第四話 熊だった
堤防道路で大型トラックが転落してから、数日が過ぎていた。
運転手は軽い打撲だけで済んだ。トラックも翌日の明るい時間になってから、大型車を扱えるレッカー車とクレーンによって引き上げられた。
事故そのものは、それで片づいた。
だが、運転手が警察に話したことだけは、妙な噂となって稲沢地区に残った。
道路の真ん中に、黒いものがいた。
子熊くらいの大きさだった。
避けようとしたが間に合わず、ぶつかった。
それからトラックは路肩を外れ、堤防の法面へ落ちた。
ところが、事故現場から動物の死骸は見つからなかった。血もなければ、毛の一本も落ちていない。
轢いたと思っただけじゃないのか。
雪の塊でも見間違えたんだべ。
いや、運転手は確かにぶつかったと言っている。
そんな話に、祐介が融雪剤散布の途中で見たという黒いものや、西田新聞店の敏夫が見たものまで混ざった。
結局、皆が行き着く答えは同じだった。
熊だべ。
この年は熊の目撃が多かった。
冬眠に入らず、雪の中をうろついている熊が一頭くらいいても不思議ではない。
猟友会にも話は届いていた。
だが、目撃されるのは決まって夜だった。それも雪の降る、深夜から明け方にかけてが多い。
夜のうちに雪が降り続けば、朝になって目撃場所を調べても足跡などろくに残っていない。毛も糞も見つからない。
箱罠を仕掛けようにも、出る場所が定まらなかった。
夜間の突然の目撃に、その都度猟銃を持って駆けつけるわけにもいかない。
そうして、正体の分からない黒い熊の話だけが、少しずつ増えていった。
*
その日の夕方。
浩志は重機車庫の外で樋口と顔を合わせた。
村田組のモーターグレーダーは、浩志たちが使う重機車庫のすぐ横に置かれている。
樋口は夏場はトマト農家だった。
浩志と同じトマト部会員で、冬になると村田組の季節作業員として国道398号の除雪に入る。
仕事が別なので毎日顔を合わせるわけではないが、会えば立ち話くらいはする。
「お疲れっす」
「おう。そっちも出るなが?」
「出ます。夜からまた降るみたいなんで」
「んだが」
浩志は一度通り過ぎかけて、思い出したように振り返った。
「あ、樋口くん」
「はい?」
「最近、真っ黒い熊の目撃情報あるから気ぃつけれな」
「熊?」
「んだ。夜中に出るみでえだ。こないだトラック落ぢだべ。あれも運転手、黒い熊みでなのいたって言ってる」
「ああ、あの事故」
「祐介も見だって言ってるし、新聞屋も見だらしい」
「まだ冬眠してねえのいるんすかね」
「分がらね。まあ、グレーダーなら熊の方が逃げるべ」
樋口が笑った。
「来たらブレードで押してやりますよ」
「やめれ。後で面倒くせえことになる」
「冗談っすよ」
「当たり前だ」
浩志も笑った。
*
午前二時を少し過ぎたころ。
国道398号を、村田組のグレーダーがゆっくりと進んでいた。
運転しているのは樋口だった。
助手席には同じく季節作業員の男が乗っている。
二人とも稲沢地区に住んでいるわけではない。除雪のある日は旧湯澤市側からハイエースでやってきて、重機車庫横のグレーダーへ乗り換える。
雪は途切れず降っていた。
路面には新しい雪が積もり、その上を走った車の跡が何本か残っている。
樋口はブレードの当たりを見ながら、ゆっくりと雪を剥いでいた。
国道は交通量がある。
中途半端に雪を残せば、車に踏まれて固まり、あとで厄介になる。
急いで押して終わりという仕事ではなかった。
ブレードが雪を薄く削り取り、その後ろに黒い舗装面が現れていく。
グレーダーは遅い。
低いエンジン音と、ブレードが路面を擦る音だけが長く続いていた。
