第七話 塩
一月も二十日を過ぎた。
ここ数日は、深夜に除雪車を出すほどの雪が降っていなかった。日中にちらつき、夕方には道路が白くなることはあっても、夜中にまとまって積もるほどではない。
それでも散布車には出番があった。
橋や交差点、急な坂。昼に緩んだ雪が夜になって凍る場所を、石田は散布車で回っていた。深夜除雪のない日は、直営のメンバーが交代で助手席に乗る。
そんな日が何日か続いたあと、久しぶりにまとまった雪が来た。
日付が変わるころには道路の轍も消え始めた。
直営班は次々と車庫へ集まり、零時を少し回ったころには重機を出した。譲のWA270、智也のWA200、辰雄のローダー、土田のWA350、祐介のMG430。そして浩志のGD705も、それぞれの持ち場へ向かった。
久しぶりの深夜除雪だった。
石田が車庫へ来たのは午前三時だった。
すでに直営の重機は一台も残っていない。
散布車を出し、凍結防止剤を積む場所へつける。荷台へ入れるのは、中国産の岩塩を砕いたものだった。
積み終えると車へ戻り、散布装置を確認して車庫を出た。
雪はまだ降っていた。
だが、道路はすでに除雪されている。
石田が皆瀬川の堤防道路へ入ると、路面にはグレーダーの排土板が通った跡が残っていた。
浩志の仕事だった。
路肩まできれいに雪が切られ、道路の幅が出ている。その上へ新しい雪が薄く積もり始めていた。
石田は散布装置を動かした。
荷台の下から岩塩が扇状に飛び、仕上がった路面へ散っていく。
堤防道路の途中に、短い距離で急に上り、頂上を越えるとそのまま下る場所がある。
石田は速度を落とし、岩塩を撒きながら坂へ入った。
右側には、除雪で押し上げられた雪壁が続いている。高いところでは二メートル近い。
その向こうで、橙色の光が回った。
一度見え、消える。
また見えた。
「ローダーいるな」
頂上近くには右から道が入っている。
T字路になっているため、こちらからは雪壁に遮られて何をしているのか見えない。
橙色の光だけが、雪壁の向こうで回っていた。
石田はそのまま坂を上った。
T字路へ差しかかった。
右側の雪壁がそこで切れた。
「……うわっ」
石田の身体がわずかにハンドルへ寄った。
ローダーがいた。
楢山建設のWA100だった。
その前に、黒いものがいた。
立ち上がった頭が、WA100のキャビンの屋根とほとんど同じ高さにある。
「……これか」
黒いものとローダーが道路の上でもみ合っている。
石田に分かったのはそれだけだった。
散布車は止まらない。
岩塩を撒きながらT字路を抜け、坂の頂上を越えた。
*
「このっ……!」
WA100の運転手がアクセルを踏み込んだ。
黒い足が雪を削りながら下がる。
WA100がじりじり前へ出た。
だが、二メートルも行かないうちに、それ以上動かなくなった。
「くそっ……」
道路の端にはガードレールが続いている。
その向こうは急な法面だった。
あそこまで押す。
ガードレールの手前まで持っていったら排土板を上げ、その上から向こうへ押し落とす。
さっきからそれを狙っていた。
だが、そこまで持っていけない。
「でかすぎだべ……」
黒いものが排土板へ身体を寄せてくる。
頭はキャビンの屋根とほぼ同じ高さだった。
目も鼻も口も分からない。
作業灯を受けても、ただ黒い形のままだった。
腕が排土板へ掛かった。
「上がってくんなよ……」
運転手が排土板を動かす。
腕が外れる。
すぐにまた掛かる。
その時、左から光が差した。
雪壁の向こうからヘッドライトが近づいてくる。その上で橙色の回転灯が回っていた。
「散布車か」
T字路から散布車が現れた。
WA100のすぐ横を通っていく。
後ろでは散布装置が回り、白い粒が扇状に飛んでいた。
その直後だった。
黒いものが突然、大きく身をよじった。
「うおっ」
排土板に掛かっていた力が抜けた。
WA100が前へ出そうになり、運転手は慌ててアクセルを戻した。
「何だ?」
黒いものが暴れている。
腕を振り、身体を捻る。
散布車はもう坂の向こうへ下り始めていた。
運転手はすぐに前を見た。
「今だ!」
アクセルを踏み込んだ。
今度は押せた。
黒いものが排土板に押されて下がっていく。
「行げ、行げ!」
WA100が前へ進む。
黒いものが後ろへ押される。
その足が、散布車の通った路面へ下りた。
身体が跳ねた。
「うわっ!」
黒いものが足を上げた。
別の場所へ下ろす。
また跳ねた。
黒い脚の下から、煙のようなものが上がった。
「何だ、これ……」
黒いものが倒れた。
腕を路面につく。
そこからも煙が上がった。
慌てるように腕を引く。
別の場所へ手をつく。
