第三話 初出動
雪が降ると分かっている夜は、早く寝ようと思っても、なかなか寝られるものではない。
夕飯を済ませ、風呂に入り、浩志はいつもよりずっと早く布団に入った。
明け方に電話が来るかもしれない。
そう思って目を閉じるのだが、身体の方がまだ冬の生活に慣れていなかった。毎日のように深夜に起き、除雪へ出る時期になれば自然と早く眠れるようになる。それでもシーズン最初は駄目だった。
寝返りを打つ。
もう一度打つ。
スマートフォンで時間を見る。
八時四十分。
「まだこんな時間か……」
もう一度目を閉じた。
結局、眠ったのは九時を過ぎてからだった。
*
不意に鳴った着信音で目が覚めた。
一瞬、何の音なのか分からなかった。
枕元へ手を伸ばし、スマートフォンを取る。
画面に表示されていたのは、夏樹だった。
「はいはーい」
『おはようさんです。おねがいしまーす』
「りょうかーい、いまいきまーす」
電話はそれだけで切れた。
出勤は午前一時。
大して寝ていない。
それでも不思議と眠気はなかった。久しぶりの出動で、身体のどこかが緊張しているのだろう。
浩志は布団から出ると、作業着に着替えた。
防寒着を羽織り、玄関を開ける。
「おお……」
思ったより積もっていた。
家の前にあるマンホールが、もう見えない。
駐車場も道路も真っ白だった。
「結構来たな」
そこで、竹立ての終わっていない県道が頭に浮かんだ。
「嫌だなぁ……」
目印がないところをグレーダーで掻くのは怖い。
そう思うのには理由があった。
稲沢地区でグレーダーに乗り始めた一年目、一度だけ道路端を見誤ったことがある。
雪で道路と路肩の境が分からなくなり、気づいたときには後輪が法面へ半分ほど落ちていた。
完全に落ちたわけではない。
だが、バックに入れても上がれなかった。
結局、土田が乗る十六トン級ホイールローダーWA350を持ってきてもらい、ワイヤーを掛けて引っ張り出してもらった。
四年目になった今でも、あのときの感覚は覚えている。
「目印ねえと怖いんだよなぁ」
浩志は軽トラへ乗り込んだ。
エンジンを掛ける。
暖機もしない。
家から重機車庫までは数分だった。
そのまま道路へ出た途端、軽トラの尻が横へ振れた。
「おっと」
一瞬遅れて気づく。
「あ、四駆入れてねがった」
まだ路面そのものが凍っているわけではない。雪の上で滑っただけなので、それほど怖くはなかった。
軽トラは後輪駆動のまま新雪を踏みながら走った。
まだ車のタイヤ跡がない。
ヘッドライトの中へ次々と雪が飛び込んでくる。
数分も走ると、重機車庫が見えてきた。
暗闇の中で黄色い回転灯がいくつも点滅している。
先に来た者たちが、それぞれの機械を車庫から出して暖機しているのだ。
近づくにつれ、何台ものディーゼルエンジンの音が重なって聞こえてきた。
浩志は車庫へ軽トラを入れた。
先に出された重機の場所が空いている。そこへ軽トラを停め、GD705へ向かった。
ステップを上がり、運転席へ座る。
クラッチを踏む。
イグニッションキーをひねった。
ほとんど間を置かず、ディーゼルエンジンが勇ましい音を立てて目を覚ました。
ハンドルの左右には、ブレードを動かすためのレバーがずらりと並んでいる。
その両端のレバーを同時に操作する。
車庫の床へ当ててあった幅四メートルのブレードの左右が持ち上がった。
クラッチを踏み、変速レバーを二速へ入れる。
クラッチを離す。
十七トンある車体が、ゆっくりと前へ動き出した。
GD705を車庫の外へ出す。
邪魔にならないところへ停めると、ヒーターを最大にした。
まだキャビンの中は冷え切っている。
タコメーターを開け、円形のタコグラフ用紙を入れた。
あとは暖まるまで放っておけばいい。
