第三話 怪異観測室
一月の晴れた日。
秋田新幹線こまちが大曲駅に滑り込んだ。
ホームへ降りた三浦拓海は、数歩も歩かないうちに首をすくめた。
「寒っ」
隣を歩く藤原直人が笑う。
「まだ駅だぞ」
「分かってるけど、寒いものは寒いだろ」
「今夜は外で撮影だからな」
「それ今言う?」
吐いた息が白い。
線路脇にも、ホームの屋根にも、駅の周囲にも、東京ではまず見ることのない量の雪が積もっている。
二人は東京を拠点に活動するYouTuberだった。
チャンネル名は『怪異観測室』。
三十八歳の三浦拓海が演者と企画を担当し、三十六歳の藤原直人が撮影と編集を担当している。
心霊スポット、怪談の残る土地、正体の分からない現象。ネットで噂になっているものから、新聞記事で見つけた不可解な出来事まで、興味を持てば実際に現地へ赴き、自分たちの目で確かめる。
登録者数は、つい最近十五万人を超えた。
二人とも本業は会社員で、撮影は週末が中心だった。今回も土日を利用して秋田まで来ている。
拓海は最近、もう少しチャンネルが伸びれば会社を辞め、専業でやっていけるのではないかと本気で考え始めていた。
一方の直人は、そう簡単には考えられなかった。結婚して家庭を持つ身としては、毎月決まった給料が入る会社員という立場を捨てることには、どうしても慎重になる。
改札を抜けたところで、直人がカメラを取り出した。
「カメラ回すよ」
「オーケー」
拓海がレンズへ向く。
「どうも、怪異観測室の拓海です。今回は緊急で動画を撮ってます。ここは雪国東北にある秋田県です」
「撮影はいつもの直人です」
カメラの後ろから直人の声が入る。
「今回調査するのは、秋田県湯澤市で相次いでいる熊の出没についてです」
拓海は、ここ数日で見つけた新聞やネットの記事について説明した。
冬にもかかわらず熊の出没が続いていること。
一頭はすでに猟友会によって駆除されていること。
ところが、その後も騒ぎは収まらず、最近では夜間に除雪作業をしていた作業員が襲われる事故まで起きていること。
「新聞やネットの記事では、熊として扱われています。もちろん、別の熊がいると考えれば、それで説明はできます」
拓海はそこで少し間を置いた。
「ただ、我々はこれを熊だとは断定できないと思います」
先ほどまでの軽い表情が消える。
「真冬の秋田で続く出没。そして夜間の除雪作業員への襲撃。怪異観測室としては――明らかに怪異が関わっている可能性があると考えています」
「明らかなのか、可能性なのか、どっちなんだよ」
「そこを確かめるために来たんです」
「うまい言い方だなぁ」
「ということで、これから現地へ向かいます」
直人がカメラを下ろした。
二人は駅の外へ出た。
拓海が足を止める。
「……いや、待って」
「何?」
「雪、すごくない?」
直人がまたカメラを向ける。
駅前そのものは除雪されている。
だが、道路脇には大量の雪が積み上げられ、駐車場の端には大きな雪の山ができていた。
「俺、こんなの初めて見たんだけど」
「俺も」
「今回の怪異、もうこれでいいんじゃない?」
「東京の人間からすれば十分怪異だな」
目的地には、まだ着いてすらいなかった。
*
大曲駅近くで借りたレンタカーは、トヨタのヤリスだった。
スタッドレスタイヤを履いた、ごく普通のコンパクトカーである。
運転は拓海が担当した。
本格的な雪国で車を運転するのは初めてだった。
「ちょっと怖いな」
「ゆっくり行けば大丈夫だろ」
「助手席だから簡単に言えるんだよ」
直人は助手席からカメラを向ける。
「事故ったら動画にはなるぞ」
「絶対公開しねえからな」
大曲インターから高速道路へ入った。
最初こそ拓海はハンドルを握る手に力を入れていたが、しばらく走るうちに肩から力が抜けていった。
「……思ってたのと違うな」
「走りやすい?」
「めちゃくちゃ走りやすい」
道路の外には大量の雪がある。
それなのに車道は十分な幅が確保され、路面も安定している。
ニュースで見る雪国の道路といえば、深い轍や圧雪で車がまともに進めない光景を想像していた。
目の前にある道路は、そんなイメージとはまるで違った。
「もっとずっと雪の上を走るのかと思ってた」
