第六話 長靴を超える
十二月も後半に入ると、雪の降らない日の方が少なくなった。
除雪に出る基準は十五センチだった。
十五センチ積もれば出動する。そこに迷う余地はない。
難しいのは、そこまで積もっていない夜だった。
午前零時の時点で十センチにも届いていない。雪も弱まり、このまま止みそうなら出ないこともある。だが、同じ八センチ、九センチでも、強く降り続いていて朝まで雪の予報なら話は違った。
その時点では基準に達していなくても、除雪をしている時間帯に十五センチを軽く超えてくることがある。
積雪センサーの数字だけを見ていればいい仕事ではない。
予報を見て、雪雲の動きを見て、実際の降り方を見る。
最後に決めるのは、親方の夏樹だった。
この夜も、そんな微妙な降り方だった。
午前零時を過ぎるころには、重機車庫のストーブがある部屋に、いつもの面々が集まり始めていた。
「今日もだな」
浩志が言った。
「んだなあ」
智也がストーブに手をかざしたまま答える。
外では細かな雪が途切れることなく降っていた。
夏樹が入ってきた。
「まだ十センチいってないけど、今日は出た方いいな。朝まで降るみたいだし」
「これ、止まねえべ」
黒沢が窓の外を見た。
「たぶんな」
夏樹も外を見た。
智也が腰を上げる。
「たまには早く出るべ」
それを合図に、皆が立ち上がった。
外では、それぞれの機械が暖まっていた。
*
それから数日、似たような夜が続いた。
十数センチ。
十五センチ。
十八センチ。
一晩休んで、また雪。
夜中に出て、朝まで掻く。
帰って飯を食って寝る。
また夜が来る。
週に一度、夜中に出なくていい日があればまだいい。降り方次第では、その一度すらなくなる。
道路から掻いた雪も消えるわけではなかった。
グレーダーで路肩へ寄せる。
住宅街ではローダーで広場や、道路の幅が広くなった場所へ運ぶ。
そこがいっぱいになれば、ダンプで排雪する。
グレーダーの路線も同じだった。降るたびに左右へ雪が積み上がり、少しずつ道路が狭くなっていく。三日もすれば、ロータリーを入れて広げなければならない。
広げても、また降る。
空けても、また埋まる。
雪を片付けているのではない。
次に降る雪を置く場所を、作り続けているようなものだった。
*
十二月二十四日。
午前七時前。
その日の除雪を終えた機械が、重機車庫へ戻ってきていた。
浩志も705を停め、ストーブのある部屋へ入った。
土田が椅子に腰を落とし、疲れた顔をしていた。
「毎日毎日、ちまちま降りやがって」
祐介が缶コーヒーを開ける。
「明日も雪っすよ」
「また?」
「またっす」
「一回ぐれ休ませれってな」
「天気に言ってくださいよ」
「言って聞ぐなら言うよ」
土田は窓の外を見た。
朝になっても、まだ細かな雪がちらついている。
「どうせ降るならよ」
「はい」
「たまには長靴超えるぐれぇ降ってみれってんだ!」
祐介が吹き出した。
「何言ってんすか!」
「毎日十五だ二十だって、ちまちま降るぐれなら、一発で来いってんだ」
「あー、言っちゃったー」
浩志が言った。
「何よ」
「そういうフラグ立てれば、本当に降るぞ」
「降るわけねえべ」
「知ーらね」
祐介がにやにやしながら口を挟んだ。
「じゃあ長靴超えたら、つっちーさん一人で全部やってくださいね」
「いいよ」
「言いましたね?」
「長靴超えたらな」
「ちゃんと聞きましたからね」
「はいはい」
誰も本気にはしなかった。
*
二日後。
午後から降り始めた雪は、夕方になっても弱くならなかった。
夜になると、さらに勢いを増した。
午後十一時過ぎ。
浩志は家の窓から外を見た。
