第五話 注意してください
朝から細かな雪が降っていた。
積もるほどの勢いではなかったが、湯澤市役所の駐車場には薄く雪が残り、出入りする車のタイヤに踏まれて灰色に汚れていた。
市役所三階。
議場では、十二月定例議会の一般質問が続いていた。
暖房の効いた室内には議員が並び、その正面には市長、副市長、各部局の職員が席に着いている。傍聴席にも何人かの市民がいた。
午前中から、除雪体制、物価高騰への対応、来年度予算に関する質問が続き、やがて稲沢地区に住む市議会議員の順番になった。
議員が演壇に立った。
手元の資料に目を落とし、それから顔を上げる。
「次に、稲沢地区において相次いでおります、熊と思われる動物の目撃について伺います」
何人かの議員が資料から顔を上げた。
「御承知のとおり、今年は市内各地で熊の出没が相次いでおります。農作物への被害だけでなく、住宅地付近での目撃もあり、市民生活に大きな不安を与えております」
今年になって、何度も取り上げられてきた問題だった。
だが、議員はそこから稲沢地区の話へ移った。
「その中で、今月に入り、稲沢地区において夜間を中心に、黒い熊のような動物を見たという情報が複数寄せられております」
議場が静かになる。
「十二月四日には、堤防沿いの道路を走行していた大型トラックが法面へ転落する事故が発生しております。幸い運転手の方は軽傷で済んだと伺っておりますが、事故直前、道路上に黒い動物がいたとの証言があったと承知しております」
議員は一度言葉を切った。
「その後も、新聞配達中の方、道路除雪に従事する作業員、その他住民から、同様と思われる目撃情報が寄せられております」
さらに資料を一枚めくる。
「また、猟友会の協力により、冬眠していなかったツキノワグマ一頭が捕獲されております。しかし、その後にも同様の目撃情報があると伺っております」
市長席の方へ視線を向けた。
「市では現在、これらの情報をどの程度把握しているのか。また、今後どのような対策を取る考えなのか、お伺いいたします」
質問を終え、議員が席へ戻った。
担当部長が答弁に立つ。
「ただいまの御質問にお答えいたします」
用意された資料を開いた。
「稲沢地区における熊と思われる動物の目撃につきましては、市といたしましても複数の情報が寄せられていることを把握しております」
淡々とした声が議場に響いた。
「目撃情報につきましては、警察及び猟友会とも情報共有を行い、必要に応じて現地確認等を行っております。また、先ほど御質問にもございましたとおり、猟友会によりツキノワグマ一頭が捕獲されております」
一度、資料をめくる。
「一方、その後も複数の目撃情報が寄せられておりますが、それぞれの目撃場所や時間が異なっておりますことから、同一個体であるかどうかについては確認できておりません。また、夜間の目撃が多いことから、目撃された動物がすべてツキノワグマであるかどうかにつきましても、現時点では確認できておりません」
今後も警察、猟友会と連携し、情報収集を続ける。
市民の安全確保に努める。
答弁はそう締めくくられた。
質問した議員が再び立った。
「再質問いたします」
先ほどより、わずかに声が強かった。
「正体が熊であるかどうかを確認していただきたいということだけを申し上げているわけではありません」
議員は議場を見渡した。
「すでに交通事故が一件発生しております。また、新聞配達の方や除雪作業員など、仕事上どうしても夜間に道路を利用しなければならない方もおります」
何人かが頷いた。
「これから本格的な降雪期を迎えます。深夜から早朝にかけて除雪作業に従事される方も多くなります。熊であろうと、別の野生動物であろうと、道路上に突然現れれば危険であることに変わりはありません」
