第二話 春排雪
三月に入ると、深夜の除雪は完全になくなった。
まとまった雪の予報もなくなり、夜中に集まって重機を出すこともない。それでも朝晩に冷え込む日はあり、路面が凍りそうな夜には石田の散布車が稲沢地区を走った。
助手席には、岩塩を入れた袋がまだ残っていた。
一度も使わなかった。
黒いやつを見たという話も、あれから聞かなくなっていた。
*
三月最初の週、夏樹は湯澤市建設課の職員をハイエースに乗せ、稲沢地区を回っていた。
助手席の職員は、各業者から上がってきた春排雪の箇所をまとめた紙を膝に置いている。
「次、そこの田んぼです」
「ああ、ここね」
夏樹は路肩へハイエースを寄せた。
二人で降りる。
田んぼの端には、冬の間に押し込まれた雪がまだかなり残っていた。
「ここは?」
「取った方がいいですね。結構ありますから」
「じゃあ残します」
職員が紙に印を付けた。
次は空き地の隅だった。冬の間は大きな雪山になっていたが、三月に入ってずいぶん沈み、端の方では地面も見え始めている。
夏樹は運転席から眺めた。
「これはいらねえべ」
「もういいですか?」
「んだ。これなら春なれば消える」
「じゃあ外します」
ハイエースを出した。
一か所見ては移動し、また止まる。田んぼの端、集会所の裏、冬の間に雪を逃がしていた空き地。午前中いっぱい回り、昼を挟んで午後も続けた。
最後の場所を見終えたころ、職員が紙をめくった。
「今日はこれで終わりです」
「明日もあるんだべ?」
「ありますね」
「結構出してきたなあ」
「多いですね」
夏樹が笑った。
「まあ、最後だもの。みんな取りてえべ」
*
数日後、春排雪が始まった。
朝から稲沢地区のあちこちでバックホウが動いた。
冬の間に田んぼや空き地へ押していた雪をすくい、待っているダンプへ積む。直営も請負も一斉に動いた。
浩志も朝から4tダンプに乗った。
バックで積み込み場所へ入り、ミラーを見ながら位置を合わせる。後ろでバックホウのエンジン音が上がり、どん、と雪が荷台へ落ちた。
もう一杯。
さらに一杯。
満載になると雪捨て場へ向かう。
雪捨て場には何台ものダンプが出入りしていた。順番が来ると奥へ入り、バックして荷台を上げる。雪がまとまって滑り落ちた。
浩志が出ていく横を、次のダンプが入っていく。
その日の雪捨て場担当になった直営のオペレーターが、運び込まれた雪を重機で押していた。
冬の終わりに一度低くなっていた雪山が、また大きくなり始めていた。
*
何日か経った夕方だった。
作業を終えた連中が車庫へ戻り、畳の部屋でコーヒーを飲んでいた。
その日、雪捨て場を担当していた黒沢が煙草をくわえた。
「今日よ、すんげえ綺麗な雪来たぞ」
夏樹が顔を上げた。
「綺麗な雪?」
「真っ白。何台も」
「どこの?」
黒沢が業者の名前を言った。
譲が缶コーヒーを持ったまま言った。
「あそこ今日、中野の田んぼでねがった?」
「んだよな」
夏樹が答えた。
黒沢が煙を吐いた。
「あそこから、あんな真っ白なの出ねえべ。降った雪そのまますくったみてえなの、何台も来たぞ」
友也が笑った。
「土場から持ってきたんでねえの」
「俺もそう思った」
夏樹が苦笑した。
「やってんなあ」
「俺は見たまま言っただけだからな」
「分がってるって」
それで話は終わった。
翌朝、夏樹は車庫の外で業者へ電話した。
「おはようございます。今日もお願いします」
『おはようございます。お願いします』
「今日、どこの排雪でしたっけ?」
『今日は上野と、そのあと杉沢です』
「ああ、はいはい。分かりました」
夏樹は少し間を置いた。
「あと昨日なんですけど、どっか違うところ取ってませんでした?」