浩志はGD705を降り、車庫横のストーブがある部屋へ向かった。
「おはよーさん」
「おはよう」
「おはよー」
すでに何人か集まっていた。
ストーブの周りに立ったり、椅子に座ったりしている。
「降ったな」
「思ったより来たな」
「何センチある?」
「十何センチでねえが」
外では何台ものエンジンが唸り続けている。
窓から黄色い回転灯の光が一定の間隔で差し込んでくる。
浩志は部屋を見回した。
「まだ祐介と辰雄さん来てねえな」
「そのうち来るべ」
午前一時が近づくころには、全員が揃った。
夏樹が時計を見た。
「へば、行くべ」
皆が立ち上がった。
*
浩志は暖まったGD705へ戻った。
回転灯を点ける。
車庫を出て、まず向かったのは中学校裏の広い道路だった。
左側には歩道がある。
車道と歩道の間には縁石が続き、反対側は田んぼだった。
浩志はブレードを斜めに振った。
雪を左へ流す角度を作る。
3速。
時速は十キロほど。
縁石へブレードの端を寄せていく。
近すぎれば当たる。
離せば雪が残る。
ぎりぎりを狙った。
ブレードへ入った雪が、刃に沿って左へ流れていく。
そのまま歩道の中へ押し込む。
歩道はあとで歩道用ロータリーが除雪する。
初日の雪は仕事がしやすい。
前に寄せた雪がない。
だから雪の逃げ場がいくらでもある。
中学校裏を終えると、交差点を処理し、堤防沿いの道路へ入る。
ここからは四速。
時速十四キロほどまで上げた。
道路脇には赤白の竹が並んでいる。
何日も歩いて立てた竹だ。
深夜の雪の中では、それが頼もしいほどよく見えた。
一本。
また一本。
ヘッドライトの中へ現れては、横へ流れていく。
竹があるだけで、どこまで攻めていいのかが分かる。
浩志は安心して道路端までブレードを出した。
雪質もよかった。
気温はそれほど低くない。
若干湿っているが、重すぎるほどではない。
刃を当てると雪が路面から綺麗に剥がれ、そのまま斜めになったブレードに沿って外へ流れていく。
道路脇にはまだ雪山がない。
面白いほど雪が逃げていった。
「いいねえ」
浩志は一人で言った。
後ろをミラーで見る。
雪の下から黒い舗装が綺麗に現れている。
こういう雪は気持ちがいい。
五速まで上げれば十八キロほど出る。
今日の雪なら、それでも十分掻けそうだった。
だが、浩志は四速のままにした。
調子に乗って速度を上げると、勢いよく寄せた雪で道路脇の竹を倒すことがある。
何日も歩いて立てたものを、自分で倒して立て直すのも馬鹿らしい。
「四速で十分だ」
GD705は一定の速度で堤防道路を進んだ。
*
路線の半分ほどを終えたところで、浩志はいつもの自販機の前にGD705を停めた。
エンジンはそのまま。
回転灯も回っている。
外へ出ると、キャビンの中よりずっと寒かった。
自販機へ硬貨を入れ、温かい缶コーヒーを買う。
プシュッと開けて一口飲んだ。
「あったけぇ」
ほんの数分の休憩だった。
缶コーヒーを飲みながらGD705のブレードを見る。
雪はほとんど付いていない。
「よしよし」
雪質によってはブレードへべったりと雪が付着することもある。
今日はそれもない。
仕事のしやすい雪だった。
コーヒーを飲み終えると、空き缶を捨て、再び運転席へ戻った。
「あと半分」
GD705を走らせる。
*
川の西側へ回った。
ここから県道へ入る。
そして、この先が竹立ての終わっていない区間だった。
赤白の竹が途切れる。
「ここからか……」
浩志は速度を落とした。
少し身構えていたが、実際に入ってみると、思っていたより道路の形は分かった。
両側は田んぼ。
電柱も立っている。
まだ初雪なので、道路脇に何度も押し込まれた雪もない。
