第二話 臭い
高山は煙草に火をつけた。
何本目かは覚えていない。
古いコマツWA100の運転席には、長年染みついた煙草の臭いがこもっていた。灰皿には吸い殻が詰まり、それでも収まりきらないのか、足元にも何本か転がっている。
高山は五十代の季節作業員だった。
楢山建設とは別の指定管理業者で、市から貸与された八トンクラスのWA100に乗っている。前には除雪用の一文字の排土板が取り付けられていた。
仕事をしないわけではない。
ただ、とにかく一服が多かった。
少し押しては煙草。
一区切りつけば、また煙草。
休む場所まで、だいたい決まっていた。
道路脇へ何度も雪を押し上げているうちに、なだらかなスロープのようになった場所がある。その陰へWA100を入れれば、道路から車体が見えにくくなる。
その夜も、高山は一通り雪を押したところでWA100をそこへ入れた。
前輪を雪の斜面へ乗せる。
車体が少し前上がりになった。
前照灯と前方の作業灯はいつもより高いところを向き、道路脇の林を照らした。反対に後方の作業灯は、車体が傾いたぶん、すぐ後ろの雪面を照らしている。
高山は回転灯だけを消した。
エンジンはかけたままだった。
暖房の効いた運転席で煙草をくわえる。
「ふう……」
煙を吐いた。
最近、会社でも熊の話は出ていた。
真冬だというのに、稲沢地区では夜になると熊らしきものが目撃される。
十二月には猟友会が一頭仕留めた。
それでも目撃はなくならなかった。
少し前には、楢山建設のオペレーターが黒い熊に襲われ、ローダーを横転させたという話まで回ってきた。
その話を聞いたとき、高山は笑っていた。
「熊なんて見だごとねぇから、見でみたいもんだ」
少なくとも高山の勤める会社では、実際に見たという者はいなかった。
だから、どこか他人事だった。
一本吸い終えた。
煙草を灰皿へ押しつける。
しばらくぼんやりしてから、また箱へ手を伸ばした。
もう一本抜き取り、火をつける。
何気なく後ろを見た。
「……ん?」
後方作業灯が照らす雪の中に、何かいた。
高山は煙草をくわえたまま振り返った。
熊。
最初はそう思った。
成獣ほどの大きさがある。
だが、おかしい。
作業灯の光は間違いなく当たっている。
雪は白い。
スロープも、その向こうの雪壁も見える。
なのに、それだけが黒かった。
黒い毛をしているのとは違う。
目も、鼻も、毛も見えない。
熊に似た輪郭の内側だけが、何もないように真っ黒だった。
「……なんだ、あれ」
高山は身体を起こした。
黒いものが動いた。
こちらへ近づいてくる。
「おい」
煙草を口から離した。
「おいおい……」
逃げない。
エンジンの音を恐れる様子もない。
そのままWA100の後ろまで近づいてきた。
次の瞬間だった。
ガンッ!
「うおっ!」
高山が身をすくめた。
車体後部から、鉄を思い切り殴りつけたような音が響いた。
「なんだ!」
ガンッ!
また来た。
今度は何かが砕ける音が混じった。
後ろを照らしていた光が一つ消えた。
「なんだや!」
ガンッ、ガンッ、ガンッ!
止まらない。
立て続けに車体が叩かれる。
狭い運転席へ鈍い音が響き続けた。
「やめれ!」
ガンッ!
「やめれって!」
また殴られる。
高山は後ろを見た。
黒いものは逃げるどころか、WA100の後部へ何度も腕を振り下ろしている。
高山の顔から血の気が引いた。
「くそっ!」
煙草を放り出した。
前進に入れ、アクセルを踏み込む。
WA100が動いた。
ガンッ!
