第六話 同じもの
雪壁の向こうに赤い光が見えた。
最初は雪に滲んだだけの光だったが、次第に強くなり、やがてパトカーが県道を走ってきた。
石田と黒沢は散布車の近くで待っていた。
志村たち三人は運転席後方のベッドスペースに入れてある。暖房の効いた車内に入ってから少し時間が経ち、ようやく身体の震えも収まり始めていた。
パトカーから二人の警察官が降りてきた。
まず目に入ったのは、道路上に横倒しになっているワゴンRだった。
一目で横転していることは分かる。
しかし近づくにつれ、二人とも歩みが遅くなった。
下になった助手席側だけではない。上を向いている運転席側のドアまで大きくへこみ、屋根も潰れている。ボンネットにも、何かを叩きつけたような深いへこみがいくつもあった。
「乗ってた人は?」
「あっちの散布車の中。三人いる。寒いから入れてる」
黒沢が答えた。
「怪我は?」
「本人らは大丈夫だって言ってるけど、一応見てやって」
一人の警察官が散布車へ向かった。
ドアを開けると、三人の若い男が狭いベッドスペースに身を寄せていた。
「三人とも、この車に乗ってた人?」
「はい」
「怪我は大丈夫?」
「たぶん。転んだときに打ったくらいで」
「ほかの二人も?」
二人も頷いた。
警察官は擦り傷などを確認した。少なくとも、その場で救急搬送が必要な状態には見えない。
「それで、何があったんです?」
志村は少し黙ってから答えた。
「俺ら、ここで配信してたんです。そしたら、真っ黒な熊みたいなのが出てきて……」
「熊?」
「熊かどうかは分かんないです。大きさは熊くらいだったけど、普通の熊には見えなくて。それがいきなり追いかけてきて、逃げてたら車に突っ込んで、ひっくり返して……そのあとも何回も車を叩いて」
警察官が外にあるワゴンRを見た。
「あれを?」
「はい」
「三人とも見たんですね?」
「見ました」
残る二人も頷いた。
「どんな動物でした?」
「だから……真っ黒なんです」
「熊も黒いですよ」
「そうじゃなくて」
志村は言葉に詰まった。
「なんて言えばいいんだろ。毛とか、顔とか、そういうのが分かんないくらい真っ黒で。光が当たっても、ずっと黒いっていうか……」
「暗かったからではなく?」
「街灯もあったし、スマホにも映ってます」
「映像があるんですか?」
「配信してたんで。途中でスマホ飛ばされたんですけど、配信は切れてなかったです」
警察官の表情が少し変わった。
「その映像、消さないでください。あとで確認させてもらいます」
「はい」
*
もう一人の警察官は、懐中電灯を手にワゴンRの周囲を調べていた。
近づいた途端、顔をしかめた。
「……何だ、この臭い」
黒沢たちが最初に近づいたときよりはいくらか薄くなっていた。それでもまだ十分に強い。
獣の体臭を濃くしたような臭いに、何かが腐ったような臭気が混じっている。
氷点下の空気の中でも鼻についた。
警察官は車体を照らした。
横転による損傷だけでは説明しにくい。
上を向いている側のドアにも深いへこみがある。屋根も何か所か押し潰され、ボンネットには大きな衝撃を受けた跡が残っていた。
割れたガラスや樹脂部品が、薄い圧雪の上に散らばっている。
ライトを路面へ向ける。
三人の靴跡が入り乱れていた。
その中に、大きな足跡がある。
人間のものではない。
ワゴンRの周囲を何度も動き回ったらしく、同じような跡がいくつも残っていた。
そして、そこから県道の先へ続いている。
散布車がやって来た方向とは反対だった。
「ちょっとこっち」
警察官が相方を呼んだ。
二人で足跡を追った。
道路の左右には高い雪壁が続いている。足跡はその間を県道に沿って進んでいた。
十数メートル。
さらに先。
そこで二人が止まった。
「……ここまでだな」
足跡がない。
懐中電灯を左右へ向ける。
雪壁を登った形跡はなかった。
壁面が崩れた場所もない。
反対側へ渡ったわけでもない。
そこまで確かに残っていた大きな足跡が、その先には続いていなかった。
「雪で消えたんですかね」
「でも、ここまでは残ってるな」
雪はちらつく程度だった。