「思ったより分かるな」
それでも無理をする気にはならなかった。
一年目のことを思い出す。
法面へ半分落ちた後輪。
バックしても上がらないGD705。
ワイヤーを持ってきた土田。
WA350に引っ張られて、ようやく道路へ戻った。
二度とやりたくなかった。
浩志はブレードを左いっぱいにスライドさせた。
車体そのものは道路の真ん中近くを走らせる。
タイヤを路肩へ近づけず、張り出したブレードだけで外側の雪を取っていく。
白線が出る。
その外側が、まだ少し残る。
それでいい。
道路端が分からない以上、欲張る必要はない。
県道を最後まで掻き終えた。
「なんだ。いけたな」
思っていたほどではなかった。
あとは帰りながら反対側を掻いて戻ればいい。
そこで浩志は、ふと思い出した。
「……あ」
今日の日中。
ここへ竹を立てに来る。
浩志はミラー越しに、今掻いてきた道路を見た。
安全を取った分、道路脇には雪が残っている。
竹を立てる場所も、その下だ。
このままでは一本立てるたびにスコップで雪を寄せ、地面を出さなければならない。
「もうちょっと広くしとくか」
竹のない区間だけ、もう一度掻くことにした。
一度目とは違う。
すでに白線を出した。
道路の端がどこなのかは分かっている。
今度は普通に車体を道路端へ寄せた。
ブレードを外へ出す。
一度目に残した雪を、さらに田んぼ側へ押し出していく。
「これなら竹も楽だべ」
ブレードの前へ雪が入り、そのまま左へ流れていく。
順調だった。
そのとき。
ガンッ――。
「うおっ」
硬い衝撃がブレードから車体へ伝わった。
浩志は反射的にクラッチとブレーキを踏んだ。
GD705が止まる。
「なんだ?」
何かに当てた。
浩志は左右端のレバーを操作してブレードを上げた。
バックへ入れ、少しだけ後退する。
作業灯の先を見る。
押された雪の塊しか見えない。
「石でもあったか?」
浩志は運転席から身を乗り出すようにして見た。
特に何かあるようは見えなかった。
ブレードにも異常はなさそうだ。
ピンも折れてない。
「まあ、いいか」
再びギヤを入れた。
クラッチをつなぐ。
十七トンの車体が何事もなかったように動き出した。
その後は何もなかった。
残った区間を掻き、帰路も雪を処理しながら重機車庫へ戻った。
GD705を車庫へ入れる。
ブレードを床へ下ろし、エンジンを切った。
それまで響いていたディーゼル音が止まると、急に静かになった。
浩志はキャビンを降りた。
「へば、またあとで」
家へ帰った。
*
朝食を食べるころになって、ようやく眠気が出てきた。
出動中はまったく眠くなかったのに、仕事を終えて家へ帰った途端、身体が重くなる。
それでも今日は平日だった。
深夜の除雪を終えたからといって、それで一日の仕事が終わるわけではない。
少し休み、また作業着を着る。
八時十分ごろ、浩志は再び詰め所へ入った。
「おはよー」
「またおはようだな」
「眠っ」
浩志は畳へ座った。
夏樹と土田はそのまま詰め所に残っていた。
二人はいつものように弁当を持ってきている。
八時半。
日中の仕事が始まった。
予定どおり、竹立ての続きだった。
*
黒沢がダンプを運転する。
浩志は鉄棒。
夏樹は竹。
三人は川の西側の県道へ向かった。
現場へ着くと、黒沢が道路脇を見た。
「結構広く掻いだな」
「竹立て楽しでがら、もう一周やった」
浩志が答えた。
全部の雪がなくなっているわけではない。
それでも一度しか掻かなかった場合に比べれば、かなり楽だった。
雪の残ったところだけ長靴で寄せる。
地面を出す。
浩志が鉄棒を突く。
夏樹が竹を差す。
黒沢のダンプが、人の歩く速度で少し先を進む。
いつもの竹立てだった。