街灯の光の中を、雪が途切れることなく落ちている。
予報は朝まで雪。
もう十五センチになるかどうかなど、考える必要もなかった。
確実に出る。
着替えて家を出る。
長靴が新雪へ深く沈んだ。
「……来たな」
重機車庫へ着くころには、すでに何人も集まっていた。
「結構あるな」
浩志が言った。
「あるね。三十は超えてる」
夏樹が答えた。
「まだ降るべ?」
「朝までみたいだな。今日は時間かかるよ」
窓の外では、雪が激しく降り続いている。
智也が立ち上がった。
「たまには早く出るべ」
皆が続いた。
*
浩志はGD705で路線へ向かった。
最初から雪の量が違った。
ブレードを入れる。
雪が左へ流れる。
普段なら、そのまま路肩へ抜けていく。
だが今夜は、流す先にも強烈に積もっていた。
左へ流しているはずの雪が逃げ切らない。
ブレードの前に溜まり始める。
「抱えるな、これ」
さらに進む。
雪の量が増えていく。
左へ逃げ切れなくなった雪が、とうとうブレードの右端からも溢れ始めた。
「一発じゃ無理だな」
浩志は早々に仕上げることを諦めた。
一往復目は、とにかく道路を開ける。
右から雪がこぼれても構わない。
まず道路の中心部に、車が通れるところを作る。
残った雪は二往復目で拾えばいい。
さらに進むと、ブレードより前方に抱え込んだ雪が左前輪まで達した。
前輪が雪に乗り、路面を捉えられなくなる。
GD705は前へ進んでいる。それなのに、駆動していない左前輪は押し寄せる雪に負け、ゆっくり逆へ回った。
「うわ、ひでえな」
左へ流し切れない雪は、ブレードの右端からも溢れている。
それでも掻く。
仕上がりなんて、今はどうでもよかった。
一往復目で道を開ける。
右へこぼした雪は、二往復目で拾う。
大量の雪を抱えたまま、GD705はじりじりと、どこが道かも分からない雪の中を進んでいった。
*
一往復目を終えても、雪はまだ降り続いていた。
浩志はそのまま二往復目へ入った。
今度は仕上げだった。
一周目で右へこぼした雪を拾う。
道路上に残った雪もブレードへ入れる。
それを左へ流し、路肩へ寄せていく。
当然、道路脇にはいつもの何倍もの雪が積み上がった。
日中はロータリー確定だな。
考えるまでもなかった。
そのとき、作業灯の端に何かが見えた。
浩志は一瞬だけそちらを見た。
黒い。
雪の中に、四つ足の何かがいた。
小熊ほどの大きさだった。
全身が真っ黒だった。
「……あれが?」
皆が話していたものだろうか。
作業灯は確かに当たっている。
なのに毛並みが分からない。
顔もよく見えない。
ただ、そこだけがひどく黒かった。
まるで黒い紙を切って置いたように見える。
立体感のない黒いものが動いた。
深い新雪を掻き分け、こちらへ近づいてくる。
浩志は前へ視線を戻した。
「道路さ出てくんなよ」
GD705はそのまま進んだ。
止まって確かめる気などなかった。
まだ二往復目の途中だった。
雪は降っている。
クマだろうが何だろうが、今は構っていられなかった。
*
午前七時近く。
空が白み始めたころ、浩志はようやく重機車庫へ戻った。
いつもなら、この時間にはだいたい皆が戻っている。
今日は違った。
ローダーが何台か、まだ帰ってきていない。
浩志は705を停めた。
エンジンを切り、運転席から降りる。
ステップへ長靴を掛けた瞬間、足が滑った。
「うおっ」
咄嗟に手すりを掴んだ。
落ちはしなかった。
その代わり、右の脛をステップの角へ思い切りぶつけた。
「いってぇ……!」
しばらく、その場で動けなかった。
「何してるんすか」
祐介だった。
「滑った」
「大丈夫っすか?」