『え?』
「いや、雪捨て場さ、ずいぶん真っ白な雪来てたって話だったんで」
電話の向こうが少し静かになった。
『……いや、昨日は予定のところだけですよ』
「ああ、そうですか。ならいいです。今日もお願いします」
電話を切った。
その日の夕方、黒沢が車庫へ戻ってくるなり言った。
「今日は普通の雪だったぞ」
「んだすか」
「ずいぶん効く電話だな」
「俺、何も言ってねえよ」
「はいはい」
黒沢は煙草に火をつけた。
*
別の日には、譲が雪捨て場を担当した。
夕方、車庫へ戻ってくると、畳の部屋へ上がって缶コーヒーを開けた。
「今日の最後、泥みてえなのばっかり来たぞ」
「どこ?」
夏樹が聞いた。
譲が場所を言った。
「あそこか。まだ取ってた?」
「夕方まで来てた。最初は普通だったけど、最後の方なんか茶色いのばっかり。土出るまでさらってんでねえの」
「明日見てみる」
翌朝、夏樹がその田んぼへ寄ると、バックホウはまだ動いていた。
雪はもうほとんどない。田んぼの土が広く見えているのに、バケットは薄く残った雪をさらい、端へ集めていた。
夏樹はハイエースを止めて降りた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「まだ取るの?」
「もう少しですね」
夏樹は田んぼを見た。
「もういいべ、これ」
「まだちょっと残ってますけど」
「それ春なれば消えるって。土まで持っていがなくていいから」
「ああ、はい」
「ここ終わりにして、次行ってください」
「分かりました」
夏樹はハイエースへ戻った。
*
春排雪は続いた。
田んぼや空き地に積まれていた雪が、一か所ずつなくなっていく。
雪捨て場には朝から夕方までダンプが入り、荷を空ける。その上へまた雪が運び込まれ、重機が押す。
数日もすると、一度は低くなっていた雪山は、春排雪が始まる前より大きくなっていた。
*
三月の週末。
その日は春排雪もなく、夜の散布もなかった。翌日も休みだった。
直営班だけで久しぶりに飲むことになった。
場所は稲沢地区の、いつもの小松会館だった。
六時半を過ぎたころには、テーブルの上に刺身や焼き鳥、鍋が並んでいた。
黒沢と友也は酒を飲み、辰雄もすでに顔が赤い。石田はゆっくりと杯を傾け、土田の前にはノンアルコールビールが置かれていた。
浩志の前にあるのはウーロン茶だった。
祐介がそれを見た。
「浩志さん、酒飲まねえのに飲み会はちゃんと来るんすね」
「来ちゃ駄目なのかよ」
「いや、そうじゃなくて。奥さんに怒られねえの?」
「なんでよ」
「酒も飲まねえのに夜いねえから」
「仕事の飲み会来たぐらいで怒られねえよ。俺いねえがら、今日は実家さ遊びに行ってら」
「奥さんの実家?」
「んだ。結衣も連れて」
「じゃあ浩志さん、一人じゃないっすか」
「帰ったらな」
友也が横から笑った。
「浩志は酒飲まねえからいいよな。明日の朝も普通に起ぎられるべ」
「友也さん、明日起ぎられねえくらい飲むつもり?」
「休みだもの。起ぎる必要ねえべ」
「もう結構飲んでるじゃん」
「まだ九時にもなってねえ」
譲が笑った。
「友也さん、明日昼まで寝てるんでねえの」
「それはそれで休みの正しい使い方だべ」
土田がノンアルコールビールを置いた。
「寝すぎると筋肉落ちるぞ」
「落ちねえよ」
「気持ちの問題」
「またそれかよ」
笑いが起きた。
鍋が煮え、酒が進んだ。
春排雪の話になり、どこの田んぼがまだ残っているだの、今年の雪捨て場は最後にどこまで高くなるだの、しばらく仕事の話が続いた。
やがて黒沢が言った。
「そういや、ほんとに出なくなったな」
「何が?」