二人は少し範囲を広げて探したが、続きを見つけることはできなかった。
足跡と雪壁を何枚か撮影する。
何かが突然消えた、などという話にはならない。
大型の動物がここにいて、何らかの理由で痕跡を追えなくなった。
現時点では、それ以上のことは分からなかった。
*
黒沢と石田からも話を聞いた。
「最初に見つけたのは?」
「私です」
石田が答えた。
「散布して走ってたら、前に車と人が見えたんで。事故だと思いました」
「その動物は見ましたか?」
「私はよく見てないです。車と人の方を見てましたから」
石田は曖昧に話を合わせることはしなかった。
見ていないものは、見ていない。
「黒沢さんは?」
「俺は見たよ。一瞬だけどな」
「熊でした?」
「それが分かんねえんだよ」
「大きさは?」
「成獣の熊くらいあったと思う」
「色は?」
「黒」
「熊も黒いですけど」
「そういう黒じゃねえんだよな」
黒沢は少し考えた。
「若いのらの向こうにいたんだけど、最初気づかなかったんだよ。暗いからじゃなくて、なんつうか……黒すぎて」
「形は熊でした?」
「そこまで聞かれても分かんねえよ。一瞬しか見てねえし。ただ、変なくらい真っ黒だった」
警察官はそれ以上無理に答えを求めなかった。
必要な連絡先などを確認し、何かあれば改めて話を聞くことを伝える。
「お仕事の途中ですよね」
「散布の途中」
「分かりました。こちらは大丈夫です。気をつけて作業してください」
黒沢と石田は散布車へ戻った。
ドアを閉めると、外の冷気と獣臭が遮られた。
石田が時計を見る。
「だいぶ遅れましたね」
「まあ、しゃあねえな。これも作業時間だべ」
「仕事中のことですから、そうでしょうね」
「ならいいな」
黒沢が少し笑った。
「黒沢さん、ちょっと嬉しそうですね」
「石田さんだって嬉しいべ」
「まあ……時間になるなら」
「ほら」
二人で笑った。
黒沢はスマートフォンを取り出した。
「夏樹に電話しとかねえとな」
数回の呼び出し音でつながった。
「黒さん、どうした?」
「今まで警察に捕まっててよ」
「何やったの?」
「俺じゃねえよ」
黒沢が笑った。
「事故見つけたんだ」
「事故?」
「県道で軽がひっくり返っててよ。若いの三人いて、警察来るまで止まってた」
「怪我人は?」
「大丈夫みてえだ。それで、その若いのら、熊みてえなのに襲われたって言ってんだよ」
電話の向こうが少し静かになった。
「熊に?」
「ああ。車もすげえことになってる」
「黒さんも見たんですか?」
「一瞬だけな。成獣の熊くらいあったと思う。真っ黒だった」
また短い間があった。
「……そうですか」
「それで散布、だいぶ遅れてる。これから残りやるから」
「分かりました。気をつけてください。洗車までやってたら日中の仕事に間に合わなくなるでしょうから、今日は洗車しないでそのまま帰っていいですよ。洗車は日中の仕事にするんで」
「分かった」
電話を切る。
「行くか」
「はい」
石田が散布車を発進させた。
黄色い回転灯を点滅させながら、散布車は中断していた担当路線へ戻っていく。
時刻はもう五時近かった。
助手席の黒沢はスマートフォンをポケットへ戻そうとして、ふと思い出した。
写真を開く。
警察が来る前に撮った一枚だった。
横倒しになったワゴンR。潰れた屋根。大きくへこんだドア。写真で見ても、ただの横転事故には見えない。
「これ、みんなにも送っとくか」
「今ですか?」
石田が運転しながら訊いた。
「ん?」
「まだ寝てる人もいるんじゃないですか」
黒沢が画面の時刻を見る。
「もう五時だべ」
「まだ五時前ですよ」
「まあ、寝てたら起きてから見るべ」
稲沢地区除雪のグループLINEを開く。
写真を一枚送った。
説明は付けなかった。
「写真だけですか?」
「うん」
「何の写真か分からないでしょう」
「気になったら聞くべ」
石田は小さく笑った。
散布車はそのまま県道を走っていく。
しばらく何の反応もなかった。
「やっぱり皆さん寝てるんじゃないですか」
「だべな」
黒沢も特に気にせず、スマートフォンを膝の上へ置いた。
ほどなく通知音が鳴った。
黒沢が画面を見る。
佐藤友也:なにこれ?