一拍置いた。
「市民に対する注意喚起を、もう少し積極的に行う必要があるのではないでしょうか」
市側も、今度は明確に答えた。
現在行っている情報提供に加え、防災行政無線などを利用して稲沢地区住民へ注意を呼びかける。
夜間の不要不急の外出を控えること。
やむを得ず外出する場合には十分注意すること。
熊と思われる動物を発見した場合には近づかず、安全を確保した上で警察や市役所へ連絡すること。
そうした内容を改めて周知するという答弁だった。
「ぜひ、お願いいたします」
議員は席へ戻った。
議会は何事もなかったように次の質問へ移った。
*
その日の午後。
稲沢地区に、防災行政無線のチャイムが流れた。
雪雲の下。
家々の屋根や田畑を見下ろすように立つスピーカーから、聞き慣れた電子音が響く。
庭先で雪囲いを直していた老人が手を止めた。
買い物帰りの女が、袋を提げたまま空を見上げた。
西田新聞店では、敏夫が新聞を束ねる手を止めた。
『こちらは、防災湯澤市です』
少し音の割れた声が冬の町へ広がった。
『稲沢地区において、夜間の熊の目撃情報が複数寄せられております』
敏夫が顔を上げた。
『夜間の不要不急の外出は控え、やむを得ず外出する際は、十分注意してください』
奥から吉輝が出てきた。
「また熊だってよ」
敏夫は答えなかった。
『また、熊を目撃した場合は、決して近づかず、安全な場所へ避難し、警察または市役所へ連絡してください』
放送が終わった。
吉輝が言った。
「親父」
「ん?」
「あれ、熊なのがな」
「知らね」
「市では熊って言ってるぞ」
「市だって分がらねべ」
「まあな」
吉輝は外に停めてある配達車を見た。
「窓も直さねばねえしな……」
「早ぐ持ってげ」
「分がってるって」
*
同じ放送を、浩志たちも聞いていた。
重機車庫脇の詰め所で、祐介が缶コーヒーを飲んでいた。
『――夜間の不要不急の外出は控えるようお願いいたします』
そこまで聞いたところで、祐介が笑った。
「俺ら、一番出ちゃいけねえ時間に出てるんでねえすか」
智也が振り向いた。
「おめら仕事だべ」
「熊から見たら仕事かどうか分がんねえっすよ」
「じゃあ熊さ説明してこい」
「なんて?」
「仕事ですって」
「聞いてくれます?」
「知らね」
笑いが起きた。
「でも、市で放送するくらいになったんすね」
祐介が言った。
「事故まで起ぎでるからな」
浩志が答えた。
「議会でも話出たらしいぞ」
「マジっすか」
「稲沢地区の議員が質問したって」
「大事になってきたっすね」
そのとき、少し離れたところに座っていた辰雄が、ぼそりと言った。
「オラおっかねぇ」
皆が辰雄を見る。
「何よ、辰雄さん」
「夜中に熊なんか出てきたら、オラおっかねぇもの」
祐介が笑った。
「辰雄さん、機械乗ってれば大丈夫っすよ」
「何が大丈夫だ。ガラス一枚だべ」
「でも熊よりでかいっすよ」
「おめ、出てきたら先行げな」
「なんで俺なんすか」
「若えがら」
「関係ないっすよ!」
また笑いが起きた。
辰雄だけは、
「嫌だなぁ」
と本気なのか冗談なのか分からない顔で言っていた。
浩志は缶コーヒーを飲みながら、そのやり取りを聞いていた。
自分自身はまだ見ていない。
祐介は見たという。
新聞屋も。
トラックの運転手も。
*
しばらくして浩志が外へ出ると、樋口がグレーダーのところにいた。
「お疲れ」
「あ、お疲れっす」
「今日も出るなが?」
「まだ分かんないっす。とりあえず見に来ただけです」
樋口はグレーダーを見上げてから、思い出したように言った。
「浩志さん」
「ん?」
「この前言ってた黒い熊、俺も見ましたよ」
「どごでよ?」
「国道。除雪してるとき」
「道路さ出てきた?」
「それが出てこねえんすよ」
樋口は手袋を外した。