「樋口さん」
助手が言った。
「ん?」
「なんかいね?」
「どご?」
「左。あそこ」
樋口はブレードから一瞬だけ目を離した。
路肩の向こう。
雪の上に黒いものがいた。
「……ああ」
夕方の浩志の話を思い出した。
「これでねえが」
「何がです?」
「最近出るっていう熊。浩志さん言ってた。真っ黒いやつ」
「ああ、例の」
助手が窓越しに目を凝らした。
「熊っすかね」
「大きさそんなもんだべ」
小さな熊ほどだった。
四つ足で歩いている。
それだけ確認すると、樋口は前を向いた。
グレーダーはそのまま進んだ。
しばらくして助手が、また左を見た。
「……まだいる」
「何が?」
「熊」
樋口も見る。
いた。
先ほどとほとんど同じ位置にいる。
いや、同じ場所にいるのではない。
こちらと一緒に移動しているのだ。
「ついて来てんのが?」
「そう見えますね」
黒いものは路肩の外側、雪の積もったところを歩いていた。
グレーダーとほとんど同じ速さだった。
樋口がブレードの様子を見るために少し速度を落とす。
助手が横を見た。
「……あいつも遅くなりましたよ」
「は?」
「ほら」
確かに遅くなっていた。
グレーダーが進めば進む。
速度を落とせば、向こうも歩調を緩める。
「なんだ、あいつ」
樋口は眉を寄せた。
「クラクション鳴らしてみます?」
「やめどげ」
「なんで?」
「こっち来たら嫌だべ」
「ああ……それもそうっすね」
二人とも笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
グレーダーは遅い。
だから、黒いものもいつまでも横にいる。
一分。
二分。
それでも離れない。
樋口は何度か横を見た。
作業灯の光は十分届いている。
それなのに、よく見えなかった。
黒い。
それしか分からない。
熊なら見えるはずの毛並みがない。
丸い耳があるのかどうかも分からない。
目も鼻も見えない。
四つ足の黒い形だけが、白い雪の上を移動している。
「……浩志さん、何て言ってたんすか」
「何が?」
「これ」
「真っ黒い熊出るから気ぃつけれって、それだけ」
「これ、熊っすかね」
「知らね」
樋口は前を向いた。
しばらくすると、黒いものが道路へ寄ってきた。
助手が身を固くした。
「来た」
だが、路肩のところで止まった。
舗装面には上がらない。
そのまま向きを変え、また国道と平行に走り始める。
「道路さ出てこねえな」
「グレーダー怖いんでねえすか?」
「だったら、いつまでついて来るんだよ」
「……ですよね」
また二人とも黙った。
グレーダーは雪を剥ぐ。
黒いものはついてくる。
作業灯の中で、雪だけが白かった。
「樋口さん」
「何よ」
「これ、絶対なんか変ですよ」
「知らねえよ」
今度は少し強い言い方になった。
樋口自身、同じことを考えていた。
やがて黒いものが立ち止まった。
「あ」
助手が振り返る。
グレーダーだけが進んでいく。
距離が開いた。
「止まった」
「んだな」
黒いものは追ってこなかった。
作業灯の光から外れ、雪の向こうへ消えていった。
助手がようやく前を向いた。
「なんだったんすかね」
「熊だべ」
「……熊っすかね」
「ほかに何いんだよ」
「ですよね」
それで話は終わった。
少なくとも、そのときは。
数分後。
ブレードに強い負荷がかかった。
ガンッ、と下から大きな音が響いた。
「あっ」
樋口はすぐにグレーダーを止めた。
「飛びました?」
「たぶんな」
二人で降りて確認する。
「やっぱピンだ」
「交換しますか」
「んだな」
予備のピンを持ってくる。
交換すれば済む話だった。
助手が先に歩いた。
