第七話 年越し
十二月二十八日。
市役所はその日で御用納めだった。
年が明けて一月四日までは、湯澤市の庁舎も基本的には休みになる。それに合わせて、市の除雪隊も二十八日から三日までは日中の通常勤務がなくなる。
ただし、雪が休んでくれるわけではない。
夜中に十五センチを超えれば、正月だろうが除雪に出る。十センチにも届かないようなら出さないこともあるが、その後の予報や実際の降り方によっては、親方の夏樹が出動を判断する。
道路が狭くなればロータリーを出さなければならない。
住宅街に一時的に溜めている雪が限界になれば、排雪もしなければならない。
役所が休みでも、必要なら休日出勤でやるしかなかった。
*
二十九日の朝。
夜中の除雪を終えて重機車庫へ戻ると、ストーブの周りに自然と人が集まった。
濡れた手袋を乾かす者もいれば、缶コーヒーを飲む者もいる。
「正月に出れば、休日出勤だべ?」
祐介が聞いた。
「んだな」
智也が答えた。
「時給いいんだよな」
「じゃあ、いっぱい降ってもらえばいいべ」
黒沢が笑った。
「いや、それは嫌だ」
「金欲しいんでねえの?」
「欲しいけど、休みも欲しいもの」
「都合いいな」
そこへ土田が口を挟んだ。
「たまには長靴超えるぐれぇ降ってみれってんだ!」
「おめ、それまだ本当になったらどうすんなよ」
浩志が言った。
「なるわけねえべ」
「おめが言うと降りそうで嫌なんだよ」
「なんで俺よ!」
笑い声が上がった。
年末だった。
だが、除雪をしている者にとっては、いつもの冬と大して変わらなかった。
*
三十日の夜も出た。
十五センチを少し超える程度の雪だった。
それでも、それまでに降った雪が道路の両側に残っている。グレーダーで掻けば、また雪の壁が高くなる。
住宅街ではローダーが雪を運ぶ。
正月休みだからと放っておけば、道路はすぐに狭くなる。
朝になれば車が走る。
人も歩く。
結局、やることは普段と変わらなかった。
*
大晦日は、珍しく穏やかだった。
浩志は家でテレビを見ながら、ときどき窓の外を眺めた。
雪はほとんど降っていない。
夜になっても変わらなかった。
日付が変わった。
一月一日。
午前零時半。
まだ静かだった。
一時を過ぎても、スマートフォンには何も来ない。
午前一時半。
積雪センサーが雪に埋まればメールが来る。それも来なかった。
「今日はねえな」
浩志はスマートフォンを置いた。
大晦日から元日の朝にかけての深夜除雪は、運よく休みになった。
除雪車の運転席ではなく、自宅で年を越せた。
それだけで十分だった。
*
一月二日、午後十一時過ぎ。
夏樹はハイエースで稲沢地区を回っていた。
夕方から雪が降り続いている。
強い降りではない。
だが、止む気配もなかった。
何か所かで積もり方を確認する。
七センチ。
八センチ。
多いところでも、まだ十センチには届いていない。
このまま止むなら出さなくてもいい。
しかし予報では明け方まで雪だった。
「微妙だな」
夏樹はハイエースを走らせた。
積雪センサーの数字だけでは決められない。
風の当たり方ひとつで積もり方は変わる。同じ稲沢地区の中でも、場所によって数センチ違うことは珍しくなかった。
十五センチあれば迷う必要はない。
こういう十センチにも届かないくらいのときが難しい。
今は少なくても、除雪の時間帯に降り続けば十五センチを軽く超えることがある。
夏樹はいつものように区域内を見て回った。
ワイパーが一定の間隔でフロントガラスの雪を払う。
住宅が少なくなった。
街灯と街灯の間隔が広くなる。
その先だった。
一つの街灯の下に、何かがいた。
「ん?」
アクセルを戻した。
最初は犬かと思った。
