第六話 夜の獲物
重機車庫で、稲沢地区の除雪関係者だけを集めた話し合いがあってから、黒いやつを退けたという話が少しずつ増え始めた。
楢山建設のローダーが雪壁まで押して追い払った。別の業者では、排土板で何度か叩いているうちに煙のようになって消えた。誰から誰へ伝わったのか分からない話も混じっていたが、同じ地区を走っていれば、そういう話は嫌でも耳に入ってくる。
「また楢山でやったってよ」
「どこで?」
「上の方だって。ローダーで押したらしい」
「やっぱ重機ならいけるんだな」
そういう会話が、朝の車庫や会社の詰所で普通に交わされるようになっていた。
高山が二度目に黒いやつと遭遇したのも、そんな頃だった。
*
額の傷は、もう触らなければ痛まなかった。
鼻も同じだった。
一度目の遭遇では、WA100の後ろを黒いやつに何度も殴られた。驚いた高山が自分で前へ出し、そのままスロープを落ちた。身体を前へ持っていかれ、フロントガラスへ顔から突っ込んだ。
鼻を折り、額を五針縫った。
あれ以来、高山は仕事中に煙草を吸わなくなっていた。
以前なら路線の途中で適当な場所を見つけ、一度ローダーを停めて煙草に火をつけていた。それがなくなった。休憩までは黙って雪を押す。
会社の同僚から「高山、最近真面目だな」と笑われても、「うるせえ」と返すだけだった。
その日の午前三時過ぎ、高山は国道から分かれた市道を、国道へ向かって除雪していた。
両側は田んぼだった。
雪は降っていたが、風はさほど強くない。前方にはすでに除雪を終えた国道が横切っている。あと百メートルもなかった。
高山はアクセルを緩めた。
道路の真ん中に、黒いものがいた。
正面からライトを浴びている。それなのに表面には何も見えない。毛並みも、目も、口もない。ただ輪郭だけでそこに何かが立っている。
高山は額の傷へ手をやった。
「……おめえか」
まだ向こうは動いていない。
このままバックすればいい。別の場所を先に除雪して、いなくなってから戻れば済む。
そうするように言われてもいる。
だが、傷へ触れた指先から、あの時のことが一気に蘇った。
割れるように痛んだ鼻。
額から流れた血。
何度も殴られてへこんだWA100の後ろ側。
次の瞬間、高山はアクセルを踏み抜いていた。
「このど畜生が!」
WA100が雪道を駆けた。
エンジン音が高くなり、速度計の針が二十を越え、二十五を過ぎ、そのまま三十の先まで上がった。
黒いやつが動いた。
「逃げんな!」
高山は緩めなかった。
低く構えた排土板が、そのまま黒いやつへ突っ込んだ。
激突した。
鈍い衝撃が車体を伝わり、黒い身体が前方へ吹っ飛んだ。
雪の上へ落ちる。
「おらぁ!」
高山は追いついた。
排土板でもう一度拾う。
黒いやつが雪の上を転がった。起き上がろうとすれば、そのまま押す。また転がる。
「この前はよくもやってくれたな!」
国道まで五十メートルほどだった。
高山は黒いやつを押し、転がしながら、そのまま国道へ向かった。
交差点が近づく。
黒いやつが排土板の前で大きく転がり、国道へ出た。
そこはすでに除雪を終えていた。左右へ延びる道路には雪がほとんどなく、黒い舗装が露出している。
高山はさらに前へ出て、黒いやつをその上まで押し出した。
「ここで終わりだ!」
アームを上げる。
排土板が持ち上がった。
黒いやつが舗装の上でもがいている。
その身体から黒い煙のようなものが立ち始めた。
「……あ?」
高山は一瞬だけ見た。
だが、まだ形は残っている。
「知るか!」
レバーを操作した。
排土板を叩き落とす。
ドンッ、と車体へ衝撃が返ってきた。
すぐに上げた。
「もう一発――」
そこまで言って、高山は手を止めた。
黒いやつの頭の輪郭が崩れていた。
片方の前脚が煙のようにほどけ、残った胴も端から黒く霞み始めている。
「なんだよ、おい」
高山は排土板を少し下げ、レバーを握り直した。
立つなら、もう一度叩く。
だが、黒いやつは起き上がらなかった。
身体をよじるたびに輪郭が崩れ、黒い煙が舗装の上から立ち上っていく。
やがて脚が消え、胴も崩れ、最後に残った黒い塊まで薄くなって消えた。
高山はしばらく前を見ていた。
「……終わり?」
何も出てこない。
直営の連中から聞いていた話とは違った。
何度も叩いたとか、二台で押さえ込んだとか、もっとしぶとかったような話ばかりだった。
高山は少し拍子抜けしたように鼻を鳴らした。
「なんだよ。あっけねえな」
それでも勝ちは勝ちだった。
携帯電話を取り出し、会社の社長へかける。
「社長。俺、やったぞ」
『何を?』
「黒いやつ」
電話の向こうが少し黙った。
『……おめ、何した?』
「ヒャクでぶっ飛ばした。国道まで押してって、最後に排土板で一発ぶったたいたら消えた」
『馬鹿、おめ、逃げろって言われてるべ!』
「もういねえよ」
『怪我してねえな? 機械は?』
「どっちも大丈夫だ。今回は俺の勝ちだ」
『勝ちとか負けとかじゃねえ! おめ――』
「じゃ、続きやるから」
『高山!』
電話を切った。
続けて、もう一人にかける。
前回の事故で、高山を最初に見つけて救急車を呼んだ同僚だった。