「智也起きてる」
「早いですね」
「あいつ朝早えからな」
すぐにまた届いた。
佐藤友也:事故?
黒沢は返信した。
黒沢:散布中に見つけた
すぐに既読がつく。
佐藤友也:これ横転だけじゃないべ
「写真だけで分かったってよ」
「見れば分かりますよ、あれは」
石田は前を見たまま答えた。
また通知音。
佐藤友也:何あったの?
黒沢は親指で文字を打った。
黒沢:若いの三人いて熊みたいなのに襲われたって
今度は少し間があった。
佐藤友也:熊に?
佐藤友也:この車やられたの?
黒沢:らしい
また少しして、
佐藤友也:黒さん見た?
黒沢は窓の外へ目を向けた。
ヘッドライトの先を、薄い圧雪路が流れていく。
あのとき、その光の端にいたものを思い出した。
黒沢:見た
送信する。
佐藤友也:熊だった?
黒沢は少し考えた。
黒沢:わからん
続けて、
黒沢:真っ黒だった
送った。
そのあと、友也からすぐには返信が来なかった。
黒沢もスマートフォンを膝へ置いた。
「なんて?」
石田が訊いた。
「熊だったかって」
「何て返したんです?」
「分かんねえって」
「そうですよね」
散布車は黄色い光を回しながら、まだ暗い県道を進んでいった。
*
黒沢と石田が去ったあとも、警察は現場に残った。
志村たちからさらに詳しく話を聞き、生配信の映像を確認した。
スマートフォンの画面の中には、確かに三人以外の何かが映っていた。
雪壁は白い。
道路も街灯も普通に映っている。
その中で、それだけが異様なほど黒かった。
毛並みが分からない。
顔の凹凸も判然としない。
街灯の光を受けても濃淡がほとんど生まれず、映像の中を立体感のない黒い形だけが動いているように見えた。
「これ、加工とかじゃないんだよね?」
「生配信です。見てた人もいます」
志村が答えた。
映像だけなら、何らかの細工を疑うこともできる。
だが、目の前には横倒しになったワゴンRがある。
圧雪の上には大型の動物らしき足跡が残っている。
車体には、まだ獣臭も残っていた。
映像の中では、黒いものがワゴンRへぶつかった直後、車体が大きく揺れている。
別の場面では、三人が車を挟んで逃げ回る中、何度も激しい衝撃音が響いていた。
警察官は途中で映像を止めた。
「……熊なのか、これ」
もう一人も画面を見ていた。
「大きさは、そのくらいには見えるけどな」
それ以上の答えは出なかった。
少なくとも、人間が三人を襲って車を壊した事件ではない。
現時点では大型の動物による被害として扱うほかなかった。
空が白み始めた頃、積載車が到着した。
作業員は横倒しになったワゴンRを見るなり眉をひそめた。
「ずいぶんやったな……」
車から降り、近づいていく。
「これ、横転だけじゃないですよね」
「動物に襲われたらしいです」
「動物?」
作業員がワゴンRへ近づいた。
数歩手前で顔をしかめる。
「うわ、くさっ」
黒いものが去ってからかなり時間が経っている。
臭いは少しずつ弱くなっていたが、車体の周囲ではまだはっきり分かった。
作業員は仕事に取りかかった。
横倒しになった車体へワイヤーを掛け、ウインチで慎重に引く。
ワゴンRがゆっくりと起き上がる。
金属を軋ませながら四輪が路面についた。
起こしてみると、その惨状はさらにひどく見えた。
左右のドアは歪み、屋根も潰れている。ボンネットには深いへこみが残り、窓ガラスもほとんど残っていない。
積載車の荷台を傾け、ワイヤーを掛け直す。
ウインチに引かれ、ワゴンRはゆっくりと荷台へ上がっていった。
*
夜が明けるにつれ、稲沢地区除雪のグループLINEにも少しずつ既読が増えていった。
起きた者から黒沢の写真を見て、その下に続く友也とのやり取りを読む。