だが、大きい。
四つ足だった。
最近何度も聞かされているものが頭に浮かんだ。
黒い熊。
「……これか?」
ハイエースをゆっくり進めた。
それは街灯の下にいた。
光はまともに当たっている。
それなのに、黒かった。
夏樹は眉を寄せた。
ツキノワグマだって黒い。
だが、目の前にいるものは、そういう黒さではなかった。
毛が見えない。
光を受けた背中に艶もない。
顔のどこに目があり、どこに鼻があるのかも分からない。
動物らしい輪郭の内側だけが、何もないように黒かった。
「なんだ、あれ……」
黒いものが動いた。
こちらを向いたように見えた。
夏樹はブレーキに足を乗せた。
それが道路へ近づいてくる。
「おいおい」
ハイエースを止めた。
黒いものが道路へ出た。
真正面からヘッドライトが当たった。
それでも変わらない。
毛も、顔も、目も見えない。
光の中に、黒い輪郭だけがある。
夏樹は黙って見ていた。
「……熊じゃねえな、これ」
黒いものは道路を横切った。
反対側の雪へ入り、そのまま暗がりの中へ消えていった。
夏樹はしばらく車を動かさなかった。
これまで何人もの目撃者から話を聞いている。
真っ黒だった。
顔が見えなかった。
ライトを当てても何も見えなかった。
夜中に突然熊を見れば、驚いてそう感じることもあるだろうと思っていた。
だが、自分で見ると違った。
「あれは熊でねえな……」
夏樹はハイエースを発進させた。
まだ見回りは終わっていなかった。
*
重機車庫へ戻り、ハイエースを停めた。
運転席から降り、ドアを閉める。
「痛っ!」
右手を引いた。
指先を挟んだ。
「いってぇ……」
手袋を外して確かめる。
爪の脇が少し赤くなっている程度だった。
「何やってんだ、俺」
夏樹は指を振った。
雪はまだ降っている。
予報も変わっていない。
夏樹は出動を決めた。
*
判断は正しかった。
見回りをしていたころには八センチほどだった雪が、その後も降り続き、明け方には十五センチを超えた。
午前七時前。
重機車庫には、路線を終えた者から順に戻ってきていた。
「今日、結構積もったな」
浩志が言った。
「十五超えたね」
夏樹が答える。
「見回ったとき、そんななかったべ?」
「八ぐらい」
「出して正解だったな」
「んだな」
少し間を置いて、夏樹が言った。
「あとさ。俺も見たよ」
「何を?」
「あれ」
浩志が夏樹を見た。
「黒いやつ?」
「うん」
「どこで?」
夏樹が場所を話した。
祐介もこちらを向いた。
「熊だった?」
「いや。分かんないけど、あれ熊には見えないな」
「そんな変だった?」
「街灯の真下にいたんだよ。そこから道路に出てきて、ハイエースのライトもまともに当たった」
「見えたべ?」
浩志が聞いた。
「それが見えないんだよ」
「だべ?」
「真っ黒なんだよな」
「俺が見たのもそうだった」
「毛も顔も何も見えない」
「んだ」
辰雄がぼそりと言った。
「オラおっかねぇ」
祐介が笑った。
「辰雄さんが言うと余計怖えな」
「だっておっかねぇべ」
辰雄は真顔だった。
それで笑いが起きた。
黒いものの話も、そこで終わった。
皆、眠かった。
腹も減っていた。
それに、今日はまだ少し仕事が残っていた。
*
浩志と祐介のグレーダーは、二台ともエッジを交換することになっていた。
十二月後半から雪の日が続き、エッジはかなり減っている。
譲が二台を見ながら言った。
「今のうちやっとかないと、次出るとききついべ」
「んだな」
浩志も分かっていた。
次にいつ雪が降るか分からない。
降ってから慌てるより、今日やってしまった方がいい。
夏樹が言った。
