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稲沢除雪隊〜黒い獣〜  作者: 只野屍
第四章 変化
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第六話 夜の獲物

 重機車庫で、稲沢地区の除雪関係者だけを集めた話し合いがあってから、黒いやつを退けたという話が少しずつ増え始めた。


 楢山建設のローダーが雪壁まで押して追い払った。別の業者では、排土板で何度か叩いているうちに煙のようになって消えた。誰から誰へ伝わったのか分からない話も混じっていたが、同じ地区を走っていれば、そういう話は嫌でも耳に入ってくる。


「また楢山でやったってよ」


「どこで?」


「上の方だって。ローダーで押したらしい」


「やっぱ重機ならいけるんだな」


 そういう会話が、朝の車庫や会社の詰所で普通に交わされるようになっていた。


 高山が二度目に黒いやつと遭遇したのも、そんな頃だった。


     *


 額の傷は、もう触らなければ痛まなかった。


 鼻も同じだった。


 一度目の遭遇では、WA100の後ろを黒いやつに何度も殴られた。驚いた高山が自分で前へ出し、そのままスロープを落ちた。身体を前へ持っていかれ、フロントガラスへ顔から突っ込んだ。


 鼻を折り、額を五針縫った。


 あれ以来、高山は仕事中に煙草を吸わなくなっていた。


 以前なら路線の途中で適当な場所を見つけ、一度ローダーを停めて煙草に火をつけていた。それがなくなった。休憩までは黙って雪を押す。


 会社の同僚から「高山、最近真面目だな」と笑われても、「うるせえ」と返すだけだった。


 その日の午前三時過ぎ、高山は国道から分かれた市道を、国道へ向かって除雪していた。


 両側は田んぼだった。


 雪は降っていたが、風はさほど強くない。前方にはすでに除雪を終えた国道が横切っている。あと百メートルもなかった。


 高山はアクセルを緩めた。


 道路の真ん中に、黒いものがいた。


 正面からライトを浴びている。それなのに表面には何も見えない。毛並みも、目も、口もない。ただ輪郭だけでそこに何かが立っている。


 高山は額の傷へ手をやった。


「……おめえか」


 まだ向こうは動いていない。


 このままバックすればいい。別の場所を先に除雪して、いなくなってから戻れば済む。


 そうするように言われてもいる。


 だが、傷へ触れた指先から、あの時のことが一気に蘇った。


 割れるように痛んだ鼻。


 額から流れた血。


 何度も殴られてへこんだWA100の後ろ側。


 次の瞬間、高山はアクセルを踏み抜いていた。


「このど畜生が!」


 WA100が雪道を駆けた。


 エンジン音が高くなり、速度計の針が二十を越え、二十五を過ぎ、そのまま三十の先まで上がった。


 黒いやつが動いた。


「逃げんな!」


 高山は緩めなかった。


 低く構えた排土板が、そのまま黒いやつへ突っ込んだ。


 激突した。


 鈍い衝撃が車体を伝わり、黒い身体が前方へ吹っ飛んだ。


 雪の上へ落ちる。


「おらぁ!」


 高山は追いついた。


 排土板でもう一度拾う。


 黒いやつが雪の上を転がった。起き上がろうとすれば、そのまま押す。また転がる。


「この前はよくもやってくれたな!」


 国道まで五十メートルほどだった。


 高山は黒いやつを押し、転がしながら、そのまま国道へ向かった。


 交差点が近づく。


 黒いやつが排土板の前で大きく転がり、国道へ出た。