「痛え」
「気ぃつけてくださいよ」
「うるせ」
浩志が脛を押さえていると、土田が戻ってきた。
「いやあ、ひでかったな」
その顔を見た瞬間、祐介がにやりとした。
「つっちーさん」
「何よ」
「長靴超えましたね」
「……」
「俺、途中で降りたら上から雪入ってきましたよ」
「知らね」
「長靴超えるぐれぇ降ってみれって言いましたよね?」
「言ってねえ」
「言った!」
「覚えてねえ」
「一人で全部やるって」
「言ってねえって!」
笑い声が上がった。
だが、まだ全員は戻っていなかった。
七時半を過ぎて数台ローダーが戻ってきた。
さらに時間が過ぎた。
八時を回って、ようやく智也が戻ってきた。
ローダーを停め、降りてくる。
「疲れだ……」
「遅かったな」
「今日の雪運ぶのキツイべぇ。何回運んだか分がらね」
「まず飯食ってこい」
「んだ。腹減って駄目だ」
ようやく夜中の除雪が終わった。
だが、その日の仕事は終わっていなかった。
*
いったん帰宅する者は帰った。
飯を食う。
少し休む。
朝の除雪が長引いた者は、その分だけ日中作業に入る時間も遅らせた。
昨夜、道路からどけた雪が町のあちこちに残っていた。
浩志と石田。
祐介と黒沢。
二組はロータリー除雪車で、グレーダー路線の拡幅へ向かった。
浩志は左側の運転席に座った。
左へ寄った席からは、道路の端がよく見える。どこまでオーガを寄せられるか確かめながら、今朝自分で積み上げた雪へロータリーを食い込ませていく。
右の助手席には石田が座っていた。
六十六歳の新人。
「石田さん、ここは左の方にお願いします」
「はい、分かりました」
石田がレバーを操作する。
シュートがゆっくりと向きを変えた。
「もう少し左です」
「このくらいですか?」
「はい。そこで大丈夫です」
「分かりました」
オーガが雪の壁へ食い込んだ。
砕かれた雪が吸い上げられ、シュートから勢いよく吐き出される。
少し進むと家が近づいてきた。
「石田さん、次は右の方に振ってください。家あるんで」
「はい」
「もう少し……はい、そこでお願いします」
「このままでいいですか?」
「大丈夫です」
雪が別の方向へ飛んでいく。
浩志は左側を見ながら、ロータリーをゆっくり進めた。
道路の端を見て、家を見て、電柱や標識を見ながら少しずつ広げていく。
家並みが途切れ、しばらくシュートを動かす必要のない場所へ入った。
石田が前を見ながら言った。
「浩志さん、よくあんな大きな機械、運転できますね」
「グレーダーですか?」
「ええ。ずいぶん長いでしょう。見ていると難しそうですよ」
浩志は笑った。
「慣れればそんなでもないですよ。基本、グレーダーってデカくて長いトラクターみたいなもんですよ」
「トラクターですか?」
「普通にハンドル切れば前のタイヤ曲がりますから。ローダーみたいに、曲がるたび車体が真ん中から折れるわけじゃないんで」
「ああ、なるほど」
「グレーダーも中折れはできますけどね。普段はほとんど使わないですよ。よっぽど狭いところ出入りするときくらいで」
「じゃあ、普段は普通にハンドルで?」
「そうです。前輪切って曲がります」
「それなら、少し分かる気がします」
「まあ、長いですけどね」
浩志が笑うと、石田も笑った。
「私はこのシュートだけでも、まだ考えながらやってますよ」
「最初はそれでいいですよ。方向は俺が言いますから」
「すみません。お願いします」
「そのうち慣れますよ」
「そうだといいんですけどね」
浩志は前方を見た。
「石田さん、次、左お願いします」
「はい」
シュートが動いた。
ロータリーは再び雪の壁へ食い込んでいった。
