第四話 黒いもの
早く降った雪は、長くは残らなかった。
初除雪から数日もすると気温が上がり、雨も降った。田んぼを覆っていた白はところどころ土の色に戻り、道路脇へ押し出された雪も見る間に小さくなっていった。竹立てもひと通り終わったが、だからといって仕事がなくなるわけではない。本格的に雪が降り始めるまでに、やっておくことはいくらでもあった。
その日の仕事は、道路の穴埋めだった。
「ここだな」
黒沢が道路脇に停めたダンプから降りた。
舗装には深さ数センチほどの穴が開いていた。大きさは三十センチ四方を優に超えている。この程度なら除雪作業そのものに支障が出るわけではない。ただ、一般車がまともに踏めばタイヤを取られるし、場合によってはパンクの原因にもなる。
雪が積もれば、穴はいったん雪で埋まって見えなくなる。厄介なのは、その雪が溶ければまた同じ穴が顔を出すことだった。冬の初めはそれを何度も繰り返す。だから路面が出ている今のうちに、見つけたものから塞いでいく。
浩志はダンプの荷台からアスファルトの補修材を降ろした。袋を開けると、黒い粒状の補修材がばらばらと出てくる。砕いたアスファルトのような見た目で、油分を含んでいるため触れると少しベタつく。
「これくらいだべ」
「んだな」
穴へ補修材を入れ、スコップで均す。あとでプレートを掛ければ沈む。その分を見越して、周囲の舗装より少し高くなるように最初から量を決めて入れた。
夏樹がプレートを持ってくる。エンジンを掛けると、小さな機械がけたたましい音を立てて振動を始めた。
ダダダダダダダダ――。
補修材の上を何度か往復させる。盛っていた黒い粒が少しずつ締まり、やがて周囲の舗装とほぼ同じ高さになった。
「いいべ」
「んだな」
最後に水を掛ける。水で固まる補修材なので、あとはしばらく置いておけばいい。
浩志にとって、道路上でこうした作業をすること自体は珍しくなかった。稲沢地区へ来る前、高速道路の除雪をしていたころにも経験している。ただし、同じ道路作業でも、やり方はまるで違った。
高速道路では、いきなり車を停めて作業を始めるなどあり得なかった。作業箇所の十メートル以上手前から矢板を三枚置き、カラーコーンで作業場所を確保する。警笛を持った監視員を置いて接近する車両を見張らせ、そこまでやってようやく作業員が道路へ出る。
稲沢地区へ来て初めて道路補修をしたとき、浩志は当然のように聞いたものだった。
「矢板、どこにあるんすか?」
「矢板?」
「規制するやつ」
「いらねべ」
「え?」
「車来たら避げればいい」
冗談だと思った。冗談ではなかった。
「車来たぞー」
黒沢の声に浩志が顔を上げた。
「はいよー」
夏樹がプレートを道路脇へ寄せ、三人も路肩へ避ける。一台の軽自動車が速度を落として横を通り過ぎていった。
黒沢がその後ろを確認する。
「行ったぞー」
「はいよ」
再びプレートを道路へ出し、何事もなかったように作業を再開する。
四年目になった今では、浩志も何とも思わなくなっていた。最初はあまりの緩さに戸惑った。本当は駄目なのだろうということくらい、今でも分かっている。それでも交通量の少ない稲沢地区で毎日仕事をしているうちに、自分もすっかりこちらのやり方に染まってしまった。
「次どご?」
「もうちょい先」
「へば行くべ」
道具を積み直し、三人は次の穴へ向かった。
昼前、最後の穴を埋め終えて道具を片付けていると、黒沢がふと思い出したように浩志へ声を掛けた。
「かべちゃん、神様どうなった?」
「建設課でなんとかするんでねえの」
夏樹がプレートを荷台へ積みながら言った。
「モルタルでくっつければいいべ」
「俺が?」
「浩志さんならできるべ」
「でぎるど思うけど、勝手にやったらあの爺さんまた怒るべ」
「ああ、それは怒るな」
夏樹が笑った。
「『荒神様どご勝手に直して、なんとしてけるなだ!』ってまた電話来るぞ」
黒沢があの老人の真似をして言った。
浩志も笑いながら首を振った。
「祟りよりおっかねぇ」
三人で笑って、それで話は終わった。
午後も細かな仕事をいくつか片付け、四時五十分を過ぎたころに詰め所へ戻った。畳敷きの部屋にはすでに何人か集まっていて、ストーブが点いている。浩志はコーヒーを淹れて畳へ座った。
「明日何する?」
「まだ穴あるべ」
「あるある。祐介の路線の方ひでえぞ」
「グレーチングも一か所直さねばねえな」