 そこはすでに除雪を終えていた。左右へ延びる道路には雪がほとんどなく、黒い舗装が露出している。


 高山はさらに前へ出て、黒いやつをその上まで押し出した。


「ここで終わりだ!」


 アームを上げる。


 排土板が持ち上がった。


 黒いやつが舗装の上でもがいている。


 その身体から黒い煙のようなものが立ち始めた。


「……あ?」


 高山は一瞬だけ見た。


 だが、まだ形は残っている。


「知るか!」


 レバーを操作した。


 排土板を叩き落とす。


 ドンッ、と車体へ衝撃が返ってきた。


 すぐに上げた。


「もう一発――」


 そこまで言って、高山は手を止めた。


 黒いやつの頭の輪郭が崩れていた。


 片方の前脚が煙のようにほどけ、残った胴も端から黒く霞み始めている。


「なんだよ、おい」


 高山は排土板を少し下げ、レバーを握り直した。


 立つなら、もう一度叩く。


 だが、黒いやつは起き上がらなかった。


 身体をよじるたびに輪郭が崩れ、黒い煙が舗装の上から立ち上っていく。


 やがて脚が消え、胴も崩れ、最後に残った黒い塊まで薄くなって消えた。


 高山はしばらく前を見ていた。


「……終わり?」


 何も出てこない。


 直営の連中から聞いていた話とは違った。


 何度も叩いたとか、二台で押さえ込んだとか、もっとしぶとかったような話ばかりだった。


 高山は少し拍子抜けしたように鼻を鳴らした。


「なんだよ。あっけねえな」


 それでも勝ちは勝ちだった。


 携帯電話を取り出し、会社の社長へかける。


「社長。俺、やったぞ」


『何を?』


「黒いやつ」


 電話の向こうが少し黙った。


『……おめ、何した?』


「ヒャクでぶっ飛ばした。国道まで押してって、最後に排土板で一発ぶったたいたら消えた」


『馬鹿、おめ、逃げろって言われてるべ!』


「もういねえよ」


『怪我してねえな? 機械は?』


「どっちも大丈夫だ。今回は俺の勝ちだ」


『勝ちとか負けとかじゃねえ! おめ――』


「じゃ、続きやるから」


『高山!』


 電話を切った。


 続けて、もう一人にかける。


 前回の事故で、高山を最初に見つけて救急車を呼んだ同僚だった。


『もしもし』


「俺。この前の借り返したぞ」


『何の?』


「黒いやつ」


『……また出たの?』


「出た」


『逃げた?』


「なんで逃げるんだよ。今度は俺が勝った」


『おめ、何したんだよ』


「ヒャクでぶっ飛ばした。鼻と額とローダーの後ろの分、まとめて返した」


『馬鹿でねえの、おめ。怪我してねえんだな?』


「してねえよ。じゃあな」


『ちょっと待て、高山――』


 切った。


 高山は携帯電話をしまった。


 しばらくして、胸ポケットへ手を入れた。


 煙草の箱がある。


 仕事中には、あの事故以来一本も吸っていなかった。


 一本抜き、火をつける。


 深く吸い込んだ。


「……うめえ」


 煙を吐きながら、高山は満足そうに前を見た。


     *


 その夜、稲沢地区は吹雪になった。


 山から吹き下ろす風が細かな雪を横向きに走らせ、強くなるたび道路の先を白く消した。


 まだ除雪の入っていない道は、どこも同じ深さに積もっているわけではなかった。


 吹きさらしの場所では雪が削られて薄くなり、舗装が透けそうなところもある。その少し先では、風に運ばれた雪が道路の片側へ寄り、膝近くまで盛り上がった吹き溜まりを作っていた。