背後でもう一度、大きな音がした。
「来んな!」
高山は前しか見ていなかった。
逃げることしか頭になかった。
WA100が雪の斜面を進む。
自分で何度も雪を押し上げてできた場所だ。その先に段差があることも、もちろん知っていた。
普段なら間違えるはずもない。
だが今は、それが頭から抜け落ちていた。
前輪が縁を越えた。
「あっ」
前輪が落ちた。
高さそのものは大したことがなかった。
それでも八トンクラスの車体の前が、がくんと沈んだ。
「うわっ!」
高山の身体が座席から前へ飛んだ。
シートベルトはしていなかった。
顔からフロントガラスへ突っ込む。
鼻と額に激しい衝撃が走った。
身体もハンドルや前方へ強かにぶつけた。
高山の意識は、そこで途切れた。
*
「高山さん、まだ戻ってこねえの?」
仕事を終えたオペレーターの一人が言った。
「電話した?」
「した。出ねえ」
「またどっかで煙草吸ってんでねえが」
「それにしたって長すぎるべ」
もう一度、高山の携帯へ電話をかけた。
やはり出ない。
市から貸与されている機械に無線はついていなかった。
「見でくるが」
「どごよ?」
「高山さんなば、あそこだべ」
「ああ、いつものとご」
誰も場所を聞き返さなかった。
高山がよく一服している場所は、仲間にも知られていた。
一人が車を出した。
雪道を走り、いつもの場所へ向かう。
近づいたところで、妙な方向を照らしているライトが見えた。
「……なんだ?」
さらに近づく。
回転灯は消えている。
エンジンはまだかかっていた。
WA100が、雪を押し上げてできた斜面の先へ前から突っ込んでいる。
「おい!」
車を停め、走った。
「高山さん!」
運転席を覗き込む。
高山が前へ倒れていた。
額から流れた血が顔についている。
「高山さん! おい!」
反応がない。
同僚は携帯電話を取り出し、救急車を呼んだ。
それから運転席へ上がり、高山の様子を確かめた。
そのときだった。
「……なんだ、この臭い」
鼻をつく臭いに気がついた。
煙草ではない。
外からだった。
運転席を降り、車体の後ろへ回ったところで臭いが強くなった。
「くせえ……」
獣臭かった。
それだけではない。
何かが腐ったような臭いまで混じっている。
後方作業灯が一つ割れていた。
車体の後ろにも、いくつかへこみがある。
だが、それどころではなかった。
高山は意識を失っている。
同僚はすぐに高山のもとへ戻った。
*
救急車が到着した。
高山は担架へ乗せられ、そのまま湯澤市の総合病院へ搬送された。
同僚は救急車を見送ると、社長へ電話をかけた。
「社長、高山さん、救急車で運ばれました」
『意識は?』
「意識なかったです」
『どごさ運ばれだ?』
「湯澤市総合病院です」
『分がった。おめも行ってけれ』
「はい」
『俺もあとから行く』
同僚は自分の車で病院へ向かった。
現場には別の従業員たちが来た。
WA100は横転したわけではない。前輪が段差の下へ落ちているだけだった。
「これなら引っ張れば出るな」
別のローダーを持ってきた。
一人がワイヤーを抱えてWA100の後ろへ回る。
数歩近づいたところで、顔をしかめた。
「うわ、くせっ」
「何よ?」
「なんだこれ」
もう一人も近づいた。
「……くせえな」
獣のような臭いだった。
そこへ何か腐ったような臭いまで混じっている。
「なんか死んでんでねえが?」
「どごによ」
ライトで雪の周囲を照らしてみたが、それらしいものはない。
臭いは、WA100の後ろへ近づくほど強かった。
割れた作業灯の周辺。
へこんだ車体。
その辺りが特に臭う。
「なんだや、これ……」
男は鼻をしかめながらワイヤーを掛けた。
別のローダーで引くと、WA100はほどなく段差から出た。
走行に問題がないことを確認し、そのまま駐車場所へ戻した。
*
湯澤市の総合病院では、先に着いた同僚が高山の処置が終わるのを待っていた。
しばらくして社長もやってきた。
「どうだ?」
