第三話 怒り
市から注意事項が出た翌々日の午前2時過ぎ、楢山建設のオペレーターが黒いものを見た。
集落から山側へ入る市道をローダーで除雪していた。公民館を過ぎ、古い農機具倉庫の前まで来たところで、作業灯の先に黒いものがいた。
オペレーターはローダーを止めた。
道路の真ん中にいる。
しばらく見ていたが、向こうから近づいてくる様子はなかった。
ゆっくり後退し、広いところまで戻った。そこで会社へ連絡し、続いて警察へ電話した。
場所を伝え、大きさや形を訊かれた。熊ではないのか、今もそこにいるのか、どちらへ動いたのかと訊かれ、分かる範囲で答えた。
最後に、安全な場所で待っていてほしいと言われた。
「待ってるんですか?」
『パトカーが向かいますので、そのまま待機してください』
「……はい」
エンジンをかけたまま待った。
雪は降り続いている。
フロントガラスの向こうを、ときどき別の除雪車の黄色い回転灯が通っていった。
パトカーが来たのは、それからだいぶ経ってからだった。
警察官にもう一度説明した。
どこにいたのかと訊かれ、ローダーで先導して現場へ戻った。
黒いものはもういなかった。
警察官は道路脇をライトで照らし、雪の上を調べ、何枚か写真を撮った。オペレーターはローダーの脇で待った。
ようやく終わった頃には、かなり時間を食っていた。
担当路線はまだ残っている。
「参ったな……」
運転席へ戻り、そこからまた除雪を始めた。
翌朝、その話は直営の車庫にも届いていた。
「楢山の人、昨日大変だったらしいぞ」
智也が缶コーヒーを開けながら言った。
「黒いやつ?」
黒沢が訊いた。
「んだ。警察さ電話したら、来るまでそこで待ってれって言われたんだと」
「どれくらい?」
「一時間だか二時間だか。来てからも場所案内したり話したりして、その間ぜんぜん除雪できねがったって」
譲が眉を上げた。
「うわ」
「そのあと残り全部やったらしいよ」
「俺なら呼ばねえ」
土田が言った。
「俺も嫌だ」
「電話した本人も、もう二度と嫌だってよ」
智也が笑った。
「そりゃそうだべ」
黒沢が煙草の煙を吐いた。
*
その夜、智也のところに出た。
午前3時を少し回った頃だった。
WA200で上野公民館の前を抜け、JAの資材倉庫へ向かっていた。
作業灯の先に、黒いものがいた。
「お」
智也はWA200を止めた。
道路の真ん中にいる。
近づいてくる様子はない。
智也は無線機を取った。
「黒いの出たぞ」
『どご?』
土田だった。
「上野の公民館の先。JA倉庫さ行く方」
『道路さいる?』
「真ん中」
譲の声が入った。
『んだらそっち後だな』
「んだな。学校裏先やるわ」
『了解』
智也は少し下がってからWA200の向きを変えた。
携帯電話を取り出し、夏樹へかける。
「もしもし。俺だ。上野の公民館の先に黒いの出た」
『はいはい。今は?』
「離れた。学校裏の方先やってくる」
『はい、了解。気ぃつけで』
「はいよ」
学校裏の路線を終わらせ、ほかの細い市道を二本片づけた。
それから上野公民館へ戻った。
黒いものはいなかった。
「いねえな」
そのまま残していた区間へ入った。
朝、車庫へ戻った智也はWA200から降りると、畳の部屋へ入ってストーブの前に座った。
「めんどくせえ」
「いねぐなってた?」
黒沢が訊いた。
「いねがった。けど順番めちゃくちゃだよ。あっちやって、こっちやって、また戻って」
「しょうがねえべ」
「分がってるよ。だから戻ったんだべ」
智也は缶コーヒーを開けた。
「毎日これだと嫌になるな」
*
次は祐介だった。
祐介のグレーダーは、前に大きなV型のプラウを付いていた。通常Vプラ。通常は路面から上げておき、路肩の雪を吹き飛ばす時に下げる巨大な排土板だ。