「うおっ!」
足が滑った。
両腕を振り回したものの間に合わず、そのまま尻から路面へ落ちた。
樋口が笑った。
「何やってんだよ」
「いや、めちゃくちゃ滑るっすよ!」
「今きれいに剥いだばっかだもの。当たり前だべ」
「笑ってねえで手貸してくださいよ」
「自分で立で――」
樋口が一歩踏み出した。
足が横へ滑った。
「うわっ!」
今度は樋口が転んだ。
助手が道路に座ったまま樋口を見る。
数秒、黙った。
それから吹き出した。
「何やってんすか」
「うるせえ」
「今、人のこと笑ったばっかじゃないすか」
「いいがら立て」
「樋口さんからどうぞ」
「うるせえって」
二人は笑いながら立ち上がった。
雪をきれいに剥いだばかりの国道は、馬鹿みたいに滑った。
ピンを交換すると、二人はまたグレーダーへ乗り込んだ。
黒いものの話は、それきりしなかった。
*
翌日の明け方。
西田新聞店の吉輝は配達を終え、店へ戻る途中だった。
父親の敏夫から、黒いものの話は聞いていた。
最初は信じていなかった。
「熊だべ」
そう言った吉輝に、敏夫は、
「熊だが何だが分がらね」
と答えた。
「じゃあ犬でねえの?」
「犬でもねえ」
「じゃあ何よ」
「だから黒いやつだって」
「意味分がんねえ」
そのときは笑っていた。
細かい雪の向こうを、何かが横切った。
吉輝はアクセルから足を離した。
「……ん?」
道路脇に何かいる。
黒かった。
「まさか」
車を減速させる。
ヘッドライトの先に、小熊ほどの黒いものがいた。
四つ足。
それ以上は分からない。
「……なんだよ、あれ」
黒いものがこちらを向いた。
次の瞬間、走り出した。
「え?」
こちらへ来る。
「おい」
速い。
「おいおいおい!」
吉輝はアクセルを踏んだ。
車が前へ出る。
バックミラーを見る。
黒いものが道路を走ってくる。
「なんだよ!」
さらに踏んだ。
黒いものは追ってきた。
「熊じゃねえべ、あれ!」
吉輝は速度を上げた。
ようやく黒いものが小さくなり、降る雪の中へ消えた。
それでもしばらく、アクセルから足を戻せなかった。
*
店へ戻ると、敏夫がいた。
「親父」
「ん?」
「あれ、俺も見だ」
敏夫の手が止まった。
「何をよ」
「黒いやつ」
敏夫は息子の顔を見た。
「熊だったべ?」
「……分がらね」
「んだべ」
「追ってきた」
「何?」
「車さ向かって走ってきた」
敏夫の顔から笑いが消えた。
「どごで?」
吉輝が場所を説明した。
「結構速かったぞ」
「熊でねえの?」
「だから分がらねって」
吉輝は椅子へ腰を下ろした。
「でも、親父が言ってた意味は分がった」
「何が」
「あれ、説明できねえな」
少し考えた。
「熊みたいなんだけどよ。ただ黒いんだよな」
「んだ」
「顔とか、全然分がらね」
「んだ」
それ以上、二人とも上手い言葉を見つけられなかった。
その日の午後。
吉輝は配達に使っている車の窓を開けようとした。
スイッチを押した。
動かない。
「ん?」
もう一度押した。
やはり動かない。
助手席側は普通に開いた。
「昨日まで動いでだべ……」
何度押しても、運転席の窓だけが動かなかった。
「なんだよ、もう」
*
黒い熊のようなものを見た。
そんな話は少しずつ増えていた。
道路脇にいた。
除雪車についてきた。
車を追いかけてきた。
話す人間によって内容は違った。
だが、ほとんどが夜だった。
そして、雪が降っていた。
猟友会にも目撃情報は入っていた。
佐藤勇と後藤慎吾は、日中に何か所も見て回った。
「この辺です」
勇が言った。
「村田組の人が見たの」
慎吾は道路脇の雪を見る。
「足跡は?」
「分かんないですね」
