知ってるんすか」
「聞いだもの」
「どっから?」
「どっからでもいいべ」
いつものことだった。智也は、なぜかこういう話を早く知っている。
「西田って、ヴィッツの?」
黒沢が聞いた。
「そっち息子。襲われだの親父だ」
「ああ、軽トラの方な」
祐介が笑った。
「ヴィッツの方だったら逃げないっすよ」
「んだな」
「向こうが逃げるべ」
何人かが笑った。
冬になれば、西田新聞店の車とは嫌でも顔を合わせる。特に吉輝のヴィッツは評判が悪かった。除雪車が道路いっぱいに雪を抱えて向かっていても、なかなか止まらない。こちらが避けるだろうという顔で普通に走ってくる。
「今年も無線で回すが。『ヴィッツ行ったぞー』って」
「それで全員分がるのもおがしいべ」
「だってヴィッツだもの」
話はいつの間にか吉輝の悪口になっていた。
浩志も笑いながらコーヒーを飲んだ。
「で、結局何だったの?」
「知らね。真っ黒でよく分がらねがったって」
「イノシシでねえの?」
黒沢が言ったが、譲が首を傾げた。
「でも、もう十一月だべ。この時期に出るが?」
「熊だって、もう山さ入ってる頃でねえの」
「今年あったけえがら、まだいるんでねえ?」
「イノシシも?」
「さあ」
結局、少し時期がおかしいというだけで、それ以上の話にはならなかった。山に囲まれた土地である。熊もいればイノシシもいる。たまたま冬を前に里へ下りてきた獣がいたとしても、あり得ない話ではなかった。
*
西田新聞店では、その日の午前中もいつもの仕事が続いていた。
敏夫は翌朝分の折込チラシを新聞へ入れる準備をしていた。昨夜のことは警察にも話した。人に向かってくる野生動物なら放っておくわけにもいかないということで、市の方にも連絡が行くらしい。
だからといって、新聞店の仕事がなくなるわけではない。
敏夫はチラシの束を揃えた。
「痛っ」
右手を引っ込める。
人差し指の先に細い赤い線ができていた。
「なしたの?」
照子が聞く。
「紙で切った」
「何やってんの」
「紙で切るのどうやって気ぃつけるんだよ」
敏夫は指先を口に入れた。
少し血が出ただけだった。
*
午後になって、佐藤勇の携帯電話が鳴った。
話を聞きながら、手元のメモ用紙に場所を書き込む。
「はい、分かりました。……怪我はないんですね? はい。分かりました」
電話を切る。
野生動物らしきものが人を追いかけた。場所は稲沢地区。襲われたのは西田新聞店の店主だった。
勇も敏夫のことは知っている。
猟友会に入って三年。散弾銃は持っているが、自分を一人前の猟師だと思ったことはまだない。まして、人を追いかけて車にまでぶつかったという正体不明の動物を、一人で判断する気にはなれなかった。
勇は携帯電話の連絡先を開き、後藤慎吾へ電話を掛けた。
「もしもし、慎吾さん。今、大丈夫ですか?」
『何よ』
「ちょっと見てもらいたいものがあるんですけど」
『何を』
「西田新聞店の敏夫さんが、夜中に動物に追いかけられたそうなんですよ」
『熊が?』
「それが、本人も何だったのか分からないそうで」
少し間があった。
『怪我は?』
「ないです。ただ、軽トラにぶつかったらしくて、車がへこんでるそうです」
『……車が?』
「はい」
『いつよ』
「今日の午前二時過ぎです」
『この時期にが』
「自分も、それがちょっと気になってます」
『分がった。あとで行ぐ』
*
夕方前、勇と慎吾は西田新聞店を訪れた。
勇が三十八歳なのに対し、慎吾は五十六歳。長く猟を続け、ライフルも所持している。山へ入った回数も、獣の痕跡を見てきた数も、勇とは比べものにならなかった。
敏夫は二人を軽トラの後ろへ案内した。
「ここよ」
勇が凹んだ部分を覗き込む。
「結構へこんでますね」
「んだべ。こんなの昨日までなかったもの」
慎吾は何も言わず、手で凹みの周囲を触った。
「ここさぶつかったんだな?」
「んだ。俺が荷台さ上がった直後よ」
「どんくらいだった?」
「イノシシくらい……だがな」
「だがなって何よ」
「分がらねもの」
「四つ足?」
敏夫は考えた。
「……たぶん」
「たぶん?」
「黒くてよく見えねがったんだって」
慎吾が敏夫を見る。
「夜なんだから黒えべ」
「そういうんでねえんだよ」
朝から何度同じ説明をしたか分からない。
「街灯あったんだ。でも、なんていうが……姿が見えねえんだよ。真っ黒で」
「熊だって黒えぞ」
「だから違うんだって」
「何が?」
「それが分がらねえがら困ってんだべ!」
敏夫が声を荒らげた。
勇が苦笑する。
「まあまあ。敏夫さんも、かなり驚いたでしょうから」
慎吾は気にした様子もなく、もう一度凹んだ場所へ顔を近づけた。
「……臭えな」
勇も横から嗅いでみる。
「あ、本当ですね。獣っぽいですね」
「んだな」
「イノシシでしょうか?」
「知らね」
「熊の可能性は?」
「知らねって」
慎吾は身体を起こした。
「見でもいねえもの、分がるわけねえべ」
三人はそのまま昨夜の場所へ向かった。
敏夫が軽トラを停めていた場所。新聞を持って歩いた家々。そして黒いものを最初に見た場所。
勇は道路脇まで見て回ったが、何も見つからなかった。舗装された道路で、昨夜ちらついていた雪も残っていない。足跡を探そうにも、最初から分かるような場所ではなかった。
毛もない。血もない。糞もない。
何かがいたことを示すものは、敏夫の証言と、軽トラに残された凹みだけだった。
現場をひと通り見終えた勇が慎吾に尋ねた。
「慎吾さん、どう思います?」
「何が」
「何の動物だったと思います?」
「知らね」
「やっぱり分かりませんか」
「分がる材料がねえもの」
「でも、イノシシくらいの大きさだったんですよね」
慎吾は煙草を一本取り出し、火をつけた。
「時期がおがしいな」
「やっぱりそう思います?」
「出ねえとは言わねえよ。熊だって寝る時期は毎年同じじゃねえし、イノシシだっている時はいる」
「はい」
「ただ、この時期に人追っかけ回して、車さ突っ込むってのはな」
慎吾は煙を吐いた。
「変ですか」
「分がらね」
結局そこへ戻った。
慎吾は道路の先を眺めた。
「まあ、また出れば何か分がるべ」
勇も同じ方向を見る。
山があり、田んぼがあり、その間を舗装道路が延びている。どこにでもある稲沢地区の風景だった。
間もなく、ここも雪に埋まる。
その日、黒いものを見た者は、西田敏夫ただ一人だった。