『もしもし』
「俺。この前の借り返したぞ」
『何の?』
「黒いやつ」
『……また出たの?』
「出た」
『逃げた?』
「なんで逃げるんだよ。今度は俺が勝った」
『おめ、何したんだよ』
「ヒャクでぶっ飛ばした。鼻と額とローダーの後ろの分、まとめて返した」
『馬鹿でねえの、おめ。怪我してねえんだな?』
「してねえよ。じゃあな」
『ちょっと待て、高山――』
切った。
高山は携帯電話をしまった。
しばらくして、胸ポケットへ手を入れた。
煙草の箱がある。
仕事中には、あの事故以来一本も吸っていなかった。
一本抜き、火をつける。
深く吸い込んだ。
「……うめえ」
煙を吐きながら、高山は満足そうに前を見た。
*
その夜、稲沢地区は吹雪になった。
山から吹き下ろす風が細かな雪を横向きに走らせ、強くなるたび道路の先を白く消した。
まだ除雪の入っていない道は、どこも同じ深さに積もっているわけではなかった。
吹きさらしの場所では雪が削られて薄くなり、舗装が透けそうなところもある。その少し先では、風に運ばれた雪が道路の片側へ寄り、膝近くまで盛り上がった吹き溜まりを作っていた。
後藤慎吾は、その中を一人で軽トラックを走らせていた。
勇には何も言っていない。
ワイパーが休みなく雪を払っている。
風が強まれば速度を落とし、視界が戻ればまた少し進む。
ヘッドライトの先に、突然黒いものが現れた。
後藤はブレーキを踏んだ。
軽トラックが止まる。
「……いたな」
吹き溜まりの手前。
道路の上に、黒いやつがいた。
後藤は運転席からしばらく見た。
吹雪が強まり、一度それを隠す。
数秒後、また姿が見えた。
逃げてはいない。
エンジンをかけたまま、後藤はライフルを手に取った。
ドアを開ける。
風と雪が一気に車内へ吹き込んだ。
外へ出てドアを閉める。
軽トラックのエンジン音が背後で鳴り続けていた。
黒いやつはこちらを向いていた。
後藤はその向こうへ目をやった。
民家はない。
走ってくる車もない。
さらに先には雪を被った土手がある。
後藤は少し横へ位置を変えた。
黒いやつも動いた。
こちらへ来る。
風が強くなった。
一瞬、姿が白い雪の向こうへ消えた。
次に見えた時には、さっきより近い。
二十メートルもなかった。
後藤は銃床を肩へ当てた。
黒いやつが止まった。
風だけが、その間を横切っていく。
やがて黒いやつが走った。
後藤は引き金を引いた。
銃声が吹雪の中へ響いた。
黒い身体が大きく崩れ、雪の上へ倒れた。
後藤の口角が、ほんの少しだけ上がった。
ボルトを引く。
空薬莢が雪へ落ちた。
押し戻す。
その時、黒いやつが動いた。
起き上がる。
口元に浮かんだ笑みは、もう消えていた。
黒いやつがこちらへ走ってくる。
距離は十メートルほどしかない。
後藤は無表情のまま照準を上げた。
二発目。
黒いやつの頭部が弾けた。
血は飛ばなかった。
肉も、骨もない。
黒い煙だけが爆ぜるように広がった。
頭を失った身体が前へ倒れ、吹き溜まりの縁へ転がった。
後藤はすぐにボルトを操作した。
二つ目の薬莢が雪へ落ちる。
次弾を送り込む。
黒いやつは倒れていた。
頭があった場所から黒い煙が噴き出し、風に引きちぎられて流れていく。
それでも胴体は残っていた。
脚が動いた。
後藤は銃を構えたまま見た。
もう一度、動いた。
「まだか」
一歩、前へ出た。
さらに距離を詰める。
銃口は下げない。
黒い煙が吹雪の中へ流されていく。
数メートル近づいたところで、後藤は止まった。
倒れた胴へ照準を合わせた。
三発目を撃った。
黒い身体が跳ねた。
胴の中央が崩れ、そこから一気に黒い煙が噴き出した。
後藤は動かなかった。
銃口を向けたまま見ている。
脚が消え、胴も崩れ、最後に残った黒い塊まで吹雪の中へほどけるように消えていった。
何も残らなかった。
しばらくして、後藤は銃を下ろした。
近づく。
黒いやつが倒れていた雪の上には、血も毛もなかった。
肉片も骨もない。
「……熊じゃねえな」
後藤は立ち上がった。
風が道路の上を雪ごとさらっていく。
そのまま戻りかけて、足元へ視線を落とした。
一つ目の薬莢はすぐに見つかった。
拾ってポケットへ入れる。
二つ目も少し離れた場所に落ちていた。
あと一つ。
後藤は最初に撃った辺りまで戻り、雪の上を探した。
見当たらない。
「どご行った」
しゃがみ込み、手袋で薄く積もった雪を払う。
風が吹くたび、細かな雪がまた流れ込んでくる。
数歩横へ移動したところで、吹き溜まりの縁に小さな金属が光った。
後藤はそれを拾った。
三つ目だった。
三つともポケットへ入れる。
もう一度、黒いやつが消えた場所を見る。
三発撃った跡だけがある。
獲物はない。
「……生ぎ物でねえな」
後藤はライフルを持ち直し、エンジンをかけたままの軽トラックへ戻った。
ドアを開けると、暖かい空気が顔へ当たった。
運転席へ乗り込み、ライフルを置く。
吹雪の向こうには、もう何もいなかった。
「もういい」
軽トラックを発進させた。
それきり、後藤が黒いやつを探して夜の稲沢地区を回ることはなかった。