「二時間ぐらい休日出勤つけるから、飯食ってからやってしまおう」
智也が祐介を見た。
「祐介、おめのはしねくていいんでねえが」
「なんでよ」
「まだいけるべ」
「いけねえよ。減ってるって」
「かべちゃんのだけ替えればいいべ」
「俺のも替えるって!」
「一時間浮くぞ」
「浮かせんなよ!」
祐介が笑いながら言い返した。
時刻は七時を回っていた。
誰も弁当など持ってきていない。
家へ戻って朝飯を食い、また車庫まで出てくるのも面倒だった。
智也が立ち上がった。
「おせち食いに行くべ」
「行くが」
譲も立った。
全員がそれに続いた。
*
軽トラとハイエースに分乗して、湯澤市のすき家へ向かった。
正月二日の朝だった。
店に入り、それぞれ好きなものを注文する。
朝定食を頼む者もいれば、牛丼を頼む者もいる。
土田だけは違った。
「キングで」
祐介が横を向いた。
「朝から?」
「腹減ったもの」
やがて土田の前に、巨大な牛丼が置かれた。
黒沢がそれを見た。
「土田、それ全部食うの?」
「食うよ」
「朝だぞ」
「だから何よ」
智也が自分の朝定食と見比べた。
「豪華なおせちだな」
「んだべ」
浩志が笑った。
「どこがおせちよ」
「正月に食ってんだから、おせちだべ」
「雑だな」
土田は構わず食べ始めた。
「それ食ったあと動けんの?」
祐介が聞く。
「動けるよ」
「寝るんでねえが?」
「寝ねえって」
「絶対眠くなるべ」
「もう眠いもの」
「駄目でねえが」
笑いが起きた。
夜中から雪を掻いていた男たちが、正月二日の朝から牛丼や朝定食を食っている。
誰かが欠伸をした。
それを見て、また別の誰かが欠伸をする。
「寝てえなあ」
「交換終われば帰れるべ」
「今日はもう降んなよ」
浩志が土田を見た。
「つっちー、余計なこと言うなよ」
「今の俺でねえべ!」
また笑いが起きた。
土田は最後までキング牛丼を平らげた。
*
重機車庫へ戻り、浩志と祐介のグレーダーのエッジ交換に取りかかった。
普段なら日中勤務の時間だった。
だが今日は一月二日。
本来なら休みである。
必要な作業だけ済ませて帰る。
浩志と祐介は二台のグレーダーを外に出した。
まずは温水の高圧洗浄機を引っ張り出す。
排土板には、夜中の除雪でこびりついた雪と氷が厚く残っていた。浩志がノズルを向けると、白い湯気が一気に立ち上った。温水に削られた氷が塊になって剥がれ、車体の下へ落ちていく。
エッジの周りまできれいに出してしまわなければ、ボルトにもまともに触れない。
「もうちょいそこ落として」
「ここ?」
「んだ。その辺」
氷がなくなり、ボルトを外すために、コンプレッサーにつないだインパクトを持ってくる。
引き金を引くと、けたたましい音が車庫に響いた。
一冬の除雪で締まったボルトを一本ずつ緩めていく。
全部外すと、使い込んだエッジを排土板から取り外した。
「減ってますねぇ」
石田が外したエッジを見て言った。
新しいエッジを排土板に合わせる。
穴の位置を合わせてボルトを通し、再びインパクトが鳴り始めた。
二台分となれば、それなりに時間がかかる。
すき家で腹いっぱい食った土田も手を貸していたが、さっきから欠伸ばかりしている。
「つっちー、寝るなよ」
「寝てねえって」
「キング食うからだべ」
「だから関係ねえって!」
笑い声のあとに、またインパクトの音が響いた。
夜中に何時間も除雪したあとなので、さすがに皆の動きも鈍かった。
「眠てえ」
「手ぇ挟むなよ」
「分がってる」
「正月から怪我すんなよ」
「それ親方に言え」
「俺?」
夏樹が振り返った。
「さっき指挟んだべ」
「ああ。あれな」
「何してんのよ」
「普通に閉めたら挟んだんだよ」