「毛は?」
「ないです」
「糞は?」
「それも」
雪は夜から降り続いていた。
いくつか窪みはあるが、何の跡なのか判別できない。
「箱罠、どご置ぐ?」
「そこなんですよね」
「出るどごバラバラだべ」
「はい」
「山際だけでもねえし」
慎吾は立ち上がった。
「面倒くせえ熊だな」
勇が笑った。
「もう熊って決めてるじゃないですか」
「熊でなかったら何よ」
「いや、それは分かんないですけど」
「だったら熊だ」
二人は車へ戻ろうとした。
その途中で、慎吾が足を止めた。
「勇」
「はい?」
「これ」
雪を指した。
足跡があった。
今まで見てきた曖昧な窪みとは違う。
形がはっきりしている。
勇がしゃがんだ。
「熊ですね」
「んだな」
「新しいです?」
「新しい」
足跡は林の方へ続いていた。
二人の顔つきが変わった。
慎吾が先に歩く。
勇が続く。
雪の上に足跡が途切れず残っていた。
途中、低い枝に黒い毛が引っ掛かっている。
「慎吾さん」
「ん?」
「毛あります」
慎吾が確認した。
「あるな」
勇は少し笑った。
「やっぱり熊だったんじゃないですか」
「静がにしろ」
慎吾が低い声で言った。
二人はさらに進んだ。
やがて慎吾が止まった。
「いる」
勇も足を止めた。
「どこです?」
「あそこ」
木々の間に黒いものがいた。
一瞬、勇は息を止めた。
すぐに分かった。
熊だった。
黒い毛が見える。
丸い耳がある。
鼻先がある。
体の丸みも分かる。
雪を踏めば、そこに足跡が残る。
「熊だな」
慎吾が小さく言った。
「……熊ですね」
冬眠していないツキノワグマだった。
*
必要な連絡が回り、その日のうちに熊は仕留められた。
話はすぐに稲沢地区へ広まった。
やっぱり熊だった。
冬眠しない熊が歩き回っていた。
夜中に見られていた黒いやつも、あれだったのだろう。
浩志たちのところにも話は届いた。
「熊、獲ったってよ」
智也が言った。
祐介がすぐに反応した。
「ほら! 俺が見たのもそれじゃないっすか!」
「そうなんでねえの」
「やっぱ熊だったんすよ!」
「最初から熊だって言ってたべ」
「じゃあ俺、寝ぼけてなかったじゃないっすか」
「そこはまだ分がらね」
「なんでっすか!」
笑いが起きた。
浩志も笑った。
「慎吾さんたちが獲ったんなら、熊だったんだべ」
「これで終わりだな」
誰かが言った。
誰も反対しなかった。
*
数日間、黒いものの目撃はなかった。
熊が仕留められたからだ。
そう思うには十分だった。
数日後。夕方から、また雪が降り始めた。
夜が深くなるにつれて降り方は強くなり、日付が変わるころには道路も白くなった。
楢山建設のホイールローダーが、作業灯を照らしながら雪を押していた。
オペレーターの男は雪を押し、バックする。
向きを変え、また押す。
あと何度かで終わる。
そう思って前進へ切り替えたとき、作業灯の先を何かが横切った。
「……ん?」
ローダーを止めた。
道路脇の雪の上にいる。
「熊?」
つい数日前、一頭仕留められたばかりだった。
「まだいだのがよ」
黒いものが動いた。
小熊ほどの大きさだった。
男はフロントガラス越しに目を凝らした。
「……なんだ、あれ」
熊なら見えるはずのものが見えない。
毛も。
耳も。
鼻も。
作業灯がまともに当たっているのに、ただ黒かった。
黒いものがこちらを向いた。
走り出した。
「おい」
まっすぐローダーへ来る。
「おいおい」
男は思わず身構えた。
黒いものはローダーのすぐ手前で進路を変え、車体の横を駆け抜けた。
男が振り返る。
もういなかった。
「……なんなんだよ」
しばらく待った。
出てこない。