辰雄が顔を上げた。
「黒いやつ」
「ああ」
祐介が箸を止めた。
「最後に出たの、いつでしたっけ」
「浩志さんがやったやつじゃねえの?」
土田が言った。
浩志はウーロン茶を飲んだ。
「俺はそれっきり見てねえぞ」
友也が石田を見た。
「散布でも出てねえんだべ?」
「見てないですね。一度も」
「じゃあ、もう終わったんでねえの」
黒沢が言った。
「荒神様直して、お祓いしたからでねえの?」
「ああ」
夏樹が頷いた。
「楢山の人も、二十年前は直してお祓いしたあと何も起ぎねぐなったって言ってたからな」
「じゃあ、やっぱりあれだったんすかね」
祐介が浩志を見た。
「何がよ」
「結局、浩志さんが荒神様ぶっ壊したのが元凶だったんじゃないっすか」
「なんで俺が元凶なんだよ」
「だって浩志さんが壊したんでしょ?」
「雪の下にあったんだから見えるわけねえべ」
祐介は指を一本立てた。
「壊す。黒いの出る」
「おう」
二本目を立てる。
「直す。お祓いする。黒いの出なくなる」
「だから何よ」
「ほら」
「ほら、じゃねえよ」
笑いが起きた。
土田まで乗ってきた。
「浩志さん、今度なんか壊す時は先に言ってくださいよ」
「何を壊すんだよ」
「神様系」
「壊さねえよ」
「絶対ですよ。次は塩で済まねえかもしれねえから」
「おめえら、俺が好きで壊したみたいに言うなよ」
浩志も笑った。
「その時は誰か竹さ結んで人柱にするべ」
「誰をだよ」
友也が笑った。
「祐介でいいべ」
「なんで俺なんすか!」
「言い出したのおめえだもの」
「人柱って、俺まだ生きてますからね」
「生きてねえと人柱にならねえべ」
「ひでえな、この職場」
祐介が笑いながらビールを飲んだ。
「まあ、直したんだからいいべ。お祓いもしたし」
夏樹が言った。
「これで終わりなら一番いいな」
譲が言うと、辰雄は酒の入ったグラスを持ったまま頷いた。
「もう出なくていい。あんなの」
「辰雄さんは本当に嫌だべな」
「当たり前だ。二度と会いたくねえ」
また笑いが起きた。
それから話は春排雪に戻り、今度は請負の誰が土までさらっていたとか、雪捨て場へ真っ白な雪を持ってきたのはどこだとか、そんな話になった。
九時を少し過ぎたころだった。
テーブルの上で、浩志の携帯が震えた。
画面を見た浩志が言った。
「美紀からだ」
「奥さんから?」
夏樹が聞いた。
「うん」
浩志は何気なく電話に出た。
「もしもし、美紀?」
すぐには返事がなかった。
「もしもし?」
『……浩志』
その声を聞いた瞬間、浩志の顔から笑いが消えた。
「どうした?」
『事故った……』
「事故?」
周囲の話し声が止まった。
「どこよ」
『トンネル右に行って……杉林抜けたあとの、壁のとこ……』
「ああ、あそこか。結衣は?」
『後ろにいる。頭打ったみたいで……気持ち悪いって』
浩志は立ち上がった。
「結衣、喋れる?」
『うん。喋ってる』
「意識あるんだな?」
『ある』
「救急車は?」
『後ろの車の人が呼んでくれた』
「分かった。美紀も動かなくていいから。すぐ行く」
電話を切った。
「事故?」
夏樹も立ち上がった。
「嫁と娘。結衣が頭打ったって」
「どこ?」
「杉林の手前の擁壁」
「あそこか」
浩志は上着を掴んだ。
友也が言った。
「浩志、いいから早く行げ。こっちはいい」
「友也さん、悪い」
「いいって。早く行げ」
浩志は小松会館を飛び出した。
外では細かな雪が落ちていた。積もるほどではない。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
杉林の手前まで来ると、擁壁のそばで赤色灯が明滅しているのが見えた。




