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稲沢除雪隊〜黒い獣〜  作者: 只野屍
第三章 黒い獣
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14/33

第一話 襲撃

 一月も半ばに差しかかるころには、稲沢地区で黒いクマを見たという話も、最初ほど珍しいものではなくなっていた。


 毎晩のように現れるわけではない。


 夜中に道路を横切った。田んぼの向こうにいた。車のライトに照らされたと思ったら、いつの間にかいなくなった。


 そんな話が数日に一度、どこかから出てくる。


 市では日中の防災無線を使い、夜間に熊の目撃情報が寄せられていること、不要不急の外出を控えることを繰り返し呼びかけていた。


 十二月には猟友会が冬眠していないツキノワグマを一頭仕留めている。


 それでも目撃情報はなくならなかった。


 まだ別の熊がいるのだろう。


 大半の人間は、その程度に考えていた。


 何より、これまでは人が直接襲われたことがなかった。


     *


 西田新聞店の息子、吉輝が乗るヴィッツは、稲沢地区の除雪オペレーターたちにはよく知られていた。


 車ではなく、運転で分かる。


 夜中、前からローダーが雪を押してくる。


 普通なら手前で止まるか、広い場所まで下がって待つ。


 吉輝は来る。


 どこまでも来る。


 排土板いっぱいに雪を抱えたローダーの前まで平気で進んできて、ようやく止まる。そうなれば止まらなければならないのはローダーの方だった。


 交差点でも同じだった。


 ローダーが雪を一か所に集め、あとでまとめて運ぼうとしている最中でも構わず入ってくる。せっかく寄せた雪の山へヴィッツで突っ込み、腹を擦りながら乗り越え、左右へ撒き散らしてそのまま行ってしまう。