少し離れたところで土田が大きな欠伸をした。
浩志が見つけた。
「ほら見れ。やっぱり眠くなってるべ」
「キング関係ねえよ。夜中仕事したからだべ!」
「食い過ぎだ」
「関係ねえって!」
二台分を交換し終えるころには、午前中の二時間ほどが過ぎていた。
「終わったな」
「帰って寝るべ」
「今日はもう何もしたくねえ」
夜中に除雪して、すき家で「おせち」を食い、グレーダーのエッジを交換して帰る。
正月休みだった。
少なくとも、書類の上では。
*
一月四日。
市役所は仕事始めを迎えた。
稲沢地区の庁舎にも職員が戻った。
電話が鳴り始め、窓口にも人が来る。
除雪隊も通常の日中勤務へ戻った。
年末年始の間も必要なら出ていた彼らにとって、休みが終わったという実感はあまりなかった。
それから数日後。
道路除雪について、一件の苦情が入った。
生活道路が狭い。
圧雪がひどい。
車一台が通るのがやっとで、路面がでこぼこになっている。
話は夏樹のところまで回ってきた。
場所を聞けば、担当は楢山建設だった。
「ああ……あそこか」
夏樹には心当たりがあった。
その路線を担当するオペレーターは、毎年あまり上手くない。
「ちょっと見てくる」
ハイエースの鍵を取った。
*
現場へ行くと、苦情が来た理由はすぐに分かった。
「これは駄目だな……」
もともと車一台が通る程度の狭い生活道路だった。
そこへ両側から雪が迫っている。
それ以上に問題なのは路面だった。
底からきちんと削れていない。
その上を車が通る。
締まる。
また雪が降る。
その上だけを掻く。
それを繰り返した圧雪が厚くなり、道路そのものが波打っていた。
ハイエースが上下に揺れる。
「これは何とかしてもらわないとな」
電話でも済む話だった。
だが、年が明けたばかりでもある。
年始の挨拶も兼ねて、楢山建設まで直接行くことにした。
*
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
楢山建設の事務所へ入ると、夏樹は頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
何人かと挨拶を交わしてから、本題に入った。
「ちょっとお願いがありまして」
「何かありました?」
「そちらでお願いしてる路線なんですけど、住民の方から除雪の苦情が入ったんですよ」
「ああ……」
「私も見てきました。だいぶ圧雪が厚くなってますね」
「やっぱりひどかった?」
「ちょっと。このままだと、もっと波打ってくると思うんで、一回ちゃんと底から取ってもらえませんか」
「分かりました。話しておきます」
「お願いします。狭いところなんで大変なのは分かるんですけど」
「いや、こっちもちゃんとやらせないと」
仕事の話はそれで終わった。
そのまま年始の世間話になった。
「今年も雪多いですね」
「多いなあ」
「年末から結構出てもらって、すみません」
「いやいや。仕事だから」
「まだ一月入ったばっかりですからね。これからどうなるか」
「ほどほどにしてもらいてえな」
「本当ですね」
夏樹が笑った。
楢山建設がいつ出たかは、夏樹の方が知っている。
出動を依頼しているのは自分なのだから、改めて聞くようなことではなかった。
しばらく除雪の話をしているうちに、夏樹はふと思い出した。
「そういえば、うちのオペが県道脇の神様の石、壊しちゃって。あの手の物ってどんな補修すればいいんですかね」
土木工事会社のなら知ってるかと思い、なんの気なしに聞いてみただけだった。
事務所の奥にいた男が顔を上げた。
高橋五郎だった。
「神様?」
「はい。県道の西の方にある石なんですけど」
「どの辺?」
