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稲沢除雪隊〜黒い獣〜  作者: 只野屍
第二章 冬が始まる
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10/33

第四話 熊だった

 堤防道路で大型トラックが転落してから、数日が過ぎていた。


 運転手は軽い打撲だけで済んだ。トラックも翌日の明るい時間になってから、大型車を扱えるレッカー車とクレーンによって引き上げられた。


 事故そのものは、それで片づいた。


 だが、運転手が警察に話したことだけは、妙な噂となって稲沢地区に残った。


 道路の真ん中に、黒いものがいた。


 子熊くらいの大きさだった。


 避けようとしたが間に合わず、ぶつかった。


 それからトラックは路肩を外れ、堤防の法面へ落ちた。


 ところが、事故現場から動物の死骸は見つからなかった。血もなければ、毛の一本も落ちていない。


 轢いたと思っただけじゃないのか。


 雪の塊でも見間違えたんだべ。


 いや、運転手は確かにぶつかったと言っている。


 そんな話に、祐介が融雪剤散布の途中で見たという黒いものや、西田新聞店の敏夫が見たものまで混ざった。


 結局、皆が行き着く答えは同じだった。


 熊だべ。


 この年は熊の目撃が多かった。


 冬眠に入らず、雪の中をうろついている熊が一頭くらいいても不思議ではない。


 猟友会にも話は届いていた。


 だが、目撃されるのは決まって夜だった。それも雪の降る、深夜から明け方にかけてが多い。


 夜のうちに雪が降り続けば、朝になって目撃場所を調べても足跡などろくに残っていない。毛も糞も見つからない。


 箱罠を仕掛けようにも、出る場所が定まらなかった。


 夜間の突然の目撃に、その都度猟銃を持って駆けつけるわけにもいかない。


 そうして、正体の分からない黒い熊の話だけが、少しずつ増えていった。


     *


 その日の夕方。


 浩志は重機車庫の外で樋口と顔を合わせた。


 村田組のモーターグレーダーは、浩志たちが使う重機車庫のすぐ横に置かれている。


 樋口は夏場はトマト農家だった。


 浩志と同じトマト部会員で、冬になると村田組の季節作業員として国道398号の除雪に入る。


 仕事が別なので毎日顔を合わせるわけではないが、会えば立ち話くらいはする。


「お疲れっす」


「おう。そっちも出るなが?」


「出ます。夜からまた降るみたいなんで」


「んだが」


 浩志は一度通り過ぎかけて、思い出したように振り返った。


「あ、樋口くん」


「はい?」


「最近、真っ黒い熊の目撃情報あるから気ぃつけれな」


「熊?」


「んだ。夜中に出るみでえだ。こないだトラック落ぢだべ。あれも運転手、黒い熊みでなのいたって言ってる」


「ああ、あの事故」


「祐介も見だって言ってるし、新聞屋も見だらしい」


「まだ冬眠してねえのいるんすかね」


「分がらね。まあ、グレーダーなら熊の方が逃げるべ」


 樋口が笑った。


「来たらブレードで押してやりますよ」


「やめれ。後で面倒くせえことになる」


「冗談っすよ」


「当たり前だ」


 浩志も笑った。


     *


 午前二時を少し過ぎたころ。


 国道398号を、村田組のグレーダーがゆっくりと進んでいた。


 運転しているのは樋口だった。


 助手席には同じく季節作業員の男が乗っている。


 二人とも稲沢地区に住んでいるわけではない。除雪のある日は旧湯澤市側からハイエースでやってきて、重機車庫横のグレーダーへ乗り換える。


 雪は途切れず降っていた。


 路面には新しい雪が積もり、その上を走った車の跡が何本か残っている。


 樋口はブレードの当たりを見ながら、ゆっくりと雪を剥いでいた。


 国道は交通量がある。


 中途半端に雪を残せば、車に踏まれて固まり、あとで厄介になる。


 急いで押して終わりという仕事ではなかった。


 ブレードが雪を薄く削り取り、その後ろに黒い舗装面が現れていく。


 グレーダーは遅い。


 低いエンジン音と、ブレードが路面を擦る音だけが長く続いていた。