山手通りの製材所から国道に抜ける道には二度折れるクランクがある。
祐介は一つ目を曲がり、二つ目の角へ入った。
Vプラの先が角を抜ける。
作業灯がその先を照らした。
「あ」
黒いものがいた。
祐介はブレーキを踏んだ。
「黒いのいた。山手から入ったとこ」
『また出た?』
智也だった。
「うん。クランク曲がった先さいる」
『動いてる?』
「いや。道路さいるだけ」
土田が入った。
『んだら戻るしかねえな』
「そうする」
バックへ入れた。
前進で入ってきたクランクを、今度は逆に抜けていく。
祐介は後ろを振り返り、ミラーへ目を移した。
少し下がる。
ハンドルを切る。
戻す。
長い車体を角へ合わせ、さらに下がった。
ガンッ。
金属がひしゃげる嫌な音がした。
「あっ」
祐介はブレーキを踏んだ。
「……やった」
音のした前方を見ると、Vプラが当たり道路標識が折れて、雪の上へ傾いている。
無線を取った。
「やっちったっす」
『なにした』
「標識一本やった」
『なしてよ?』
「バックでクランク戻って、Vプラで引っ掛けた」
智也が笑った。
『黒いのじゃなくて、おめが壊したの?』
「俺っす」
『事故一件追加だな』
土田まで笑っている。
『そんたな事故のうちさ入らね。誰もが通る道だ』
譲が言うと、もっともらしく聞こえる。
その場では降りず、祐介は慎重にクランクを抜けた。
広いところまで戻ってグレーダーを止める。
夏樹へ電話した。
「夏樹さん、俺んどごにも出た。山手から入ったクランクの先」
『はい。今離れてる?』
「離れた。別のどご先やる。あと、戻るとき標識一本折った」
『怪我は?』
「ない。機械も大丈夫」
『んだら標識は明るくなってからだな』
「了解」
祐介は電話を切った。
「最悪だな……」
苦々しい顔で標識があった方向を見た。
*
雪は止まなかった。
夜中に除雪へ出て、朝に戻る。
道路が狭くなれば、昼はロータリーで雪壁を削り、ダンプで運ぶ。
夕方に帰って、また夜中に電話が鳴る。
『黒いの出た。JA倉庫の裏』
『気いつけれな』
しばらくして。
『俺んどごさもいる。旧保育所の先』
『またかよ』
『こっちはいねえ』
『そりゃよかったな』
無線でそんな声が飛ぶ夜もあった。
黒いものがいれば別の道へ行く。
あとで戻る。
まだいれば、また別のところをやる。
日中の排雪が続いた週には、畳の部屋で横になっている者が増えた。
ある日の午後、智也が排雪から戻ってくるなり畳へ座り込んだ。
「ああ、疲れた」
黒沢が窓の外を見た。
「今晩も降るぞ」
「やめでけれ」
「天気予報、夜ずっと雪だ」
「聞きたくねえ」
智也は缶コーヒーを開けた。
「何だあの黒いのよぉ。毎日毎日、道路さいやがって」
譲が笑った。
「また出たら避げればいいべ」
「避げるよ。避げるけど、また戻んのが腹立つわぁ」
智也は一口飲んだ。
「今度出たら排土板でぶったたいてやろがな」
「やってみれ」
黒沢が言った。
「嫌だよ。市で手出すなって言ってんだべ」
「今ぶったたくって言ったべ」
「言っただけだ」
辰雄が首を振った。
「オラおっかねぇ」
「辰雄さん、熊そんたに駄目が」
「駄目だ。熊なんか見たくもねえ」
「黒いやつ、熊じゃねえかもしれねえぞ」
「もっと嫌だべ、それ」
笑いが起きた。
辰雄も笑っていた。
*
数日後の昼、浩志は車庫の脇で国道除雪の樋口と会った。
「おう」
「お疲れさん」
樋口は缶コーヒー片手にグレーダーの点検をしていた。
「そっち、黒いやつ出てる?」
浩志が訊いた。
「全然」
「あれから一回も?」
「一回も見てねえ」
「国道さいねえの?」