男は首を傾げ、作業を再開した。
担当箇所を終えたのは、それから三十分ほど後だった。
ローダーを停め、エンジンを切る。
ドアを開けると、冷たい風が吹き込んできた。
「さみ……」
ステップへ片足を掛けた。
その瞬間、突風が吹いた。
開いていた重いドアが勢いよく戻ってきた。
ドン、と背中に当たった。
「いってえ!」
男はステップへしがみついた。
「っつ……!」
背中を押さえ、しばらく動けなかった。
「なんだよ、もう……」
*
翌朝。
楢山建設の事務所で、男は背中をさすっていた。
「まだ痛えの?」
「痛えよ。まともに入ったもの」
「病院行ったら?」
「打撲だべ」
「何したのよ」
「降りようとしたら風でドア閉まってきた」
「そんなことある?」
「あるから痛えんだよ」
笑い声が上がった。
別のオペレーターが入ってきた。
そちらも機嫌が悪かった。
「どうした?」
「昨日チェーン切れた」
「また?」
「またじゃねえ。今年初めてだ」
「じゃあいいべ」
「よくねえよ」
別の男も口を挟んだ。
「俺なんか工具足さ落としたぞ」
「それ、おめが悪いだけだべ」
「痛かったんだからな」
「知らねえよ」
また笑いが起きた。
そのやり取りを聞いていた古参従業員の高橋五郎が、ふと口を開いた。
「……なんか、昔もあったな」
「何が?」
「こういうの」
「こういうのって?」
「しょうもねえこと続くの」
誰かが笑った。
「現場なんていつもそんなもんだべ」
「まあ、んだけどな」
「いつよ?」
「二十年ぐれえ前」
五郎は少し考えた。
「稲沢地区で工事やったとぎだ」
「何あったの?」
「法面から滑り落ぢたやついただろ。トラック脱輪して仕事止まったり、工具足さ落としたり。細けえのが妙に続いでな」
「今と変わんねえじゃん」
「んだ。俺らも最初そう言ってた」
男はそこで言葉を切った。
「最後、敷鉄板で足潰したやつ出た」
笑い声が止まった。
「鉄板?」
「んだ」
「足潰したって、挟まったの?」
「んだ。救急車来て大騒ぎだった」
「同じ現場?」
「同じだ」
「それは笑えねえな」
「笑えねえよ」
五郎はコーヒーを一口飲んだ。
「しかも、その前に石像壊してんだ」
「石像?」
「現場にあったやつ。バックホーで引っ掛けで、ヒビ入れた」
「それと事故、関係あったの?」
「知らねえよ。そんなの分がるわけねえべ」
男は苦笑した。
「ただ、あんまり続くもんだから現場の連中が気味悪がってな。最後に鉄板の事故まで起きたもんだから、さすがにそのままにしとくのも嫌だって話になった」
「どうしたの?」
「直した」
「石像を?」
「んだ。ヒビさモルタル詰めてな。神主まで呼んで拝んでもらった」
「そこまでしたの?」
「した。俺もいたもの」
「で?」
「何が?」
「そのあと」
五郎は少し考えた。
「……何もなかったな」
「マジで?」
「少なくとも、ああいうのは続がねがった」
「じゃあやっぱりそれだったんでねえの」
「知らねって」
古参社員は笑った。
「安全管理も見直したし、みんな気ぃつけるようになったしな。たまたまだべ」
「でも気味悪いな」
「二十年前の話だ」
そう言って、男は話を終わらせた。
誰かが別の話を始める。
背中を打った男は湿布を探していた。
チェーンを切った男は交換の段取りを話していた。
工具を足に落とした男は靴を脱ぎ、青くなった指を見ていた。
五郎も、それ以上は何も言わなかった。
今の稲沢地区で起きていることと、二十年前の工事を結びつける理由などなかった。
まして、あの石像が今年また壊れていることなど知らなかった。
窓の外では、細かな雪が降り続いていた。