「ずーっと横ついてくるんですよ。路肩の外を」
「どのぐらい?」
「結構長かったっすよ。グレーダー遅いから」
「走って?」
「走ったり歩いたり。こっちが遅くなると、あっちも遅くなって」
浩志が眉を寄せた。
「何だそれ」
「俺も分かんねっす」
「熊だった?」
樋口は少し考えた。
「……たぶん」
「たぶん?」
「黒すぎて、よく分かんねえんすよ」
「黒い熊なんだから黒いべ」
「いや、そうなんすけど」
樋口は苦笑した。
「なんて言えばいいんすかね。ライト当たってんのに、ただ黒いっていうか」
「ふうん」
「でも道路には上がってこなかったっす」
「車怖えんでねえの?」
「俺らもそう言ってたんすけどね」
樋口はグレーダーへ目を向けた。
「そのあとピン飛びまして」
「ブレードの?」
「はい。交換しようとして降りたら、助手がすっ転んで」
浩志が笑った。
「おめら、ちゃんと気ぃつけれよ」
「俺も笑ったんすよ」
「ん?」
「そしたら俺も転びました」
「馬鹿でねえの」
「ツルッツルなんすよ」
「自分で剥いだんだべや」
「そうなんすけどね」
二人で笑った。
黒い熊の話は、それで終わった。
*
市役所では、その日の夕方にも電話が鳴った。
「はい、湯澤市役所――」
『おめら、何考えでんだ!』
受話器を取った職員が、思わず耳を離した。
「はい?」
『熊でねえ!』
「……恐れ入りますが、お名前を――」
『名前なんか前にも言ったべ!』
職員は、その声に覚えがあった。
「ああ……」
『ああ、でねえ! 今日の放送だ!』
「防災無線でしょうか」
『熊、熊って! 違うって言ってるべ!』
「目撃されている動物につきましては、現在確認中で――」
『だから荒神様だ!』
職員の手が止まった。
「……荒神様?」
『前にも言ったべ!』
思い出した。
以前にも、道路脇の石像が壊されたと電話を掛けてきた老人だった。
『おめらが壊したべ!』
「その件につきましては、担当部署へ――」
『壊してからだ!』
老人の声が大きくなる。
『荒神様壊してから、おがしなもん出るようになったんだ!』
「ですが、熊の目撃情報と荒神様の破損につきましては――」
『熊でねえって言ってるべ!』
職員は黙った。
『早ぐ直せ!』
「はい。御意見として担当部署へお伝え――」
『伝えるだけでねえ! 直せ!』
電話が切れた。
職員はしばらく受話器を持ったまま動かなかった。
隣の席から声がした。
「また?」
「またです」
「あの石の人?」
「はい」
「今度は何だって?」
職員は受話器を戻した。
「黒い熊が出るのは、荒神様壊したからだって」
「……なにそれ?」
「ええ……」
「一応、記録しといて」
「分かりました」
職員は対応記録を開いた。
日付。
時間。
氏名。
内容。
そこまで入力して、次の仕事へ移った。
*
午後三時。
もう一度、防災行政無線が流れた。
『こちらは、防災湯澤市です』
雪は朝より少し強くなっていた。
『稲沢地区において、夜間の熊の目撃情報が複数寄せられております』
人気のない田んぼ。
雪の中から生えたビニールハウスの骨組み。
屋根に雪を載せた家々。
国道を走っていく車。
そして、稲沢地区の西の端。
道路脇には、除雪された雪が積み上げられていた。
『夜間の不要不急の外出は控え、やむを得ず外出する際は、十分注意してください』
雪の下から、石の頭がわずかに覗いていた。
その下は深く埋もれている。
秋に浩志のグレーダーが引っ掛け、壊した石像だった。
『また、熊を目撃した場合は、決して近づかず――』
新しい雪が石の上に落ちた。
ひとひら。
また、ひとひら。
白い雪が、古い石の表面を少しずつ覆っていく。
『――以上、防災湯澤市からのお知らせでした』
放送が終わった。
雪の中に、何も聞こえなくなった。