「いねぇんだよなぁ」
樋口はコーヒーを一口飲んだ。
「あれ以来、国道に全然出ないから、夜中でも日中でもなにひとつ困ったことがないんだよなぁ」
「いいな」
「おめだぢ大変らしいな」
「毎日誰か見てる」
「そんな出んの?」
「出る。出ればそこ後回しにして別のどごやって、また戻ってこなきゃねえ」
「面倒くせえな」
「ほんとだよ」
樋口が笑った。
「国道来ればいいのにな」
「来なくていいよ」
「そりゃそうだ」
*
その晩、浩志のところにも出た。
午前2時を過ぎていた。
GD705は皆瀬川の堤防道路を南へ向かっていた。
両側は高い雪の壁に囲まれていた。
排土板の先で雪が巻かれ、壁に向かって流れていく。
前方の作業灯の中に、黒いものが現れた。
「またかよ」
浩志はGD705を止めた。
堤防道路の真ん中にいる。
少し待った。
動かない。
「しょうがねえな」
ブレードを上げた。
ここでは向きを変えられない。
バックへ入れ、来た道を戻り始めた。
黒いものが動いた。
「ん?」
こちらへ来る。
浩志はギアを上げた。
黒いものも速度を上げた。
「おいおい」
後ろを見る。
前を見る。
まだ来る。
四速へ入れた。
それでも追ってくる。
五速。
「しつけえな!」
後方を確認する。
雪壁へ寄りすぎれば危ない。
前を見ると、黒いものはまだ作業灯の中にいた。
「マジかよ」
六速へ入れた。
GD705が後ろ向きに速度を上げる。
全コマのチェーンが圧雪路を噛む。
身体をひねって後方を見る。
前を見る。
また後ろを見る。
堤防道路の先に、大きな交差点が見えてきた。
「あそこまで行けば……」
浩志は前を見た。
黒いものがいなかった。
「……どご行った?」
速度を落とした。
さっきまで確かに追っていた。
作業灯の届く先を見ても、何もいない。
浩志はそのまま交差点まで下がった。
少し待った。
出てこなかった。
交差点でGD705の向きを変え、橋を渡った。
そのまま土田の路線へ入り、回り込んで自分の担当路線の後半へ向かった。
後半を終わらせてから、さっきの堤防道路へ戻った。
黒いものはいなかった。
浩志はGD705を路肩へ止め、携帯電話を取った。
「夏樹くん、さっき俺んどごにも出た」
『黒いやつ?』
「うん。堤防」
『大丈夫だった?』
「大丈夫だけど、追っかけてきやがった」
『追ってきた?』
「交差点の手前まで。向き変えられねえから6速まで入れてバックしたよ」
『よくやるなあ』
「やりたくてやったんじゃねえよ」
浩志はフロントガラスの向こうを見た。
「もういねえから、残りやってる」
『はい、了解。気ぃつけでな』
「はいよ」
朝、車庫へ戻ると、智也が聞いた。
「六速で逃げだって?」
「んだがら。堤防で向き変えられねえんだもの」
「どごまで追ってきた?」
「交差点の手前までな。そこでいなくなった」
「なんだべな」
「知らね」
浩志は欠伸をした。
「もう出てくんなよ、ほんと」
*
だが、その夜も出た。
今度は辰雄だった。
町の中心部の公民館の裏手に、住宅に挟まれた細い市道がある。
道の奥には空き地があり、冬はそこへ雪を押し込んでいた。
辰雄はローダーで雪を押していった。
空き地へ入る。
そのまま奥まで押し込んだ。
少し下がり、残った雪をもう一度押した。
最後にローダーを下げ、ハンドルを切る。
空き地の中で切り返した。
ローダーの正面を、入ってきた道路へ向ける。
戻ろうとした。
「……え」
道路に黒いものがいた。
「嘘だべ……町中だぞ」
辰雄は無線機を掴んだ。
「出た! 黒いの出た!」
『どごだ?』
譲だった。
「公民館の裏! 奥の空き地!」
『道路さいる?』
「出口さいる!」