浩志は、深夜に何かへ当てた場所も通った。
だが気づかなかった。
道路脇にはまだ雪が残っていた。
その下に何があるのか、わざわざ確かめる理由もなかった。
三人はその日のうちに、残っていた竹立てを終えた。
*
早く降った雪は、根雪にはならなかった。
数日すると気温が上がった。
雨も降った。
屋根から雪が落ち、田んぼの白い部分も日に日に少なくなった。
道路脇へ寄せられていた雪も解けていった。
そして、川の西側を走る県道でも、雪の下に隠れていたものが、再び姿を現した。
*
湯澤市役所建設課に電話が入った。
「はい、湯澤市役所建設課です」
職員が受話器を取った。
いきなり怒鳴り声が返ってきた。
『神様壊したのおめだが!』
「……はい?」
『荒神様どご壊して、なんとしてけるなだ!』
あまりの剣幕に、職員は受話器を少し耳から離した。
「荒神様……ですか?」
『道路脇さあるべ! 昔っからある石の神様だ!』
「場所はどちらでしょうか」
『場所も分がらねのが!』
老人の怒鳴り声はしばらく続いた。
*
連絡は建設課から稲沢地区へ回ってきた。
場所を聞いた夏樹が、浩志を見た。
「浩志さんの路線で、なんか神様壊したって電話来たらしいぞ」
「神様?」
浩志にはまったく心当たりがなかった。
夏樹が場所を説明する。
そこで、ほんの少し引っかかった。
「……あれ?」
「何よ」
「いや……」
深夜。
二度目に広く掻いたとき。
ブレードに伝わった硬い衝撃。
「俺、なんか当てたかもしれねえ」
「何に?」
「分がらね。石だと思った」
黒沢が横から顔を上げた。
「どごよ」
場所を聞いた黒沢の表情が変わった。
「……おめ、あそこにアレあるの知らねがったなが」
「アレ?」
「神様よ」
「知らね」
黒沢は呆れた顔をした。
「ずっとあるべ」
「全然知らねがった」
「おめ、何年ここ掻いでらんだよ」
「四年」
「四年もやってで知らねがったなが」
「雪降れば見えねえべ」
黒沢はため息をついた。
「まず見に行くべ」
*
現場には、もうほとんど雪がなかった。
道路脇の枯れ草の中。
高さ三十センチほどの石像があった。
いや、あったというより、二つになっていた。
斜めに割れている。
浩志は車を降りると、その前まで歩いた。
「……これ?」
「これだ」
黒沢が答えた。
浩志はしゃがんだ。
割れた面は新しい。
だが、その途中には色の違う筋が残っている。
黒沢もそれに気づいた。
「これ、前にも直してらな」
そこへ、近所から老人がやってきた。
「おめだが!」
遠くからでも怒っているのが分かった。
「これ、なんとしてけるなだ!」
浩志は立ち上がった。
「すみません。たぶん俺が――」
「たぶんでねえ! 除雪でやったべ!」
老人は割れた石像を指差した。
「前にも壊されでらんだ、これ!」
「前にも?」
「二十年くらい前だ! 道路工事した時、ユンボで傷つけられで!」
そのときは完全には割れなかった。
入った亀裂を補修して、それからずっとここにあったのだという。
今回の割れ目は、その古い補修跡に沿うように斜めに走っていた。
浩志はしばらく石像を見た。
あのときの衝撃だった。
「やっちまったなぁ……」
頭に浮かんだのは、祟りでも何でもなかった。
始末書を書くことになるのだろうか。
修理はできるのか。
建設課には何と言えばいいのか。
そんなことばかりだった。
黒沢が隣で、割れた石像を見下ろした。
「だから、道路脇に何あるか覚えどげって」
「知らねがったものは仕方ねえべ」
老人はまだ怒っている。
夏樹は老人をなだめながら、建設課へどう報告するかを考えていた。
浩志はもう一度、斜めに割れた石像を見た。
そして、小さく息を吐いた。
「参ったなぁ」
それだけだった。