夏樹が場所を説明した。
五郎の顔から笑いが消えた。
「道路脇にあった石像だべ?」
「そうです」
「壊したの?」
「はい。十一月に一度積もったじゃないですか。あの時グレーダーで引っかけちゃって」
「どんな風に壊した?」
「前に直したみたいな跡があって、そこから割れてました」
五郎の表情が変わった。
「モルタルのところ?」
「そうなんですかね」
五郎は黙った。
「何かあるんですか?」
「……それ、俺らが直したところだ」
「え?」
「二十年前にな」
五郎は椅子へ深く座り直した。
「あそこ、工事したんだよ」
*
二十年前。
工事中のバックホーが荒神様に接触し、石像にヒビを入れた。
そのあとから、現場では妙なことが続いたという。
作業員が法面を滑り落ちた。
トラックが脱輪し、引き上げるのに時間を取られた。
工具を落として足へぶつけた者もいた。
ほかにも、事故と呼ぶほどではない細かなことがいくつも続いた。
「まあ、工事してればあるべ。そんなの」
五郎は言った。
「ありますね」
「だから最初は誰も気にしてなかった」
そこで五郎は少し黙った。
「最後に、敷鉄板で足潰したやつ出てな」
夏樹の表情が変わった。
「それは……ヤバいですね」
「やばかった。そこで年寄り連中が、神様壊したからでねえがって言い出した」
「それで?」
「ヒビをモルタルで埋めた。神主も呼んで拝んでもらった」
「そこまでやったんですか」
「やったよ」
五郎は頷いた。
「それから、そういうことは続かなかった」
五郎が夏樹を見た。
「それでよ」
「はい」
「壊してから、何かねえが?」
「何かって?」
「変なこととか。事故までいかなくてもいい。誰か怪我したとか、妙な壊れ方したとか。しょうもねえこと続いたりしてねえ?」
「うーん……」
夏樹は考えた。
冬になれば何かしらある。
滑って転ぶこともある。
機械が故障することもある。
物をぶつけることもある。
「ああ」
右手を見た。
「俺、この前、車のドアに指挟みましたけど」
「いつ?」
「二日の夜です」
「大したことねえ?」
「全然。ちょっと痛かったぐらいですよ」
「そうか」
「そんなのなら、いくらでもあるでしょう」
「んだな」
五郎は笑った。
だが、何かを考えているようだった。
夏樹も考えてみた。
「変なことっていうなら……黒いやつですかね」
五郎の目が夏樹へ戻った。
「黒いやつ?」
「最近騒いでるでしょう。黒い熊」
「ああ……」
「俺も二日の夜に見たんですよ」
五郎の表情がわずかに変わった。
「どこで?」
夏樹が場所を話した。
「除雪出す前に見回ってたんですけど、街灯の下にいたんですよ」
「……どう見えた?」
「どうって?」
「熊に見えた?」
夏樹は少し考えてから首を振った。
「いや。見えなかったですね」
「だべ」
返事が早かった。
「そっちでも見てるんですか?」
「何回も見てる」
「何回も?」
「俺だけでねえよ。うちのオペも見てる」
五郎は腕を組んだ。
「あんなもん、とても熊には見えねえよ」
「ですよね」
「作業灯まともに当たってんのに真っ黒なんだ。街灯の下で見たやつもいる。それでも毛も見えねえ。顔も見えねえ。ただ黒いんだと」
「俺が見たのもそうでした。ハイエースのライト、まともに当てたんですけど」
「何も見えねえべ?」
「はい」
しばらく沈黙があった。
夏樹が聞いた。
「そっちは、さっき言ってたようなこと、あるんですか?」
「……あるんだよ」
「あるんですか」
「大したことじゃねえ」
五郎は指を折りながら話した。
「転んだやついるべ。工具落として足ぶつけたやついるべ。機械のしょうもねえトラブルも何回かあった」
少し間を置いた。