 後藤慎吾は、その中を一人で軽トラックを走らせていた。


 勇には何も言っていない。


 ワイパーが休みなく雪を払っている。


 風が強まれば速度を落とし、視界が戻ればまた少し進む。


 ヘッドライトの先に、突然黒いものが現れた。


 後藤はブレーキを踏んだ。


 軽トラックが止まる。


「……いたな」


 吹き溜まりの手前。


 道路の上に、黒いやつがいた。


 後藤は運転席からしばらく見た。


 吹雪が強まり、一度それを隠す。


 数秒後、また姿が見えた。


 逃げてはいない。


 エンジンをかけたまま、後藤はライフルを手に取った。


 ドアを開ける。


 風と雪が一気に車内へ吹き込んだ。


 外へ出てドアを閉める。


 軽トラックのエンジン音が背後で鳴り続けていた。


 黒いやつはこちらを向いていた。


 後藤はその向こうへ目をやった。


 民家はない。


 走ってくる車もない。


 さらに先には雪を被った土手がある。


 後藤は少し横へ位置を変えた。


 黒いやつも動いた。


 こちらへ来る。


 風が強くなった。


 一瞬、姿が白い雪の向こうへ消えた。


 次に見えた時には、さっきより近い。


 二十メートルもなかった。


 後藤は銃床を肩へ当てた。


 黒いやつが止まった。


 風だけが、その間を横切っていく。


 やがて黒いやつが走った。


 後藤は引き金を引いた。


 銃声が吹雪の中へ響いた。


 黒い身体が大きく崩れ、雪の上へ倒れた。


 後藤の口角が、ほんの少しだけ上がった。


 ボルトを引く。


 空薬莢が雪へ落ちた。


 押し戻す。


 その時、黒いやつが動いた。


 起き上がる。


 口元に浮かんだ笑みは、もう消えていた。


 黒いやつがこちらへ走ってくる。


 距離は十メートルほどしかない。


 後藤は無表情のまま照準を上げた。


 二発目。


 黒いやつの頭部が弾けた。


 血は飛ばなかった。


 肉も、骨もない。


 黒い煙だけが爆ぜるように広がった。


 頭を失った身体が前へ倒れ、吹き溜まりの縁へ転がった。


 後藤はすぐにボルトを操作した。


 二つ目の薬莢が雪へ落ちる。


 次弾を送り込む。


 黒いやつは倒れていた。


 頭があった場所から黒い煙が噴き出し、風に引きちぎられて流れていく。


 それでも胴体は残っていた。


 脚が動いた。


 後藤は銃を構えたまま見た。


 もう一度、動いた。


「まだか」


 一歩、前へ出た。


 さらに距離を詰める。


 銃口は下げない。


 黒い煙が吹雪の中へ流されていく。


 数メートル近づいたところで、後藤は止まった。


 倒れた胴へ照準を合わせた。


 三発目を撃った。


 黒い身体が跳ねた。


 胴の中央が崩れ、そこから一気に黒い煙が噴き出した。


 後藤は動かなかった。


 銃口を向けたまま見ている。


 脚が消え、胴も崩れ、最後に残った黒い塊まで吹雪の中へほどけるように消えていった。


 何も残らなかった。


 しばらくして、後藤は銃を下ろした。


 近づく。


 黒いやつが倒れていた雪の上には、血も毛もなかった。


 肉片も骨もない。


「……熊じゃねえな」


 後藤は立ち上がった。


 風が道路の上を雪ごとさらっていく。


 そのまま戻りかけて、足元へ視線を落とした。


 一つ目の薬莢はすぐに見つかった。


 拾ってポケットへ入れる。


 二つ目も少し離れた場所に落ちていた。


 あと一つ。


 後藤は最初に撃った辺りまで戻り、雪の上を探した。


 見当たらない。


「どご行った」


 しゃがみ込み、手袋で薄く積もった雪を払う。


 風が吹くたび、細かな雪がまた流れ込んでくる。


 数歩横へ移動したところで、吹き溜まりの縁に小さな金属が光った。


 後藤はそれを拾った。


 三つ目だった。


 三つともポケットへ入れる。


 もう一度、黒いやつが消えた場所を見る。


 三発撃った跡だけがある。


 獲物はない。


「……生ぎ物でねえな」


 後藤はライフルを持ち直し、エンジンをかけたままの軽トラックへ戻った。


 ドアを開けると、暖かい空気が顔へ当たった。


 運転席へ乗り込み、ライフルを置く。


 吹雪の向こうには、もう何もいなかった。


「もういい」


 軽トラックを発進させた。


 それきり、後藤が黒いやつを探して夜の稲沢地区を回ることはなかった。

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