「俺も」
「これなら思ったより普通に走れるな」
「初めての雪道なんだから安全運転で頼むよ」
「任せておきなさい」
「その自信が怖いんだけど」
秋田へ入ってから、空はずっと晴れていた。
青空の下に、真っ白な景色が広がっている。
拓海が運転する横で、直人は何度もカメラを窓の外へ向けた。
「綺麗だな」
「心霊チャンネルとは思えない映像だな」
「今日は秋田観光チャンネルです」
「企画変わってるぞ」
湯澤インターで高速道路を降り、湯澤市に入った。
一般道にも雪は残っているが、拓海が身構えていたような深い轍はない。
それよりも目につくのは、道路の外に積み上がった雪だった。
「大曲より増えてない?」
「増えてるな」
「まだ増える?」
「目的地はもう少し先だろ」
「マジかよ」
湯澤市街を抜け、国道三九八号線を稲沢地区へ向かう。
道路の左右には、高い雪壁が続き始めた。
拓海が速度を落とす。
「これ、車の屋根より高いところあるぞ」
「普通にあるな」
「大曲で雪すごいって言ったの撤回するわ」
「まだ稲沢地区入ってないぞ」
「まだ増えるの?」
雪壁に挟まれた国道を進む。
道路そのものは綺麗に除雪されていた。
やがてトンネルへ入り、そこを抜けると稲沢地区だった。
さらに進み、稲沢地区を南北に流れる皆瀬川に架かる橋を渡る。
最初に目についたのはローソンだった。
「普通にローソンあるじゃん」
「何だと思ってたんだよ」
「もっと何もないところかと」
少し進めば、町の中心部にはセブンイレブンもある。スーパーにドラッグストア、DIYショップもあった。
雪の量こそ拓海たちの常識から外れているが、人が普通に暮らしている町だった。
「ローソン寄ろう」
「コーヒー?」
「それもある。熊のこと、少し聞けたら聞いてみよう」
*
二人はコーヒーと使い捨てカイロを買った。
会計を済ませたところで、拓海は店員へ声をかけた。
「すみません。この辺って最近、熊が出てるんですよね?」
「ああ、出てるみたいですね」
「結構出てるんですか?」
「最近は多いみたいですよ。防災無線でも何回か流れてますから」
「冬なのに珍しいですよね」
「そうですね。普通なら冬眠してる時期なんでしょうけど」
「一頭、駆除されたっていう記事も見たんですけど」
「それは聞きました。でも、そのあとも出てるみたいですよ」
「除雪してる人が襲われたっていう話もあるんですか?」
「そういう話は聞きましたね。怪我した人がいるとか」
「熊に?」
「そこまでは分からないですね。私も人から聞いただけなので」
「そうですか。ありがとうございます」
「いえ」
それ以上は聞かなかった。
店を出た途端、拓海は肩をすくめた。
「寒っ」
「今日何回目だよ」
「あったかい所に居ると忘れるんだよ」
ヤリスへ戻る。
拓海はコーヒーをカップホルダーへ置き、エンジンをかけた。
「どう思った?」
直人が訊いた。
「地元でも噂にはなってるってことくらいかな」
「まあ、店員さんが詳しいわけないしな」
「だな」
二人のもとに特別な目撃証言が寄せられたわけではない。
今回の企画も、拓海がたまたまネットで記事を見つけ、チャンネルの内容に合いそうだと考えたことから始まった。
「とりあえず飯にしよう」
「賛成」
*
昼食は、稲沢地区にある稲河うどんの製造元直営店へ向かった。
株式会社佐藤養蔵商店。
大きな建物には、佐藤養蔵と書かれた看板が掲げられていた。
「ここ?」
「ここ」
「思ってたよりでかいな」
二人が勝手に想像していた、小さなうどん屋とはまるで違った。
店内は広く、明るく、綺麗だった。
客席も多い。観光シーズンともなれば、大型バスで団体客が訪れるような店だった。
「完全に観光地の食堂だな」
「実際そうなんだろうな」
席につき、メニューを開く。
「せっかく本場まで来たんだから、一番いいやつ食おう」
拓海が選んだのは、天ぷらの付いた三段せいろのセットだった。
「外こんな寒いのに、冷たいうどん?」
「調べたんだけど、水で洗って締めた冷たいやつが一番コシを味わえるらしい」
「そこはちゃんと調べてきたんだな」
「本場まで来るんだから調べるだろ」
料理が運ばれてくる。