また煙が出た。
運転手はアクセルから足を離した。
WA100が止まった。
排土板はもう黒いものに触れていない。
それでも黒いものは道路の上でのたうち回っていた。
脚の輪郭が崩れた。
身体が路面へ触れるたび、そこから黒い煙が上がる。
「おい……」
ガードレールまでは、まだ距離がある。
上半身が持ち上がった。
黒い腕が宙を掻いた。
その腕も途中から煙になった。
最後に残った黒い塊が路面へ落ちる。
煙が上がった。
そして、消えた。
*
石田は坂を下りきったところで散布車を停めていた。
身体を捻って後ろを見る。
坂の上にはWA100が止まっている。
さっきまで、その前にいたはずの巨大な黒いものが見えない。
しばらくすると、WA100のドアが開いた。
運転手が降りてきた。
排土板の前へ回り、道路を見ている。
何歩か歩いては止まり、また足元を見る。
やがて坂の下を向いた。
「おーい!」
大きく手を振った。
「散布車ー! ちょっと来てくれー!」
石田は少し迷ってから散布車を降りた。
「何があったんですかー!」
坂を上っていく。
相手もこちらへ歩いてきた。
「今の、見てました?」
「通る時に見ましたけど、何やってるところかまでは分からなかったです」
「俺、あいつをあっちの法面さ落としてやろうと思ってたんですよ」
運転手がガードレールの向こうを指した。
「ここまで押して、排土板上げて、上から向こうさ落としてやろうと思って。それが全然押せなくて」
「ずいぶん大きかったですね」
「でかいなんてもんじゃないですよ。頭、100の屋根くらいまであったもの」
運転手はWA100を振り返った。
「それが、散布車通った直後に急に暴れ始めたんですよ」
「私が通ったあとですか?」
「はい。それまで押すの大変だったのに、急に力抜けたみたいになって。それで今だと思って押したら、この辺まで来たところで、もっとひどく暴れ出して」
足元を指した。
「煙出して、そのまま消えました。最後は俺、もう押してないです」
「何もしないで?」
「はい」
二人とも道路を見た。
グレーダーが仕上げた路面の上に、撒かれたばかりの岩塩が散っている。
運転手がしゃがんだ。
しばらく白い粒を見てから言った。
「……塩ですかね」
石田も足元を見る。
「……まさか」
「でも、散布車通ってからなんですよ」
「塩でねぇ……」
石田は首を傾げた。
*
朝、直営班の詰所に戻ると、石田は昨夜のことを話した。
「それで、散布車が横通ったら急に暴れ出したって?」
智也が聞いた。
「そう言ってました。私は通り過ぎる時に見ただけなんで、そこまでは分からなかったです」
「そのあと、石田さんが撒いたところまで押したら消えた?」
「はい。楢山の人は、最後はもうローダーで押してなかったそうです。それでも道路の上で煙みたいになって消えたって」
祐介が首を傾げた。
「……塩が効く?」
「ナメクジじゃねえんだから」
土田が笑った。
「でも、清めの塩ってのもあるし……まさかなぁ」
黒沢が言った。
智也がそちらを見る。
「くろさん、そういうの信じる人だっけ?」
「信じてねえよ。言ってみただけだ」
そこで話は一度途切れた。
ストーブの上で、やかんが小さく鳴っている。
浩志は缶コーヒーを飲みながら、昨夜の話を頭の中で繰り返していた。
「……待て」
「何よ?」
智也が見る。
「俺、前に堤防で追っかけられた時あったべ」
「ああ。バックで逃げたやつ」
「んだ。ずっと追ってきてたのに、でかい交差点の手前で急にいなくなった」
浩志は少し黙った。
「あそこ撒いてるべ」
智也の顔から笑いが消えた。
「交差点、塩撒いてる。じゃあ、あん時追ってこねがったのも……塩?」
「いや、でも偶然じゃね?」
土田が言った。
「黒いやつが勝手にやめただけかもしれねえべ」
「それもある」
譲が頷いた。
石田が湯呑みを置いた。
「ただ、散布車はかなり出てますよ」
「除雪ない日も出るもんな」
智也が言った。
「はい。皆さんにも交代で助手席に乗ってもらってますけど、散布してる時に黒いやつを見たって話、ほとんどないですよね」
祐介が少し考えた。
「俺、一回見たな」
「俺もだ。若い三人組の時」
黒沢が言った。
譲が指を折るでもなく、そのまま頷いた。
「その二回くらいか」
「たぶん、それくらいですね」
石田が言った。
「私も昨夜が初めてです」
智也が腕を組んだ。
「散布車、あんだけ夜走ってんのにな」
「まあ、それだけなら偶然かもしれねえけどな」
譲が言った。
また少し間が空いた。
浩志が眉を寄せた。
「樋口さんもだ」
「国道の?」
「んだ。最初の頃に一回見たって言ってたべ。国道の近くで。けど、国道さ入ってこねがったって」