「意識は戻ったみたいです」
「んだが」
二人で待った。
やがて処置を終えた高山と話ができるようになった。
鼻は折れていた。
額にも裂傷があり、何針か縫われている。白いガーゼが貼られ、その周囲にはまだ血の跡が残っていた。
顔も腫れ始めていた。
「高山、大丈夫だが?」
社長が声をかけた。
「……まあ」
高山は鼻が詰まったような声で答えた。
「何あったか覚えてる?」
高山は少し黙った。
「いたんだ」
「何が?」
「熊みでえなの」
社長が眉を寄せた。
「熊?」
「分がらねえ。熊だが何だが」
「どんなのよ」
「真っ黒だった」
「黒い熊?」
「違う」
高山はゆっくり首を振った。
「ライト当だってんのに、真っ黒なんだ。何も見えねえの」
社長は黙って聞いていた。
「それが後ろさいでよ。いきなり機械叩いできた」
「WA100を?」
「んだ。ガンガン、何回も」
「何回も?」
「止めねえんだ。ずっと叩いでくるんだもの」
高山は顔をしかめた。
「途中で後ろの明かりも一個消えだ」
そばで聞いていた同僚が顔を上げた。
「……社長」
「何よ」
「俺、高山さん見つけたとき、後ろの作業灯割れてんの見ました」
高山が同僚を見た。
「ほんとか?」
「うん」
同僚は思い出すように続けた。
「後ろも何か所かへこんでた」
「へこんでた?」
「んだ。あのとき高山さん意識ねえし、血出してたから、それどころでねくて」
そこで少し間を置いた。
「あと、臭かった」
社長が同僚を見た。
「臭い?」
「獣臭いっていうか……なんか腐ったみでえな臭いもしてました」
「高山から?」
「いや、違います」
同僚は首を振った。
「機械の後ろ。高山さん見つけて後ろ回ったとき、なんだこれって思ったんですけど」
高山は黙っていた。
「どの辺よ」
「作業灯割れてた辺りです。ボディへこんでた辺りも臭かったと思います」
「……」
社長はしばらく何も言わなかった。
高山は、後ろの明かりが一つ消えたと言った。
実際に作業灯は割れていた。
何度も車体を殴られたと言った。
その後ろには、いくつものへこみがあった。
「それで怖くなって逃げたの?」
社長が訊いた。
「んだ。前さ出したら、そのまま落ぢだ」
「それでガラスさ突っ込んだのが」
「たぶんな。そこから覚えてねえ」
社長は腕を組んだ。
「……警察さ連絡する」
高山が社長を見た。
「熊だが何だが分がらねえけど、人襲ってるなら黙ってられねえ」
*
翌朝、駐車場所へ戻されたWA100を改めて確認すると、損傷ははっきりしていた。
後方作業灯が一つ割れている。
車体後部には、何かで繰り返し殴られたようなへこみがいくつも残っていた。
後ろに取り付けられていた「除雪車作業中注意」のプレートまで、ひどくひしゃげている。
そして、まだ臭かった。
獣臭さに、腐ったような臭いが混じっている。
特に、殴られたと思われる辺りで強かった。
社長から連絡を受けた警察にも、高山の証言と車体の状態が伝えられた。
事故そのものは道路上で起きた交通事故ではない。救急車が来た時点では、警察が現場へ来るような事故でもなかった。
だが、熊らしき動物に襲われて作業員が負傷したとなれば話は別だった。
警察から猟友会へも連絡が入った。
*
慎吾と勇が現場を見に来たころには、WA100はすでに引き上げられていた。
残っているのは、高山が雪を押し上げて作った斜面と、排土板と前輪が落ちた跡だった。
事故のあとにも人や車が入り、その後も雪が降っている。
「ここから落ちたんですね」
勇が言った。
「んだな」
慎吾は段差を見た。
「大した高さでねえな」
「はい。でも、シートベルトをしていなかったそうです」
「なら前さ飛ぶな」
二人は斜面の周囲を見て回った。
勇が雪面へ目を凝らした。
「それらしい足跡はないですね」
「雪降ってるからな」
「はい」
慎吾は林の方を見た。
「機械の後ろ、何回も叩かれたんだって?」
「そう聞いてます」
「変な熊だな」
「普通なら、エンジンのかかった重機には近づきたがらないですよね」