三段のせいろには、艶のある細いうどんが綺麗に盛りつけられていた。
天ぷらとつゆがその横に並ぶ。
拓海が箸を伸ばしかけたところで、直人が言った。
「食う前に撮るぞ」
「あ、そうだった」
「食レポ向いてないだろ、お前」
直人がカメラを構える。
拓海は麺を取り、つゆにつけてすすった。
「……うまっ」
「語彙」
「待てって。今ちゃんと言うから」
もう一口食べる。
「細いのにちゃんとコシある。つるっと入るけど、噛むとちゃんと弾力がある」
「冷たい方で正解?」
「正解」
直人も食べる。
「どう?」
「……うまい」
「お前も同じじゃねえか」
三段あったせいろは、思った以上にあっさりなくなった。
拓海は空になったせいろを見た。
「これなら、せいろ何枚かおかわりしたくなるな」
「まだ食うの?」
「麺だけならいける」
「天ぷらも食っただろ」
「せっかく本場まで来たんだぞ」
「その言葉、便利だな」
二人で笑った。
*
午後は稲沢地区を車で回った。
記事には、除雪作業員が襲われた正確な場所までは書かれていない。
二人は夜の撮影に使えそうな場所を探していった。
民家のすぐ近くは避ける。
車を寄せる余裕がある。
完全な山中でもない。
何か所か見て回ったところで、拓海がヤリスの速度を落とした。
「ここ、よくない?」
街灯はあるが、数は少ない。
道路の左右には高い雪壁が続いている。
拓海はヤリスを寄せた。
二人で降りてみる。
真冬の青空の下、雪面が眩しい。
直人が周囲を見回した。
「夜なら結構雰囲気出そうだな」
「街灯もあるし、真っ暗にはならない」
「車も置けそうだな」
「ここ候補でいいんじゃない?」
「決まり」
位置を記録し、周囲の映像を少しだけ撮った。
二人は知らなかった。
高い雪壁の向こう。
大量の雪に埋もれ、道路からは見えなくなった場所に、割れた石があることを。
*
夕方には湯澤市街へ戻り、ホテルへチェックインした。
冬の夕暮れは早い。
早めの夕食を済ませるころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。
部屋へ戻ると、拓海は夜の撮影用に着替え始めた。
黒を基調にしたカーゴパンツ。
タクティカルベスト。
ライトや予備バッテリーを収めるポーチ。
心霊スポットを巡る動画で以前から使っている、『怪異観測室』の撮影衣装だった。
直人は昼間からの服装のまま、厚手の防寒ジャケットを重ねた。
カメラのバッテリーを交換し、予備のメモリーカードを確認する。
「お前も着る?」
拓海が予備のタクティカルベストを持ち上げた。
「いらない」
「せっかく持ってきたのに」
「俺、ほとんど映らないから」
「たまには出ればいいじゃん」
「嫌だよ」
拓海は最後に厚手のベンチコートを羽織った。
前を閉めると、せっかく着替えた格好はほとんど見えなくなった。
直人がそれを見る。
「何のために着替えたんだよ」
「現地で脱ぐんだよ」
「絶対寒いって言うぞ」
「撮影中は我慢する」
機材を持ってホテルを出た。
自動ドアが開き、冷たい空気が流れ込んでくる。
「寒っ」
「まだ何も始まってないぞ」
*
午後五時を少し過ぎたころ、拓海の運転するヤリスは再び稲沢地区へ向かっていた。
昼間まで晴れていた空から、細かな雪がちらつき始めている。
吹雪ではない。
風もほとんどない。
雲の切れ間からは、ときおり月明かりも差した。
トンネルを抜ける。
コンビニには明かりがある。
スーパーにもまだ車が停まっている。
国道を走る車もある。
二人はいくつかの場所で撮影した。
時間が過ぎていく。
店の明かりが減り、人通りも少なくなった。
車もほとんど見なくなった。
雪だけが、静かに降り続いている。
午後九時を回ったころ、拓海は昼間に目をつけた県道へヤリスを向けた。
「あそこ行ってみるか」
「そうだな」
やがて目的の場所が見えてきた。
昼間とはまるで印象が違っていた。
県道には薄い圧雪が残っている。
轍はできていない。
白い道路が街灯の光を受け、その先へ延びている。
左右には高い雪壁。
街灯と街灯の間には暗い区間がある。
拓海はヤリスを寄せた。
二人は車を降りる。
「……やっぱ寒いな」
「だから言っただろ」