「樋口さん」


 助手が言った。


「ん?」


「なんかいね?」


「どご?」


「左。あそこ」


 樋口はブレードから一瞬だけ目を離した。


 路肩の向こう。


 雪の上に黒いものがいた。


「……ああ」


 夕方の浩志の話を思い出した。


「これでねえが」


「何がです?」


「最近出るっていう熊。浩志さん言ってた。真っ黒いやつ」


「ああ、例の」


 助手が窓越しに目を凝らした。


「熊っすかね」


「大きさそんなもんだべ」


 小さな熊ほどだった。


 四つ足で歩いている。


 それだけ確認すると、樋口は前を向いた。


 グレーダーはそのまま進んだ。


 しばらくして助手が、また左を見た。


「……まだいる」


「何が?」


「熊」


 樋口も見る。


 いた。


 先ほどとほとんど同じ位置にいる。


 いや、同じ場所にいるのではない。


 こちらと一緒に移動しているのだ。


「ついて来てんのが?」


「そう見えますね」


 黒いものは路肩の外側、雪の積もったところを歩いていた。


 グレーダーとほとんど同じ速さだった。


 樋口がブレードの様子を見るために少し速度を落とす。


 助手が横を見た。


「……あいつも遅くなりましたよ」


「は?」


「ほら」


 確かに遅くなっていた。


 グレーダーが進めば進む。


 速度を落とせば、向こうも歩調を緩める。


「なんだ、あいつ」


 樋口は眉を寄せた。


「クラクション鳴らしてみます?」


「やめどげ」


「なんで?」


「こっち来たら嫌だべ」


「ああ……それもそうっすね」


 二人とも笑った。


 だが、その笑いは長く続かなかった。


 グレーダーは遅い。


 だから、黒いものもいつまでも横にいる。


 一分。


 二分。


 それでも離れない。


 樋口は何度か横を見た。


 作業灯の光は十分届いている。


 それなのに、よく見えなかった。


 黒い。


 それしか分からない。


 熊なら見えるはずの毛並みがない。


 丸い耳があるのかどうかも分からない。


 目も鼻も見えない。


 四つ足の黒い形だけが、白い雪の上を移動している。


「……浩志さん、何て言ってたんすか」


「何が?」


「これ」


「真っ黒い熊出るから気ぃつけれって、それだけ」


「これ、熊っすかね」


「知らね」


 樋口は前を向いた。


 しばらくすると、黒いものが道路へ寄ってきた。


 助手が身を固くした。


「来た」


 だが、路肩のところで止まった。


 舗装面には上がらない。


 そのまま向きを変え、また国道と平行に走り始める。


「道路さ出てこねえな」


「グレーダー怖いんでねえすか?」


「だったら、いつまでついて来るんだよ」


「……ですよね」


 また二人とも黙った。


 グレーダーは雪を剥ぐ。


 黒いものはついてくる。


 作業灯の中で、雪だけが白かった。


「樋口さん」


「何よ」


「これ、絶対なんか変ですよ」


「知らねえよ」


 今度は少し強い言い方になった。


 樋口自身、同じことを考えていた。


 やがて黒いものが立ち止まった。


「あ」


 助手が振り返る。


 グレーダーだけが進んでいく。


 距離が開いた。


「止まった」


「んだな」


 黒いものは追ってこなかった。


 作業灯の光から外れ、雪の向こうへ消えていった。


 助手がようやく前を向いた。


「なんだったんすかね」


「熊だべ」


「……熊っすかね」


「ほかに何いんだよ」


「ですよね」


 それで話は終わった。


 少なくとも、そのときは。


 数分後。


 ブレードに強い負荷がかかった。


 ガンッ、と下から大きな音が響いた。


「あっ」


 樋口はすぐにグレーダーを止めた。


「飛びました?」


「たぶんな」


 二人で降りて確認する。


「やっぱピンだ」


「交換しますか」


「んだな」


 予備のピンを持ってくる。


 交換すれば済む話だった。


 助手が先に歩いた。


「うおっ!」


 足が滑った。