「んだよな」
慎吾はしばらく林を見ていた。
何もいない。
雪が枝から落ちた。
それだけだった。
二人はほかの場所も見て回った。
林の縁。
田んぼ。
川沿い。
だが、それらしい熊は見つからなかった。
そして警察から聞いた話の中には、少し前に起きた麻生の事故もあった。
黒い熊のようなもの。
ローダーへの接近。
車体への攻撃。
逃げようとして事故。
二人の証言はよく似ていた。
だが、現場は大きく離れている。
麻生が襲われた場所と、高山が襲われた場所。
稲沢地区のほぼ端と端だった。
「ずいぶん離れてますね」
勇が言った。
「んだな」
「同じ個体なんでしょうか」
「分がらんな」
慎吾は少し考えた。
「二頭いるって考えた方が普通かもしれねえ」
「そうですよね」
勇は頷いた。
「前に仕留めた熊とは、もちろん別ですよね」
「あれは熊だ」
慎吾はすぐに答えた。
「俺らで見で、撃って、回収したんだから間違いねえ」
「はい」
「問題は今出てるやつだな」
目撃されるのは、ほとんどが夜だった。
日中に探しても見つからない。
夜の林を銃を持って探し回るわけにもいかない。仮に夜間、突然遭遇したとしても、その場で好き勝手に発砲できるわけでもなかった。
「昼に出てくれれば探しようもあるんですけどね」
「夜ばっかりだからな」
「はい」
「面倒な熊だ」
慎吾はそう言った。
*
高山が襲われたという話は、すぐに稲沢地区へ広がった。
楢山建設の麻生だけではない。
別の会社のオペレーターまで襲われた。
しかも今度は八トンクラスのWA100だった。
後ろの作業灯を割られた。
車体を何度も殴られた。
そんな話が、人から人へ伝わった。
市の防災無線も、それまでより強く夜間の外出を控えるよう呼びかけるようになった。
警察も日中、稲沢地区をパトカーで巡回した。
そして、夜が変わった。
それまでは午前一時でも二時でも、車は走っていた。
仕事へ向かう者もいる。
帰宅する者もいる。
新聞配達も走る。
雪の夜でも、人の気配が完全になくなることはなかった。
だが、除雪作業員が立て続けに襲われたという噂が広まってからは違った。
深夜に出歩く人間がいなくなった。
車もほとんど走らない。
午前一時。
二時。
三時。
雪の降る道路を動いているのは、除雪車くらいのものだった。
住宅の窓は暗い。
歩いている者など、どこにもいない。
誰もいない道路を、黄色い回転灯だけが進んでいく。
それでも、黒いものの目撃情報はなくならなかった。
*
数日後。
秋田魁新報に、稲沢地区の記事が再び掲載された。
見出しには、
「湯澤市稲沢地区で熊被害か 除雪作業員相次ぎ負傷」
とあった。
夜間の除雪作業中、熊とみられる動物に遭遇した作業員が相次いで負傷していること。
いずれも除雪車を運転していたこと。
作業員が黒い熊のような動物を目撃したと話していること。
市と警察が住民に注意を呼びかけ、猟友会も周辺を捜索していること。
二つの現場が離れていることから、複数の個体がいる可能性もあること。
前年十二月には、同じ稲沢地区で冬眠していなかったツキノワグマ一頭が駆除されていることにも触れられていた。
記事はウェブサイトにも掲載された。
*
その日の夜。
稲沢地区から遠く離れた場所で、一人の男がスマートフォンを見ていた。
画面には、秋田魁新報の記事が表示されている。
男は最後まで読んだ。
そのまま検索画面を開き、記事に書かれている地名と熊という文字を入力した。
少し前の記事が出てきた。
冬季にもかかわらず相次いだ熊の目撃情報。
猟友会による捜索。
冬眠していなかった一頭を駆除。
男はその記事を読み終えると、もう一度、今日の記事へ戻った。
一頭はすでに仕留められている。
それでも目撃は続いている。
今度は除雪車が襲われた。
しかも、一件ではない。
男はしばらく画面を見ていた。
「……これ、面白そうだな」
すぐそばには、小型のビデオカメラが置かれていた。