そんな話をしているうちに退勤時間になった。皆でタイムカードを押し、「お疲れさーん」「お疲れー」「また明日」と声を掛け合って散っていく。
いつも通りの一日だった。
*
西田新聞店の朝は早い。もっとも、世間一般の感覚なら、まだ朝ですらなかった。
午前二時を過ぎたころ、店の中では三人が配達の準備をしていた。
店主の西田敏夫。妻の照子。そして息子の吉輝。家族三人で配達区域を分担しており、敏夫は軽トラ、照子は軽バン、吉輝はヴィッツを使っていた。
それぞれの担当分を車へ積み込んでいく。毎朝繰り返している作業なので、大した会話もない。
新聞の束を抱えて外へ出た吉輝が空を見上げた。
「雪降ってきたな」
街灯の光の中を、細かな雪がちらちらと落ちていた。
敏夫も外へ出て空を見た。
「積もるほどでねえべ」
「予報もそんなだったな」
照子が最後の束を軽バンへ積み込む。
「へば行ってくる」
「はいよ」
「気ぃつけで」
三人はそれぞれの車に乗った。軽トラ、軽バン、ヴィッツの三台が、まだ眠っている町の中へ別々の方向に走っていった。
敏夫はいつもの道を走った。何年も新聞を配り続けている道だった。
どの家がどの新聞を取っているか。どこへ車を置けば効率よく回れるか。どの家のポストが玄関横にあり、どこは道路際にあるか。いちいち考える必要もない。身体が覚えていた。
ある集落に入ったところで、敏夫は軽トラを道路脇へ停めた。助手席から新聞を数部抜き取り、脇に抱える。
この辺りは、ほとんどが一軒家だった。一軒配るたびに車へ戻り、数十メートル動かしてまた降りる。そんなことをしていては時間ばかりかかる。何軒分かをまとめて持ち、歩いて配るのがいつものやり方だった。
一軒目のポストへ新聞を入れ、そのまま隣へ歩く。二軒目、三軒目と順番に配っていく。
細かな雪はまだ降っていたが、路面を白くするほどではない。アスファルトは黒いままだった。風もほとんどなく、辺りは静まり返っている。時折、遠くで車の走る音が聞こえるくらいだった。
最後の一部をポストへ差し込む。
これで、この辺りは終わりだった。
空になった手を防寒着のポケットへ入れ、軽トラへ戻り始める。何気なく前を見たとき、敏夫は足を止めた。
「ん?」
道路の先に、何かいた。
黒い。
最初は犬かと思った。だが、犬にしては大きい。
「……イノシシ?」
大きさだけなら、それくらいだった。
この辺りで野生動物が出ても不思議ではない。敏夫はすぐには動かず、その場で様子を見た。
だが、妙だった。
街灯は点いている。道路も見える。電柱も家も、道路脇の枯れ草も見えている。空から落ちてくる細かな雪も、街灯の光を横切るたびに白く浮かび上がる。
なのに、そこにいるものだけがよく見えない。
黒い。
ただ黒い。
黒い毛をした動物なら、光の当たる部分と影になる部分があるはずだった。それがない。毛並みも見えず、顔がどちらを向いているのかさえはっきりしない。
まるで、その形に合わせて景色を黒く切り抜いたようだった。
「なんだ、あれ……」
敏夫は目を凝らした。
やはり分からない。熊かと思ったが、それにしては小さい。イノシシなら大きさは合うが、こんなふうに見えるものなのか。
敏夫はゆっくり一歩下がった。
軽トラは十数メートル先にある。
黒いものが動いた。
「……おい」
こちらへ歩いてくる。
敏夫も軽トラへ向かって歩き始めた。まだ走らなかった。野生動物を相手に背中を見せて走っていいものか、それすら分からない。
黒いものも歩いてくる。
敏夫が歩調を速めると、向こうも速くなった。
「来んなよ……」
軽トラまで十メートルほど。敏夫は何度も振り返りながら歩いた。
距離が縮まっている。
近づいてきても、その姿は相変わらず黒い塊にしか見えなかった。
「なんなんだよ……」
とうとう怖くなった。
敏夫は背を向けて走った。
同時に、後ろから地面を強く蹴る音がした。
速い。
さっきまでとはまるで違う。
「うわっ!」
敏夫は軽トラへ駆け寄った。運転席へ回ってドアを開けている暇はない。そのまま車の後ろへ走り、荷台へ両手を掛けた。
背後から、地面を蹴る音が急速に迫ってくる。
「うわっ、来んな!」
腕に力を込め、身体を持ち上げた。腹が荷台の縁へ乗る。足を蹴り上げる。
長靴の先が地面から離れた。
その瞬間。
黒いものが、敏夫めがけて突っ込んできた。