智也が入った。
『辰雄さん、出られる?』
辰雄は後ろを見た。
押し込んだ雪がある。
左右は民家と塀だった。
「駄目だ。出られねえ」
『無理して出るな。そのままいろ』
「分がってる」
黒いものは動かなかった。
こちらを向いていないように見えた。
顔がない。
目も鼻も見えない。
作業灯が当たっているのに、身体の凹凸さえ分からない。
前と後ろの区別もつかなかった。
それが動いた。
辰雄には、こちらを振り向いたのだと分かってしまった。
「うわあっ!」
背中がシートへ張りついた。
「こっち向いた! こっち向いたぞ!」
『辰雄さん、落ぢ着け!』
「こっち向いたって!」
『そのままいろ! 近づぐな!』
黒いものが一歩近づいた。
「来んな……」
辰雄の手が震えた。
「来んなって……」
子供の頃、猟師をしていた叔父に箱罠へ入った熊を見せられたことがある。
熊が入ったから見に来るか。
そう言われてついていった。
鉄の檻の中なら安全だと思っていた。
人間の姿を見た熊は、いきなり鉄格子へ身体を叩きつけた。
箱罠が揺れた。
もう一度。
爪を立て、格子へ噛みつき、また身体をぶつけた。
壊して出てくる。
辰雄は本気でそう思い、叔父の後ろへ隠れた。
帰り道で叔父が言った。
熊も怖いんだ。
逃げられないから、怖くて怒ってるんだ。
鉄格子へ何度も身体を叩きつける熊の姿だけは、それから何十年経っても忘れなかった。
黒いものが近づいた。
「来んなよ……」
もう一歩。
「来んなって言ってんだべ!」
無線から誰かの声がしている。
辰雄は前だけを見ていた。
「何なんだよ……」
黒いものがまた近づいた。
「毎日毎日……邪魔しやがって」
辰雄は作業機のレバーを握った。
排土板が上がりだした。
威嚇するかのように鋼鉄の板がローダーの天井より高く持ち上がる。
黒いものが真正面にいた。
アームと油圧シリンダーで視界が悪くなっているとしても。
顔は見えない。
目もない。
それは、こちらを見ていた。
辰雄はハンドルを握り直した。
「……上等だ、この野郎」
アクセルを踏み込んだ。
ローダーが前へ出た。
同時に、黒いものが走った。
「うおおおおおっ!」
互いの距離が一気に縮まった。
黒いものがローダーへ迫る。
辰雄はブレーキと同時にレバーを叩き込んだ。
一トンを超える排土板が、黒いものの頭上から振り下ろされた。
ドンッ――。
車体が揺れた。
黒いものが雪道へ潰れた。
「この野郎!」
アクセルを煽り排土板を上げる。
振り下ろす。
ドンッ。
「この野郎!」
また上げた。
叩きつける。
ドンッ。
「この野郎! この野郎!」
何度も叩いた。
黒いものの輪郭が崩れた。
脚が形を失った。
胴がほどけた。
黒い煙のようなものが作業灯の中へ立ち上った。
風に流されているのではなかった。
黒い身体そのものが煙になっていた。
輪郭が消えていく。
黒い煙が薄くなる。
やがて、何もなくなった。
「この野郎!」
辰雄はまだ排土板を振り下ろした。
ドンッ。
アクセルを煽りながら上げる。
ドンッ。
「この野郎っ!」
もうそこには何もいなかった。
排土板が雪道を叩くたび、白い雪が跳ねた。
何度目かで、辰雄の手が止まった。
「はぁ……はぁ……」
息が切れていた。
作業灯の先には、何度も叩かれた雪道しかない。
レバーを握った手が震えていた。
しばらくして、無線から声が聞こえていることに気づいた。
辰雄は無線機を取った。
「……辰雄です」
『辰雄さん? どうなった?』
智也だった。
「……やった」
『何?』
「俺、やったぞ」
『何した?』
辰雄は白い雪道を見つめた。
「あの黒いの――」
「ぶっ殺してやった」