「この前なんか、ローダーから降りようとしたやつがステップに足掛けたところで、突風でドア閉まってよ。背中まともにぶつけた」
「怪我したんですか?」
「打撲。しばらく痛えって言ってたけど、その程度だ」
「それならまあ……」
「あるべ?」
「ありますね。冬ですから」
「んだ。あるんだよ」
五郎は頷いた。
「だから、俺もこんなこと考えたくねえんだけどよ」
少し黙ってから続けた。
「二十年前もな、最初はそんなだったんだ」
「しょうもないことから?」
「んだ」
法面を滑った。
トラックが脱輪した。
工具を足へ落とした。
一つ一つなら、工事現場では起こり得る。
「それが続いて、最後に敷鉄板だった」
五郎は机へ視線を落とした。
「ただなあ……」
「はい」
「二十年前は、あんな黒いもんなんか見なかったんだよ」
「いなかったんですか?」
「少なくとも俺は見てねえ。そんな話も聞かなかった」
五郎は腕を組み直した。
「今回だけだ。あんなの出てんの」
「じゃあ、関係ないんじゃないですか」
「んだよなあ」
五郎はそう言ったものの、納得した顔ではなかった。
「……でも、なんか関係あるんだべが」
「どうなんでしょうね」
「分がんねえな」
「分かんないですね」
二人とも、それ以上は言わなかった。
*
楢山建設を出たあと、夏樹はハイエースを走らせた。
二十年前、荒神様にヒビが入った。
細かな事故が続いた。
最後には敷鉄板で一人が大怪我をした。
モルタルでヒビを埋め、神主を呼んだ。
今年、その補修した場所から荒神様がまた割れた。
小さな不運が起きている。
そして、二十年前にはいなかった黒いものが現れている。
どこまでが偶然なのか。
夏樹には分からなかった。
それでも、今のところ黒いものによる実害はない。
襲われた人間はいない。
直接怪我をさせられた人間もいない。
対して雪は現実だった。
道路は狭くなる。
圧雪が厚くなれば苦情が来る。
ロータリーを出さなければならない。
雪を運ばなければならない。
荒神様は今ごろ、深い雪の下だった。
場所を知っていても、掘り返すだけで一仕事になる。
そんなことをしている余裕はなかった。
「雪消えてからだな」
夏樹は呟いた。
それで、この話はひとまず後回しになった。
*
数日後。
黒いものの話が、稲沢地区の外へ出た。
秋田魁新報のウェブサイトに、湯澤市稲沢地区で冬季にもかかわらず夜間の熊らしきものの目撃が相次いでいるという記事が掲載された。
十二月から目撃情報が続いていること。
市議会でも取り上げられたこと。
市が夜間の不要不急の外出を控えるよう呼びかけていること。
記事は淡々と事実を並べていた。
重機車庫で、祐介がスマートフォンを見ていた。
「これ、新聞載ってるぞ」
「何が?」
土田が聞いた。
「黒い熊」
「ほんとに?」
祐介が画面を見せた。
浩志も横から覗いた。
「とうとう新聞に載ったが」
「有名になったな」
「何がよ」
夏樹も記事を見た。
当然、黒いものの写真など載っていない。
夜間に熊らしきものの目撃が相次いでいる。
市が注意を呼びかけている。
文字だけを読めば、雪国で起きた少し珍しい熊のニュースにしか見えなかった。
「大した騒ぎになったな」
浩志が言った。
祐介が画面を閉じた。
彼らにとっては、それだけだった。
翌日の天気予報には、また雪マークが並んでいる。
その方がよほど気になった。
だが、記事はそこに残った。
稲沢地区の外からでも読める。
検索すれば出てくる。
黒いものを一度も見たことのない人間にも。
雪国の夜を知らない人間にも。
そして――
それを恐ろしいとは思わず、
面白そうだと思う人間にも。