 両腕を振り回したものの間に合わず、そのまま尻から路面へ落ちた。


 樋口が笑った。


「何やってんだよ」


「いや、めちゃくちゃ滑るっすよ!」


「今きれいに剥いだばっかだもの。当たり前だべ」


「笑ってねえで手貸してくださいよ」


「自分で立で――」


 樋口が一歩踏み出した。


 足が横へ滑った。


「うわっ!」


 今度は樋口が転んだ。


 助手が道路に座ったまま樋口を見る。


 数秒、黙った。


 それから吹き出した。


「何やってんすか」


「うるせえ」


「今、人のこと笑ったばっかじゃないすか」


「いいがら立て」


「樋口さんからどうぞ」


「うるせえって」


 二人は笑いながら立ち上がった。


 雪をきれいに剥いだばかりの国道は、馬鹿みたいに滑った。


 ピンを交換すると、二人はまたグレーダーへ乗り込んだ。


 黒いものの話は、それきりしなかった。


     *


 翌日の明け方。


 西田新聞店の吉輝は配達を終え、店へ戻る途中だった。


 父親の敏夫から、黒いものの話は聞いていた。


 最初は信じていなかった。


「熊だべ」


 そう言った吉輝に、敏夫は、


「熊だが何だが分がらね」


 と答えた。


「じゃあ犬でねえの?」


「犬でもねえ」


「じゃあ何よ」


「だから黒いやつだって」


「意味分がんねえ」


 そのときは笑っていた。


 細かい雪の向こうを、何かが横切った。


 吉輝はアクセルから足を離した。


「……ん?」


 道路脇に何かいる。


 黒かった。


「まさか」


 車を減速させる。


 ヘッドライトの先に、小熊ほどの黒いものがいた。


 四つ足。


 それ以上は分からない。


「……なんだよ、あれ」


 黒いものがこちらを向いた。


 次の瞬間、走り出した。


「え?」


 こちらへ来る。


「おい」


 速い。


「おいおいおい!」


 吉輝はアクセルを踏んだ。


 車が前へ出る。


 バックミラーを見る。


 黒いものが道路を走ってくる。


「なんだよ!」


 さらに踏んだ。


 黒いものは追ってきた。


「熊じゃねえべ、あれ!」


 吉輝は速度を上げた。


 ようやく黒いものが小さくなり、降る雪の中へ消えた。


 それでもしばらく、アクセルから足を戻せなかった。


     *


 店へ戻ると、敏夫がいた。


「親父」


「ん?」


「あれ、俺も見だ」


 敏夫の手が止まった。


「何をよ」


「黒いやつ」


 敏夫は息子の顔を見た。


「熊だったべ?」


「……分がらね」


「んだべ」


「追ってきた」


「何?」


「車さ向かって走ってきた」


 敏夫の顔から笑いが消えた。


「どごで?」


 吉輝が場所を説明した。


「結構速かったぞ」


「熊でねえの?」


「だから分がらねって」


 吉輝は椅子へ腰を下ろした。


「でも、親父が言ってた意味は分がった」


「何が」


「あれ、説明できねえな」


 少し考えた。


「熊みたいなんだけどよ。ただ黒いんだよな」


「んだ」


「顔とか、全然分がらね」


「んだ」


 それ以上、二人とも上手い言葉を見つけられなかった。


 その日の午後。


 吉輝は配達に使っている車の窓を開けようとした。


 スイッチを押した。


 動かない。


「ん?」


 もう一度押した。


 やはり動かない。


 助手席側は普通に開いた。


「昨日まで動いでだべ……」


 何度押しても、運転席の窓だけが動かなかった。


「なんだよ、もう」


     *


 黒い熊のようなものを見た。


 そんな話は少しずつ増えていた。


 道路脇にいた。


 除雪車についてきた。


 車を追いかけてきた。


 話す人間によって内容は違った。


 だが、ほとんどが夜だった。


 そして、雪が降っていた。


 猟友会にも目撃情報は入っていた。


 佐藤勇と後藤慎吾は、日中に何か所も見て回った。


「この辺です」


 勇が言った。


「村田組の人が見たの」


 慎吾は道路脇の雪を見る。


「足跡は?」


「分かんないですね」