「ああ」
譲も思い出した。
「それから一回も見てねえって言ってたな」
「国道って全線撒いてるべ」
誰もすぐには答えなかった。
智也が腕を組んだまま言った。
「高山さんのも……そうじゃね?」
「何が?」
「100でぶっ飛ばしたやつ」
「ああ」
土田が頷く。
「あの妙にあっさりやっつけたやつか」
「最後、国道まで押してったんだべ」
「……そうだったな」
今度は誰も笑わなかった。
黒沢が煙草の煙を吐いた。
「……塩か」
譲が椅子の背にもたれた。
「まあ、本当に効くかはまだ分がんねえけど、とりあえず、お守り代わりに袋さ塩入れて持っとくべ」
「お守り代わり?」
祐介が聞いた。
「んだ。どうせ車庫にあるんだし」
夏樹が口を開いた。
「持ってくのはいいけど、それ当てにして近づいたりしないでくださいよ。今まで通り、逃げられるなら逃げること」
「効かなかったら?」
土田が聞いた。
「逃げるしかねえべ」
浩志が答えた。
「結局それかよ」
「当たり前だべ」
その夜、何台かの重機の助手席には、岩塩を入れた袋が置かれていた。
*
土田はWA350を走らせていた。
直営班で使っている中では一番大きい。
十六トンクラスの車体に、譲の270よりさらに大きな排土板を付けている。
土田はこの機械が好きだった。
大きい。
重い。
力がある。
それで十分だった。
広い二車線道路を押している時、作業灯の先に黒いものが現れた。
「……お」
土田はアクセルを戻した。
道路の真ん中に立っている。
「でっけえな」
黒いものがこちらを向いた。
三メートル近い身体が歩き始める。
すぐに速くなった。
土田は左の助手席を見た。
岩塩を入れた袋が置いてある。
正面へ目を戻す。
黒いものが近づいてくる。
「……まあ」
排土板を下げた。
「こっちは350だしな」
アクセルを踏んだ。
WA350が前へ出る。
黒いものも速度を上げた。
「来い!」
距離が詰まった。
黒い身体が排土板へぶつかった。
ドンッ。
「おおっ!」
十六トンクラスの車体にも衝撃が伝わった。
黒い腕が巨大な排土板へ掛かる。
「力あるじゃん!」
土田はさらにアクセルを踏んだ。
WA350が前へ出る。
黒いものの足が雪を削った。
「でもな!」
さらに踏む。
「力こそパワーなんだよ! うりゃ!」
黒いものが下がった。
「どうした! 三百五十なめんなよ!」
無線の送信ボタンは押していない。
土田は一人で叫んでいた。
黒いものが排土板へ身体を乗せようとする。
「上がんな!」
排土板を動かした。
黒い身体が崩れる。
そのまま押す。
黒いものの足がもつれた。
巨体が排土板の前へ転がった。
土田はすぐに止めた。
「よし!」
排土板を上げた。
倒れた黒い身体の上へ被せるように位置を合わせる。
「寝てろ!」
排土板を一気に下げた。
黒いものの身体が雪へ沈んだ。
車体が揺れる。
黒い腕が排土板の脇から伸びた。
それでも抜け出せない。
「どうした!」
土田は笑った。
「デカい方が強えんだよ!」
黒いものがまた暴れた。
「……あ」
土田は左を見た。
助手席に岩塩の袋がある。
「そうだった」
黒いものを見る。
「おめえ潰すんじゃなくて、これ試すんだった」
土田は350をその場に止めた。
左の助手席から岩塩の袋を取る。
左のドアを開けると、雪と冷たい風がキャビンへ吹き込んだ。
「さみっ!」
排土板の向こうでは、押さえ込まれた黒い上半身がまだ動いている。
土田は袋を左手に持った。
「うりゃ!」
投げた。
袋が黒いものの胸へ当たった。
ぼすっ。
跳ね返って雪の上へ落ちる。
「……」
破れていない。
「そこは破れろよ!」
黒いものが排土板の下で暴れた。
「ちょっと待て!」
土田はもう一つの袋を取った。
縛った口をほどく。
黒いものを見る。
「中身だべ」
口を開けたまま左手で持つ。
「ほらよ!」
投げた。
袋が飛ぶ。
途中で岩塩がこぼれた。
白い粒が黒いものの胸から肩へ散った。
黒い身体が跳ねた。
「お?」
排土板の下で激しくのたうつ。
岩塩の付いた胸から黒い煙が上がった。
「おお?」
肩が崩れる。
煙が噴き出す。
黒い腕が大きく振られた。
その腕にも岩塩が付いていた。
途中から輪郭が崩れ、煙になった。
土田の顔から笑いが消えた。
開けたドアの奥から、黙って見ている。
黒い身体が縮んでいく。
腕が消えた。
頭が崩れた。
最後に残った黒い塊も煙になった。
何もなくなった。
雪だけが開いたドアから吹き込んでくる。
土田はしばらく動かなかった。
それから、排土板の向こうを見たまま呟いた。
「……マジで塩じゃん」