「あいつ、前見でねえんでねえが」


 そんなことまで言われていた。


 実際、見ていないことはあった。


 その夜もそうだった。


 新聞を積んだヴィッツが、雪の積もった道路を走っていた。


 まだ除雪車の入っていない路面には薄く雪が積もり、ヘッドライトの中を細かな雪が流れていく。


 吉輝は助手席へ目をやった。


 ほんの数秒だった。


 前へ視線を戻す。


「えっ」


 道路の真ん中に何かいた。


 黒い。


 子グマほどの大きさだった。


 吉輝は反射的にブレーキを踏んだ。


 間に合わなかった。


 ヴィッツの正面が、黒いものを捉えた。


 鈍い衝撃が車体を伝わった。


 その瞬間、黒いものの輪郭が崩れた。


 肉が潰れたのでも、身体が跳ね飛ばされたのでもない。


 黒い霧のようなものとなって弾け、車体の左右へ流れた。


 雪の降る闇の中へ、瞬く間に溶けていく。


 だが吉輝には、そんなものを見る余裕などなかった。


 破裂音とともに運転席のエアバッグが膨らんだ。


「うわっ!」


 突然目の前を塞がれ、吉輝は必死にハンドルを押さえた。


 ヴィッツが雪の上を滑る。


 ABSが激しく作動した。


 やがて車は道路の端へ寄ったところで止まった。


 吉輝はしばらく動かなかった。


 心臓だけが激しく鳴っている。


「……何よ」


 萎んだエアバッグを押し退けた。


 何かを轢いた。


 それだけは分かる。


 犬ではなかったと思う。


 もっと大きかった。


「熊……?」


 吉輝は車を降りた。


 フロントへ回って顔をしかめる。


 バンパーが壊れていた。ボンネットも歪んでいる。


 それから恐る恐る後ろを見た。


 道路には何もなかった。


「……あれ?」


 少し歩いた。


 いない。


 犬も、熊も倒れていない。


 血も見えなかった。


「何だったんだや……」


 吉輝は暗い道路を見回した。


 轢いたものがどこへ行ったのか、最後まで分からなかった。


     *


 数日後。


 深夜の稲沢地区を、古い白いアルトが走っていた。


 辰雄はローダーで交差点の雪を処理していた。


 一文字の排土板で雪を押し、一か所へ集める。


 そこへ白いアルトが入ってきた。


「おい、来んなって」


 辰雄はローダーを止めた。


 アルトは止まらない。


 そのまま、辰雄が集めた雪へ突っ込んだ。


「あー!」


 腹で雪を擦りながら強引に進み、せっかくまとめた雪を左右へ崩していく。


 抜けた。


 そのまま行ってしまった。


「……なんだや、あれ」


 辰雄は無線を取った。


「今、白いアルト来たんだけどよ」


『古いやつ?』


 智也の声が入った。


「んだ。なんで?」


『それ吉輝だ』


「吉輝?」


『新聞屋の息子』


「ヴィッツでねえべ」


『ヴィッツ、なんか轢いでぶっ壊したんだど。それ代わりに乗ってるやつ』


「何轢いだの?」


『そこまでは知らね』


 辰雄は、もう見えなくなったアルトの方を見た。


「車変わってもやること同じだな」


『何した?』


「オラ集めた雪さ突っ込んできて、全部撒き散らしてった」


『あいつなあ……』


「また集め直しだよ」


『ご苦労さん』


「笑ってるべ」


『笑ってねえって』


「笑ってる声だべ」


 辰雄は無線を戻した。


 排土板を下ろし、散らされた雪をもう一度集め始めた。


     *


 楢山建設の季節作業員、麻生武雄は六十歳だった。


 ローダーには長年乗っていた。


 本人に言わせれば、楢山建設の中でも上手い方だった。


 少なくとも本人は、そう思っていた。


 だから年明け早々、社長から担当路線について苦情が来ていると聞かされたことを、ずっと根に持っていた。


「底からちゃんと取ってくれって、市から言われた」


 社長からそう言われたときも、麻生は面白くなかった。


「取ってるよ」


「夏樹さん、現場まで見に行ったみでえだ」


「この機械だば、あれ以上無理だもの」


 麻生が乗っているのは、楢山建設が自社で購入したコマツWA40だった。


 四トンクラスのバケット式ローダーである。


 圧雪を剥がすだけなら、バケットの刃を使える分、一文字の排土板よりやりやすい。


 だが麻生は、そこまでやろうとはしなかった。


 道路が狭い。


 雪が多い。


 車が邪魔をする。


 機械が小さい。


 理由はいくらでもあった。


 自分のやり方が悪いという理由だけはなかった。


 その夜も、麻生は例の生活道路を除雪していた。


 車一台がようやく通れるほどの狭い道だった。


 年末からの雪で、両側には高い雪壁ができている。


 麻生は新たに降った雪だけを、自動水平にしたバケットですくっていく。


 その下には、これまでの除雪で残った圧雪がある。


 バケットを使えば剥がせる。


 それでも麻生は手をつけなかった。


 その結果、路面は高くなり、圧雪はところどころ波打っている。


 市から苦情が来た原因だった。


「こんなもんだべ」


 麻生は一人で呟いた。


 ひと通り路線を進んだところで、時計を見た。


 それから担当路線を外れた。


 少し先に知り合いの家があった。


 道路除雪で入口に寄せられた雪が残っている。


「取ってやるが」


 頼まれたわけではない。


 昔からそうしていた。


 知っている家なら間口を取ってやる。


 麻生にとっては、ついでの親切だった。


 その間もWA40のタコメーターは回っている。


 その時間も楢山建設の作業時間として記録され、麻生の給料になる。


 やってはいけないことだった。


 だが麻生は気にしていなかった。


 バケットで入口の雪をすくった。