拓海は後部ドアを開け、ベンチコートを脱いで車内へ置いた。
「本当に脱ぐの?」
「このために着替えたんだぞ」
「体張ってんなぁ」
「演者は大変なんですよ」
「風邪ひいても俺は知らないからな」
直人がカメラを準備する。
拓海は街灯の位置を確認し、立ち位置を決めた。
「カメラ回すよ」
「オーケー」
拓海がレンズへ向いた。
「現在、午後九時二十七分です」
白い息がカメラの前を流れた。
「雪が少し降っています。さっきから何か所か回ってるんですけど、今のところ熊らしきものは確認できていません」
拓海は周囲へ目を向けた。
「ここでもう少し撮影を続けてみたいと思います」
しばらく撮影を続けた。
十分。
二十分。
何も起こらない。
時折、車が通り過ぎるだけだった。
拓海はとうとうベンチコートを取りに戻った。
「ほら」
「うるさい」
「何分もった?」
「覚えてない」
コートを羽織り、再び道路脇へ戻る。
細かな雪が降っている。
街灯の下へ入った雪だけが白く浮かび、そのまま暗がりへ消えていく。
「そろそろ移動する?」
直人が訊いた。
「もうちょっとだけ」
「そのもうちょっとが長いんだよ」
拓海は笑いながら道路の先を見た。
その笑顔が消えた。
「……直人」
「何?」
「あれ」
「どれ?」
「向こう。雪壁のところ」
直人がカメラを向ける。
街灯の先。
高い雪壁の近くに、何かがいた。
拓海は目を細めた。
黒い。
ただ、それだけだった。
周囲には光がある。
雪壁の凹凸も見える。
薄い圧雪にはタイヤの跡も残っている。
ちらつく雪の粒さえ、街灯の光を受けて白く見えた。
それなのに。
そこだけが黒かった。
「……撮れてる?」
「撮ってる」
直人の声が低くなった。
「ズームして」
「してる」
熊。
そう言われれば、獣のような形に見えなくもない。
だが、毛並みが見えない。
目もない。
鼻も口も見えない。
光をまったく反射していなかった。
どちらが前なのかさえ分からない。
ただただ、黒い。
周囲の景色から、その形だけを真っ黒に塗り潰したようだった。
「直人」
「うん」
「あれ……熊に見える?」
「分からない」
黒いものが動いた。
雪壁のそばから県道へ出てくる。
確かに生き物のように動いている。
だが、陰影がない。
白い道路の上を、真っ黒な形だけが移動している。
「……何だよ、これ」
直人が呟いた。
「どうした?」
「映ってる。ちゃんと映ってるんだけど……変だぞ」
拓海もカメラの液晶を覗いた。
肉眼で見ても異様だった。
画面の中では、さらにおかしい。
立体感がない。
黒く塗り潰された何かの形だけが、実際の風景の中を動いている。
下手なCGのようだった。
「何だ、これ……」
黒いものが止まった。
どちらが前なのか分からない。
目など見えない。
それでも拓海には分かった。
こちらを見ている。
理由などない。
視線など見えるはずもない。
それなのに、明らかに自分たちを見ていた。
「……こっち見てない?」
「俺もそう思う」
直人も同じものを感じていた。
黒いものが再び動いた。
今度は、こちらへ向かってくる。
「距離、どれくらい?」
「分かんない。まだ結構ある」
拓海はその場に残った。
怪異を探しに来た。
そのために東京から秋田まで来た。
今、目の前に説明のつかないものがいる。
しかも、カメラに映っている。
ここで撮影をやめるという判断は、すぐにはできなかった。
黒いものが近づいてくる。
「拓海」
「うん」
「そろそろ戻った方がいい」
直人の声から、完全に冗談が消えていた。
「もうちょっと――」
黒いものの動きが変わった。
速い。
「……おい」
直人の声が裏返った。
黒いものが、一気に距離を詰め始めた。
「拓海!」
「戻るぞ!」
二人はヤリスへ走った。
拓海はベンチコートの裾を跳ね上げながら運転席へ向かう。
直人はカメラを抱えたまま助手席へ回った。
ドアを開ける。
飛び込む。
「早く!」
「分かってる!」
拓海がドアを閉め、エンジンを始動する。
直人も助手席へ飛び込み、ドアを閉めた。
「どこ!?」
「見えない!」
拓海がシフトをドライブへ入れた。
その瞬間だった。
運転席のすぐ横で、凄まじい音がした。
ガンッ!