「毛は?」


「ないです」


「糞は?」


「それも」


 雪は夜から降り続いていた。


 いくつか窪みはあるが、何の跡なのか判別できない。


「箱罠、どご置ぐ?」


「そこなんですよね」


「出るどごバラバラだべ」


「はい」


「山際だけでもねえし」


 慎吾は立ち上がった。


「面倒くせえ熊だな」


 勇が笑った。


「もう熊って決めてるじゃないですか」


「熊でなかったら何よ」


「いや、それは分かんないですけど」


「だったら熊だ」


 二人は車へ戻ろうとした。


 その途中で、慎吾が足を止めた。


「勇」


「はい?」


「これ」


 雪を指した。


 足跡があった。


 今まで見てきた曖昧な窪みとは違う。


 形がはっきりしている。


 勇がしゃがんだ。


「熊ですね」


「んだな」


「新しいです?」


「新しい」


 足跡は林の方へ続いていた。


 二人の顔つきが変わった。


 慎吾が先に歩く。


 勇が続く。


 雪の上に足跡が途切れず残っていた。


 途中、低い枝に黒い毛が引っ掛かっている。


「慎吾さん」


「ん?」


「毛あります」


 慎吾が確認した。


「あるな」


 勇は少し笑った。


「やっぱり熊だったんじゃないですか」


「静がにしろ」


 慎吾が低い声で言った。


 二人はさらに進んだ。


 やがて慎吾が止まった。


「いる」


 勇も足を止めた。


「どこです?」


「あそこ」


 木々の間に黒いものがいた。


 一瞬、勇は息を止めた。


 すぐに分かった。


 熊だった。


 黒い毛が見える。


 丸い耳がある。


 鼻先がある。


 体の丸みも分かる。


 雪を踏めば、そこに足跡が残る。


「熊だな」


 慎吾が小さく言った。


「……熊ですね」


 冬眠していないツキノワグマだった。


     *


 必要な連絡が回り、その日のうちに熊は仕留められた。


 話はすぐに稲沢地区へ広まった。


 やっぱり熊だった。


 冬眠しない熊が歩き回っていた。


 夜中に見られていた黒いやつも、あれだったのだろう。


 浩志たちのところにも話は届いた。


「熊、獲ったってよ」


 智也が言った。


 祐介がすぐに反応した。


「ほら! 俺が見たのもそれじゃないっすか!」


「そうなんでねえの」


「やっぱ熊だったんすよ!」


「最初から熊だって言ってたべ」


「じゃあ俺、寝ぼけてなかったじゃないっすか」


「そこはまだ分がらね」


「なんでっすか!」


 笑いが起きた。


 浩志も笑った。


「慎吾さんたちが獲ったんなら、熊だったんだべ」


「これで終わりだな」


 誰かが言った。


 誰も反対しなかった。


     *


 数日間、黒いものの目撃はなかった。


 熊が仕留められたからだ。


 そう思うには十分だった。


 数日後。夕方から、また雪が降り始めた。


 夜が深くなるにつれて降り方は強くなり、日付が変わるころには道路も白くなった。


 楢山建設のホイールローダーが、作業灯を照らしながら雪を押していた。


 オペレーターの男は雪を押し、バックする。


 向きを変え、また押す。


 あと何度かで終わる。


 そう思って前進へ切り替えたとき、作業灯の先を何かが横切った。


「……ん?」


 ローダーを止めた。


 道路脇の雪の上にいる。


「熊?」


 つい数日前、一頭仕留められたばかりだった。


「まだいだのがよ」


 黒いものが動いた。


 小熊ほどの大きさだった。


 男はフロントガラス越しに目を凝らした。


「……なんだ、あれ」


 熊なら見えるはずのものが見えない。


 毛も。


 耳も。


 鼻も。


 作業灯がまともに当たっているのに、ただ黒かった。


 黒いものがこちらを向いた。


 走り出した。


「おい」


 まっすぐローダーへ来る。


「おいおい」


 男は思わず身構えた。


 黒いものはローダーのすぐ手前で進路を変え、車体の横を駆け抜けた。


 男が振り返る。


 もういなかった。


「……なんなんだよ」