 前へ出る。


 下ろす。


 また戻る。


 何度か繰り返した。


 もう少し取ってやろうと前へ出たところで、作業灯の先に何かが入った。


「ん?」


 麻生は顔を上げた。


 道路の向こうに、何かいる。


 黒い。


「熊が?」


 最近騒がれているやつだと思った。


 だが、聞いていたものより大きかった。


 子グマなどではない。


 普通の成獣のツキノワグマほどある。


 麻生はWA40を止めた。


 前照灯と作業灯の光が、黒いものを照らしている。


 それなのに、よく見えなかった。


「なんだや……」


 雪は見える。


 後ろの雪壁も見える。


 雪の上へ伸びた枝まで見える。


 なのに、それだけが真っ黒だった。


 黒い毛をしているのとは違う。


 毛の一本一本も見えない。


 目もない。


 鼻もない。


 熊の形をした何かが、そこだけ黒く抜け落ちているようだった。


 麻生は目を細めた。


「おい」


 黒いものが動いた。


 麻生は身構えた。


 逃げると思った。


 WA40は小型とはいえ重機である。エンジンを唸らせて近づけば、熊の方が逃げる。


 そう思っていた。


 黒いものは逃げなかった。


 こちらへ近づいてきた。


「おいおい」


 麻生は前へ出るのをやめた。


 黒いものが横へ動く。


 前照灯と作業灯が作る白い光の中から、すっと外れた。


「どご行った」


 麻生は首を動かした。


 前にはいない。


 右にもいない。


 次の瞬間だった。


 運転席側の闇から、黒いものが現れた。


「うわっ!」


 すぐ横だった。


 黒いものが立ち上がる。


 何かが振り上げられた。


 凄まじい音がした。


 ドアガラスが砕けた。


「うわあっ!」


 細かなガラス片が運転席へ飛び込んだ。


 麻生は反射的に身体を右へ寄せた。


「この野郎!」


 黒いものがすぐそこにいる。


 逃げなければならない。


 麻生は後進に入れた。


 アクセルを踏み込む。


 WA40が勢いよく後ろへ走り出した。


 その拍子に、身体が作業レバーに触れた。


 麻生は気づかなかった。


 油圧が動いた。


 バケットを支える腕が上がり始める。


「来んな! 来んなって!」


 麻生は割れたドアの向こうを見た。


 黒いものが追ってきているのか。


 それすら分からない。


 とにかく離れたかった。


 さらにアクセルを踏む。


 バケットは上がり続けた。


 いつもの道だった。


 どこに側溝があるか、麻生は知っている。


 雪に埋まって見えなくても、路肩に立てられた竹を見れば位置は分かる。


 だが、今は竹など見ていなかった。


 後輪が路肩へ寄った。


 さらに寄る。


 片側が突然沈んだ。


「うわっ!」


 タイヤが側溝へ落ちた。


 車体が大きく傾く。


 普段なら持ちこたえたかもしれない。


 だが、そのときバケットは高く持ち上がっていた。


 重心が一気に外へ逃げた。


「待で、待で!」


 WA40が横倒しになった。


 麻生の身体が運転席の中へ投げ出された。


 シートベルトはしていなかった。


 肩を打った。


 脇腹を打った。


 頭もどこかへぶつけた。


 車体が雪の上へ、ドスンと倒れ込んだ。


「いでぇ……」


 麻生は横向きになった運転席の中で呻いた。


 エンジンはまだ回っていた。


 不自然な姿勢になった車体の中で、低い唸りが続いている。


 やがて回転が乱れた。


 一度大きく震え、そのままエンジンが止まった。


 急に静かになった。


 それでもライトは消えない。


 キーは入ったままだった。


 前照灯と作業灯だけが、横倒しになった車体から雪の中を照らし続けている。


 麻生は荒い息をしながら、割れたドアガラスの向こうを見た。


 黒いものはいなかった。


「……どご行った」


 さっきまで、すぐそこにいた。


 ガラスを叩き割った。


 間違いなくいた。


 だが、もう影も形もなかった。


「くそっ……」


 麻生は身体を動かした。


 痛い。


 だが動けないほどではない。


 どうにか運転席から這い出し、雪の上へ立った。


 そこで改めて横倒しになったWA40を見た。


 顔色が変わった。


 自分一人でどうにかできるものではない。


 携帯電話を取り出した。


 社長へかける。


『はい』


「社長! ローダーひっくり返った!」


『何?』


「転がった! 早ぐ来てけれ!」


『武雄さん、大丈夫なの?』


「俺は大丈夫だ!」


『どこよ?』


 麻生は場所を言った。


 電話の向こうが一瞬黙った。


『そこ、武雄さんの路線でねえべ』


「いいがら早ぐ来てけれって!」


『いや、なんでそこに――』


「熊にやられだんだ!」


『熊?』


「真っ黒い熊だ! あれに襲われだ! ガラスも割られだ!」


『……分がった。今行くから』


 電話が切れた。


     *


 社長は近くの路線を除雪していた別のオペレーターへ電話をかけた。


「武雄さん、ローダー横転させたみでえだ。助けに行ってけれ」


『どごです?』


 社長が場所を伝えた。


『そこ、武雄さんの担当でねえですよね』


「んだ。俺もワイヤーどが持ってぐがら、先行って見でけれ」


『分がりました』


 先に現場へ着いたのはローダーだった。


 雪の向こうから回転灯が近づいてくる。


 麻生は道路へ出て、両手を振った。


 ローダーが停まり、オペレーターが降りてきた。


「武雄さん、大丈夫だが?」


「俺は大丈夫だ!」


 そう答えた直後には、もう別のことを喚いていた。


