第三話 終わったはず
浩志が車を止めた時には、救急車がすでに到着していた。
美紀の軽自動車は、擁壁に斜めに突っ込んでいた。左前が潰れ、ヘッドライトが割れている。少し離れたところには一台の乗用車がハザードを点けて止まっていた。
浩志はドアを開けると、すぐに車を降りた。
「美紀!」
救急車のそばに美紀がいた。
「浩志」
「結衣は?」
「今、出してもらってる」
浩志は軽自動車へ走った。
後部座席から、救急隊員が結衣を慎重に降ろそうとしている。
「結衣!」
「お父さん……」
声が返ってきた。
浩志はその場で息を吐いた。
「大丈夫か。どこ痛い?」
「頭……」
「気持ち悪い?」
「ちょっと」
救急隊員が結衣をストレッチャーへ移した。
「意識ははっきりしています。頭を打っているようなので、病院へ搬送します」
「お願いします」
浩志は結衣の手を握った。
「お父さんも来る?」
「行くよ。お母さんと救急車乗ってけ。お父さんもすぐ行くから」
「一緒じゃないの?」
「すぐ追っかけるから。大丈夫だ」
結衣の手を握ったまま、顔を覗き込む。
「ちゃんと行くからな」
「うん」
美紀も胸と肩を痛めていた。救急隊員に促され、結衣と一緒に救急車へ乗ることになった。
乗り込む前、美紀が浩志を呼んだ。
「浩志」
「何?」
「あれだった」
「……何が?」
「黒いやつ」
浩志の顔が止まった。
「……見だのか」
「見た」
「ほんとに?」
「分かるよ。私だって動画見てるし、あんたから何回も聞いてたもの。あれだったよ」
美紀は事故車の向こう、道路の方を見た。
「カーブ曲がったら、道路にいた。急に出てきたんじゃない。もうそこにいたの。避けようとして……」
「ぶつかったのか?」
「分かんない」
美紀は首を振った。
「ハンドル切ったあとは、もう……壁しか見えなかった」
「……分かった。あとで聞く。今は結衣と病院行げ」
「うん」
救急車のドアが閉まった。
赤色灯を回したまま走り出す。
浩志はそれを見送った。
*
警察官が浩志のところへ来た。
「ご主人ですか?」
「はい」
「奥さんからも少しお話を伺いました。熊を避けようとして事故を起こした可能性があるということで――」
「熊じゃねえです」
警察官が浩志を見た。
「熊ではない?」
「黒いやつです」
「以前からこの辺で目撃されている大型の動物ですか?」
「はい。それです」
「奥さんも熊ではない、大きな黒い動物だったと話されています」
警察官は道路の方を見た。
「こちらでは熊と思われる大型獣として扱っていますので、今回もその可能性があるものとして確認します」
浩志は何も言わなかった。
後ろを走っていた車の運転手が事故を目撃し、救急車と警察を呼んでいた。
事故そのものは、動物を避けようとして擁壁に衝突した単独事故として処理されることになった。
美紀の軽自動車はその場に残し、あとで引き取りを手配することにした。
浩志は自分の車へ戻った。
そのまま病院へ向かった。
*
検査が一通り終わるまで、かなり時間がかかった。
結衣は脳震盪と診断された。
画像検査では大きな異常は見つからなかったが、頭痛と吐き気があるため、そのまま一晩入院して様子を見ることになった。
美紀は胸と肩を強く打っていた。シートベルトの跡が残っていたが、骨には異常がなかった。
浩志が病室へ入ると、結衣はベッドに横になっていた。
「どうよ」
「まだ頭痛い」
「気持ち悪いのは?」
「ちょっと」
「そっか」
浩志はベッドの脇の椅子に座った。
結衣が顔だけを向けた。
「お父さんも泊まる?」
「お母さんいるべ」
「お父さんも」
「三人で泊まったら怒られるべ」
結衣が少し笑った。
「明日の朝、また来るから」
「早く?」
「早く来る」
「ほんと?」
「来るって」
浩志は結衣の頭に触れようとして、やめた。
「ちゃんと寝れよ」
「うん」
*
病室を出ると、美紀が廊下の椅子に座っていた。
浩志も隣に座った。
「警察、何て?」
「熊だって」
「やっぱりな」
「私、何回も違うって言ったよ」
「警察はそう言うしかねえべ」
美紀はしばらく黙っていた。
「ほんとに真っ黒だった」
浩志が横を見る。
「ライト当たってるのに何も見えないの。顔も、毛も」
「うん」
「あれ、重機にも向かってきたんでしょ?」
「来た」
「塩が効いたんだよね?」
「うん」
美紀は俯いた。
「でも、もう出なくなったって言ってたじゃん」
「……うん」
「荒神様も直したんでしょ?」
「直した」
「お祓いもしたって」
「ああ」
「じゃあ、なんでまだいるの」
浩志は答えなかった。
「……分がらねえ」
「私だってユーチューブの動画も見たし、ティックトックのも見た。あんたからもずっと聞いてたから、見た瞬間に分かったよ」
美紀は息を吐いた。
「なのに警察は熊の話しかしない」
「警察はそう言うしかねえべ」
二人とも、しばらく喋らなかった。
*
浩志が病院を出たころには、もう日付が変わろうとしていた。
途中のコンビニに寄った。
酒の棚の前で少し迷い、缶チューハイを三本買った。
家に戻り、一本目を開けた。
普段ほとんど酒を飲まないせいか、すぐに顔が熱くなった。それでも二本目を開けた。
三本目には手をつけなかった。
テーブルの上に携帯を置き、夏樹へ電話をかけた。
『はい』
「夏樹?」
『おう。どうだった? 結衣ちゃん』
「脳震盪だって。今晩は入院して様子見るってよ」
『そっか。奥さんは?』
「胸と肩打ってるけど、大丈夫だって」
『んだが。まず、よかったな』
「うん」
浩志は缶を持ったまま、少し黙った。
「悪いんだけどよ。明日の雪捨て場、俺出られなくなった」
『ああ、いいよ』
「誰か代わってもらえねえかな」
『分かった。こっちで聞いてみるから気にすんな』
「悪いな」
『そんなのいいって。結衣ちゃんのとこ行ってやれ』
「……うん」
電話を切った。
浩志は残っていた缶チューハイを飲んだ。
テーブルの上には、開けていない三本目が残っていた。
しばらくして、浩志が呟いた。
「……ふざけんなよ」
誰もいない部屋に、自分の声だけが残った。
「怒ってんなら、俺さ来いよ」
冬の初め。
雪の下に埋もれていた石像を、705のブレードが引っ掛けた。
「俺がやったんだべ」
缶を握る手に力が入った。
「だったら俺に罰当てればいいべ」
美紀の軽自動車が頭に浮かんだ。
潰れた左前。
ストレッチャーに乗せられた結衣。
「なんで家族やるんだよ」
浩志は俯いた。
「あいつら関係ねえべ」
返事はない。
「俺が壊したんだべ」
握っていた缶が小さくへこんだ。
「だったら俺殺せばいいべ」
浩志はそのまま、長いこと動かなかった。
翌朝、浩志は病院へ向かわなかった。




