巡る季節
結衣が退院したのは、その翌日だった。
頭痛と吐き気は少し残っていたが、検査では異常は見つからなかった。数日は学校を休ませることになったものの、家に戻るころには食事も取れるようになっていた。
美紀の胸と肩の痛みもしばらく続いた。シートベルトの跡が青黒く残り、腕を上げるたびに顔をしかめたが、日が経つにつれてそれも薄くなった。
その夜、結衣は自分の布団ではなく、浩志と美紀の間で寝た。
浩志も何も言わなかった。
*
三月も半ばを過ぎると、雪は目に見えて減っていった。
春排雪が終わり、雪捨て場には大きな雪山だけが残った。表面は日に日に黒ずみ、ところどころに穴が開いていった。
道路脇の雪の壁もなくなった。
田んぼから雪が消えるころには、浩志も冬の仕事から離れていた。
ハウスに苗が入り、やがてトマトの葉が背丈を増していった。収穫が始まれば、朝からハウスを回る毎日になった。
結衣はいつも通り学校へ通い、美紀も肩の痛みを口にしなくなった。
暑かった夏が過ぎた。
山が色づき、朝の空気が冷たくなった。
やがて、その山に白いものが見えるようになった。
*
その間も、稲沢地区で撮影された黒いものの映像はインターネットに残り続けた。
YouTubeの「怪異観測室」はその後も活動を続け、今ではその分野で飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
稲沢地区で撮影した映像は、何百万回も再生されていた。
志村たち三人もTikTokへの投稿を続けていた。
あの夜の配信も、何百万回と再生されていた。
しばらく新しい話題に埋もれていた二つの映像が、再び広まり始めたのは、その次の冬だった。
*
十二月、秋田県北部の町で、大きな黒い動物が目撃された。
夜の県道だった。
警察は熊の可能性があるとして注意を呼びかけた。
数日後、別の町でも目撃された。
さらに離れた村でも、黒い熊のような動物を見たという話が出た。
地元のニュースで、目撃した男性が話していた。
「ライト当てても真っ黒で、顔がよく見えなかったんですよ」
そのうち、一件の映像がSNSに投稿された。
夜の道路。
ヘッドライトの先に、黒いものが立っている。
画質は荒かった。
それでも、その映像を見た誰かが、以前の動画を掘り返した。
怪異観測室のYouTube動画。
志村たちのTikTok。
何百万回も再生されていた二つの映像が、新しい目撃映像と並べられた。
同じものじゃないか。
去年、湯澤で出たやつだろ。
コメントが増えた。
比較する動画まで作られた。
怪異観測室の映像も、志村たちの配信も、また再生数を伸ばしていった。
*
冬が終わっても、目撃は途切れなかった。
春にもあった。
夏にもあった。
秋田県内の町村で、黒い熊のような動物を見たという話が続いた。
けれど、湯澤市から同じような目撃情報が出ることはなかった。
稲沢地区でも、黒いやつを見た者はいなかった。
*
そして、また冬が来た。
稲沢地区の車庫には、いつもの顔が集まった。
雪が積もれば、夜中に電話が鳴った。
重機のエンジンがかかり、シャッターが開き、黄色い回転灯が暗い道路へ出ていった。
何台かの重機の助手席には、今年も岩塩を入れた袋が置かれていた。
結局、一度も使わなかった。
黒いやつは現れなかった。
ある雪の夜、浩志は相変わらず年代物のGD705を走らせていた。
フロントガラスの向こうを雪が流れていく。
中央のブレードに集まった雪が、斜めに道路脇へ流れていった。
県内では、また黒い熊が出たらしい。
この冬に入ってからも、何度かニュースになっていた。
湯澤市では出ていない。
稲沢でも、あの春以来、一度も出ていない。
浩志はブレードの端を見ながら、ふと思った。
あの黒いやつは、本当に祟りだったのだろうか。
塩で、祟りの元まで祓えたのだろうか。
雪の消えかけた県道脇に立っていた、小さな石像が浮かんだ。
二十年前にも割れた。
直したら、何も起きなくなった。
今回も、割れた。
もしかしたら、あれは――。
災いを起こすものではなく、災いを外へ出さないための鎮石だったんじゃないか。
だとしたら、あの日。
自分はあれに、塩をぶちまけた。
「……くだらねぇ」
浩志は前を見た。
GD705のエンジン音が低く響いている。
ブレードに押された雪が、道路脇へ流れていく。
浩志はそのまま、白い県道を進んでいった。