「熊だ! 熊にやられだんだ!」


「熊?」


「あれだよ! 最近出るって言ってるやつ!」


 麻生は横倒しになったWA40を指さした。


「真っ黒いやつ! あれが横さ回ってきて、ガラスぶっ壊したんだ!」


 オペレーターは割れたドアを覗き込んだ。


「これ?」


「んだ! 俺が転がしたんでねえぞ! 熊がやったんだ!」


「いや、でも――」


「襲われだんだって!」


 そこへ社長の車が到着した。


 ワイヤーや道具を積んできている。


 車から降りた社長は、横倒しになった自社のWA40を見て顔をしかめた。


「派手にやったな……」


「だから俺でねえって!」


「武雄さん、まず怪我は?」


「ぶつけたけど大丈夫だ。それより熊だ!」


「熊、本当にいたの?」


「いたって言ってるべ!」


 麻生は割れたガラスを指さした。


「これ見れ! あいつが割ったんだぞ! 俺は悪くねえ! 熊がやったんだ! 襲われだんだ!」


「分がった。分がったから」


「分がってねえべ!」


 社長は割れたドアを見た。


 確かにガラスは割れていた。


 だが、今は熊の正体を確かめるより、横倒しになった機械をどうにかする方が先だった。


 それに、もう一つ気になることがある。


「武雄さん」


「何よ」


「なんでここにいたの?」


 麻生が黙った。


「ここ、頼んでる路線でねえべ」


「……ちょっと取ってやってただけだ」


「何を?」


「間口だよ」


「誰の?」


「知り合いの家」


 社長は麻生を見た。


 それから横倒しになったWA40を見た。


「昔からやってることだべ」


 麻生が言った。


「まず機械起こすべ」


「だから熊だぞ」


「その話はあとで聞く」


「俺のせいでねえからな!」


「分がったから」


「分がってねえって!」


 社長はもう返事をしなかった。


 持ってきたワイヤーを降ろした。


     *


 事故の話は当然、市にも報告された。


 楢山建設が所有する機械の事故とはいえ、市から委託された除雪作業中の出来事である。


 そして報告する以上、事故を起こした場所も隠せない。


 なぜ指定された路線ではない場所にいたのか。


 その理由も説明しなければならなかった。


 委託された作業時間中に指定路線を離れ、個人宅の間口を勝手に除雪していた。


 市から楢山建設へ厳しく注意が入った。


 会社で確認すると、麻生がそうしたことを以前から繰り返していたことも分かった。


 その間もタコメーターは回っている。


 会社の機械を使い、会社から給料を受け取りながら、頼まれてもいない個人宅の除雪をしていたことになる。


 さらにシートベルトもしていなかった。


 自社で購入したWA40は横転した。


 もともと担当路線の除雪については、市から苦情まで来ている。


 社長の判断は早かった。


「武雄さん。悪いけど、もう来なくていい」


「は?」


「ローダーにはもう乗せられねえ」


「なんでよ!」


「なんでって……」


「俺、熊に襲われだんだぞ!」


「それは聞いた」


「だったら俺悪くねえべ!」


「熊の話と、武雄さんが勝手によその家の雪取ってた話は別だべ」


「ちょっと間口取ってやっただけだ!」


「それが駄目なんだって」


「昔からやってた!」


「昔からやってたからいいって話でねえ」


「俺だけでねえべ!」


「他の人の話してねえ。今、武雄さんの話してるんだ」


「俺は熊にやられでただんだ!」


「それも聞いたって」


「だったら――」


「市からも言われたんだよ」


 麻生が口を閉じた。


「委託した除雪作業中に、指定された路線から外れて何してるんだって。こっちが怒られてんだよ」


「それと熊は関係ねえべ!」


「関係ねえよ。だから別の話してるんだべ」


「俺は襲われだんだぞ!」


「分がってる」


「分がってねえ!」


 最後まで話は噛み合わなかった。


 麻生が外されたあと、その生活道路には別の小型ローダーが入った。


 楢山建設の別のオペレーターが担当することになった。


     *


 麻生が楢山建設の除雪をクビになった話は、除雪関係者の間にはすぐに広まった。


 狭い世界だった。


 誰がどこの路線に乗っているか。


 誰が機械をぶつけたか。


 誰が何をやらかしたか。


 そういう話は早い。


 だが、一般の人間にまで広まるような話ではなかった。


 麻生自身は、知り合いに会うと違う話をした。


「社長と意見合わねくてよ。俺の方から辞めてやった」


「へえ」


「俺もあんなやり方には付き合ってられねえもの」


「んだが」


「除雪のこと分がってねえんだ。俺、何年ローダー乗ってると思ってんだって話よ」


「んだな」


「向こうは困るべけど、もう知らね」


 相手は適当に相槌を打った。


 麻生の性格を知っている者なら、まともに受け取る者はほとんどいなかった。


 ただ、もう一つの話は残った。


 麻生が何度も喚いていた話だった。


 真っ黒な熊に襲われた。


 ローダーのドアガラスを叩き割られた。


 それから逃げる途中で横転した。


 その話もまた、狭い除雪関係者の間を少しずつ回り始めていた。


 稲沢地区の反対側。


 楢山建設とは別の指定管理業者に、高山という五十代の季節作業員がいた。


 煙草をよく吸った。


 仕事の途中でも、すぐに一服したがる男だった。


 少し前、仲間内で黒い熊の話になったとき、高山は笑って言っていた。


「熊なんて見だごとねぇから、見でみたいもんだ」


 その言葉どおりになるまで、そう時間はかからなかった。

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