「うわっ!」
拓海は反射的に身体を助手席側へ寄せた。
右のサイドミラーが激しく跳ねた。
「ミラー!」
「いいから出せ!」
拓海はアクセルを踏み込んだ。
ヤリスが走り出す。
スタッドレスタイヤが薄い圧雪を噛んだ。
「来てる!?」
「待って!」
直人が後ろを見る。
「いる! まだいる!」
「マジかよ!」
「そのまま行け!」
拓海は速度を上げた。
街灯が次々と後方へ流れていく。
バックミラーへ一瞬だけ目をやる。
白い道路の上を、黒いものが動いている。
追ってきていた。
「まだいる!?」
「……離れてる!」
直人が後方を見続ける。
「そのまま! そのまま行け!」
やがて黒いものが見えなくなった。
それでも拓海は速度を緩めなかった。
稲沢地区を抜ける。
トンネルへ入った。
照明が一定の間隔でフロントガラスを流れていく。
二人とも何も言わなかった。
トンネルを抜け、湯澤市街側へ戻る。
拓海はそのまま走り続けた。
しばらくして、道路沿いにコンビニの明かりが見えた。
「……一回停める」
「うん」
拓海は駐車場へヤリスを入れ、空いている場所に停めた。
エンジンは切らなかった。
暖房の風だけが車内で鳴っている。
二人とも、しばらく喋らなかった。
拓海はハンドルを握ったままだった。
手が震えている。
身体も震えていた。
寒さなのか。
恐怖なのか。
自分でも分からなかった。
「……寒い」
ようやく口から出た。
直人が大きく息を吐いた。
「今?」
「今、急に来た」
「俺も」
拓海は運転席側を見る。
右のサイドミラーは壊れ、まともな位置を向いていなかった。
「……これ、どうすんだよ」
「何が?」
「レンタカー」
「今それ?」
「借り物だぞ」
「俺に言うなよ」
直人が抱えたままだったカメラへ目を落とした。
その手が止まる。
「……拓海」
「何?」
「撮れてる」
拓海が顔を向けた。
「何が」
「さっきの」
「マジで?」
「確認する」
二人で液晶を覗き込んだ。
街灯。
雪壁。
ちらつく雪。
白い県道。
そして、その中に真っ黒な形があった。
「……何だよ、これ」
肉眼でも異様だった。
映像では、さらにおかしい。
陰影がない。
毛並みもない。
光沢もない。
立体感さえなかった。
ただ真っ黒に塗り潰された何かの形が、現実の風景の中を動いている。
直人が再生を止めた。
「これ、出したら絶対言われるぞ」
「何を?」
「CG」
拓海は何も言えなかった。
自分で見ても、そう見える。
むしろ出来の悪い合成映像だった。
黒い形を上から貼りつけて、そのまま動かしたような。
拓海は運転席側へ目をやった。
壊れた右のサイドミラーが、わずかに揺れていた。
「……でも、CGじゃない」
「分かってる」
二人とも黙った。
拓海はもう一度、カメラの液晶を見る。
静止した画面の中。
白い雪の上に、黒いものがいる。
どちらが前なのか。
どこに目があるのか。
何ひとつ分からない。
それでも、あの瞬間。
確かに自分たちを見ていた。
「……あれ、熊か?」
直人は答えなかった。