 しばらく待った。


 出てこない。


 男は首を傾げ、作業を再開した。


 担当箇所を終えたのは、それから三十分ほど後だった。


 ローダーを停め、エンジンを切る。


 ドアを開けると、冷たい風が吹き込んできた。


「さみ……」


 ステップへ片足を掛けた。


 その瞬間、突風が吹いた。


 開いていた重いドアが勢いよく戻ってきた。


 ドン、と背中に当たった。


「いってえ!」


 男はステップへしがみついた。


「っつ……!」


 背中を押さえ、しばらく動けなかった。


「なんだよ、もう……」


     *


 翌朝。


 楢山建設の事務所で、男は背中をさすっていた。


「まだ痛えの?」


「痛えよ。まともに入ったもの」


「病院行ったら?」


「打撲だべ」


「何したのよ」


「降りようとしたら風でドア閉まってきた」


「そんなことある?」


「あるから痛えんだよ」


 笑い声が上がった。


 別のオペレーターが入ってきた。


 そちらも機嫌が悪かった。


「どうした?」


「昨日チェーン切れた」


「また?」


「またじゃねえ。今年初めてだ」


「じゃあいいべ」


「よくねえよ」


 別の男も口を挟んだ。


「俺なんか工具足さ落としたぞ」


「それ、おめが悪いだけだべ」


「痛かったんだからな」


「知らねえよ」


 また笑いが起きた。


 そのやり取りを聞いていた古参従業員の高橋五郎が、ふと口を開いた。


「……なんか、昔もあったな」


「何が?」


「こういうの」


「こういうのって?」


「しょうもねえこと続くの」


 誰かが笑った。


「現場なんていつもそんなもんだべ」


「まあ、んだけどな」


「いつよ?」


「二十年ぐれえ前」


 五郎は少し考えた。


「稲沢地区で工事やったとぎだ」


「何あったの?」


「法面から滑り落ぢたやついただろ。トラック脱輪して仕事止まったり、工具足さ落としたり。細けえのが妙に続いでな」


「今と変わんねえじゃん」


「んだ。俺らも最初そう言ってた」


 男はそこで言葉を切った。


「最後、敷鉄板で足潰したやつ出た」


 笑い声が止まった。


「鉄板?」


「んだ」


「足潰したって、挟まったの?」


「んだ。救急車来て大騒ぎだった」


「同じ現場?」


「同じだ」


「それは笑えねえな」


「笑えねえよ」


 五郎はコーヒーを一口飲んだ。


「しかも、その前に石像壊してんだ」


「石像?」


「現場にあったやつ。バックホーで引っ掛けで、ヒビ入れた」


「それと事故、関係あったの?」


「知らねえよ。そんなの分がるわけねえべ」


 男は苦笑した。


「ただ、あんまり続くもんだから現場の連中が気味悪がってな。最後に鉄板の事故まで起きたもんだから、さすがにそのままにしとくのも嫌だって話になった」


「どうしたの?」


「直した」


「石像を?」


「んだ。ヒビさモルタル詰めてな。神主まで呼んで拝んでもらった」


「そこまでしたの?」


「した。俺もいたもの」


「で?」


「何が?」


「そのあと」


 五郎は少し考えた。


「……何もなかったな」


「マジで?」


「少なくとも、ああいうのは続がねがった」


「じゃあやっぱりそれだったんでねえの」


「知らねって」


 古参社員は笑った。


「安全管理も見直したし、みんな気ぃつけるようになったしな。たまたまだべ」


「でも気味悪いな」


「二十年前の話だ」


 そう言って、男は話を終わらせた。


 誰かが別の話を始める。


 背中を打った男は湿布を探していた。


 チェーンを切った男は交換の段取りを話していた。


 工具を足に落とした男は靴を脱ぎ、青くなった指を見ていた。


 五郎も、それ以上は何も言わなかった。


 今の稲沢地区で起きていることと、二十年前の工事を結びつける理由などなかった。


 まして、あの石像が今年また壊れていることなど知らなかった。


 窓の外では、細かな雪が降り続いていた。

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