*
住宅街では、排雪が始まっていた。
広場や、道路の幅が広くなった場所へ一時的に溜めていた雪は、昨夜の大雪でとうとう限界を越えていた。
雪の山が道路側へせり出し、車一台がぎりぎり通れるほどまで狭くなっている場所もあった。
智也のローダーにはバケットが付いていた。
雪の山へバケットを入れる。
持ち上げる。
待っている四トンダンプの荷台へ落とす。
土田。
辰雄。
夏樹。
三台が順番に雪を積み、河川敷の雪捨て場へ走った。
一台出れば、次が入る。
積む。
出る。
空になったダンプが戻ってくる。
また積む。
*
雪捨て場では譲がローダーに乗っていた。
四トンダンプが堤防道路へ入ってくる。
所定の位置で停まり、荷台がゆっくり上がった。
大量の雪が、堤防道路との落差を使って河川敷へ滑り落ちていく。
ダンプが去ると、ローダーを前へ出した。
落とされた雪を押す。
踏む。
さらに奥へ押し込む。
次のダンプが雪を捨てられる場所を作っていく。
『次、一台行くよ』
智也の声がトランシーバーから入った。
『はいよ。まだ大丈夫だ』
譲が応じる。
『どっちさ落とす?』
『今度、少し右さ寄せて』
『了解』
しばらくすると、また四トンダンプが堤防道路へ現れた。
荷台が上がる。
雪が落ちる。
譲が押す。
また次の一台が来る。
*
昼には休憩を取った。
夜中から動いている。
まして今日は、いつも以上の大雪だった。
午後からまた作業を始めたが、全部終わらせようとはしなかった。
雪はいくらでもある。
一般車も走る。歩行者もいる。
暗くなってからロータリーで大量の雪を飛ばすような無理はしない。排雪も同じだった。
三時を過ぎるころには、どこで切り上げるかを考え始めた。
四時近く。
『これで最後にするべ』
智也の声がトランシーバーから入った。
『了解』
譲は最後に落とされた雪を奥へ押した。
踏み固め、翌日またダンプが入れる場所を作って、その日の作業を終えた。
*
四時を少し回ったころ。
浩志はロータリーを重機車庫横の稲沢地区庁舎駐車場へ入れた。
「今日はここまでですね」
石田が言った。
「そうですね。暗くなる前にやめた方いいですよ」
少し遅れて、祐介と黒沢のロータリーも戻ってきた。
そのまま車庫には入れない。
浩志と石田は車外へ出た。
オーガの刃には雪がこびりついている。
車体の上にも、吹き返した雪が乗っていた。
二人でそれを落としていく。
祐介と黒沢も、隣でもう一台の雪を落としていた。
オーガを確認する。
車体の上もきれいにする。
最後にシュートを畳んだ。
二台のロータリーが順番に車庫へ収まった。
排雪班も戻り始めた。
三台の四トンダンプ。
智也のローダー。
少し遅れて、雪捨て場にいた譲も戻ってきた。
一日かけて道路を広げた。
住宅街から雪を運び出した。
河川敷には、また雪を捨てられる場所を作った。
全部きれいになったわけではない。
次の雪を受け入れる余裕を、少し作っただけだった。
浩志は空を見上げた。
四時を過ぎたばかりなのに、冬の空はもう薄暗い。
土田が近くへ来た。
「今日こそ降らねばいいな」
浩志は横目で見た。
「おめ、もう天気のこと喋んな」
「なんでよ」
「ろくなことにならねえ」
「俺のせいでねえべ!」
向こうで祐介が笑った。
皆も笑った。
その日の夜。
稲沢地区には、また雪が降り始めた。
県道の西の端では、浩志がグレーダーで壊した石像が、深い雪の下に埋まっていた。
石の頭さえ、もう見えない。
誰も、それを掘り出そうとはしなかった。
今は黒いものよりも、荒神様よりも。
明日の朝までに、また道路を開けなければならなかった。