事故車。
熊のようなもの。
黒沢も見た。
熊かどうかは分からない。
真っ黒だった。
それだけで、おおよそのことは分かった。
黒沢と石田が残りの散布を終え、重機車庫へ戻ったのは七時半近くになってからだった。
普段なら散布車の洗車まで終えている時間だったが、この日は夏樹に言われた通り、洗車せず洗車機の近くへ置いた。
黒沢はそのまま一度家へ帰った。
石田は帰らない。
家が遠いため、散布のある日は朝食と昼食の弁当を持ってきている。畳の部屋へ上がり、テーブルに弁当を広げて遅い朝食を食べ始めた。
やがて譲が出勤してきた。
「おはようございます」
「おはよう」
譲は上着を脱ぎながら石田を見た。
「石田さん、今日遅かったの?」
「うん。ちょっとね」
「LINEのやつ?」
「そう。あれで警察に話聞かれてたから」
「へえ」
譲はそれ以上聞かなかった。
すでに写真も、その後のやり取りも見ている。
その後も一人、また一人と出勤してきた。
畳の部屋にはいつものようにテレビがついている。天気予報を眺める者もいれば、座布団に座ってスマートフォンを見る者もいた。
黒沢も家で朝食を済ませて戻ってきた。
当然、今朝の話題はグループLINEに送られた写真だった。
「黒さん、あれマジで熊にやられたの?」
「若いのらはそう言ってた」
「熊が軽ひっくり返すの?」
「知らねえって。警察に聞けよ」
同じ説明を何度もさせられた黒沢が、少し面倒そうに答える。
「黒さんも見たんだべ?」
「見たってLINEに書いたべ」
「どのくらいだった?」
「普通の熊くらい」
「熊だったんじゃねえの?」
「だから分かんねえって」
八時を少し過ぎた頃、浩志が出勤してきた。
「おはようございます」
「おはよう」
「おせえぞ、浩志」
「まだ八時過ぎだべ」
いつものように最後だった。
浩志も今朝のLINEは読んでいた。
起きてから通知を確認し、黒沢が送った写真も、その下に続いていた友也とのやり取りも見た。
返信はしていない。
だが、何があったのかはだいたい分かっている。
だから上着を脱いで座ると、事故のことではなく黒沢が見たものについて訊いた。
「黒さん」
「ん?」
「朝のLINEのやつだけど」
「ああ」
「見たやつ、本当に真っ黒だった?」
「んだ」
「どのくらい?」
「だから熊くらいだって。成獣の」
「形は?」
「よく分かんねえ。暗かったし、一瞬だったから。ただ、黒かった。変なくらい」
浩志は少し黙った。
それからスマートフォンを取り出した。
「ちょっと待って」
YouTubeを開く。
数日前に見た『怪異観測室』の動画を探し、問題の場面まで進める。
雪壁に挟まれた県道。
その中を動く、異様に黒いもの。
浩志は画面を黒沢へ向けた。
「黒さん見たのって、こいつ?」
黒沢が覗き込む。
それまで別の話をしていた者たちも、何となく浩志のスマートフォンへ目を向けた。
黒沢はしばらく映像を見た。
「……ああ」
「こいつ?」
「こんな感じだった。たぶん同じだ」
浩志は動画を止めた。
「俺が前に見たのも、こいつだと思う」
「浩志も見たことあんの?」
「一回だけ。もっと小さかったけど」
夏樹も画面を覗き込んだ。
「俺がパトロールのとき見たのも、たぶん同じですね」
黒沢が夏樹を見る。
「なつきも見たのか」
「はい。俺が見たのも子熊くらいでしたけど」
「俺が今朝見たのは、そんな小さくなかったな。普通の熊くらいあった」
浩志と夏樹が以前見たもの。
怪異観測室の動画に映ったもの。
そして今朝、黒沢が見たもの。
大きさは違う。
それでも三人が説明する姿は、よく似ていた。
しかも今回は、潰されたワゴンRまで残っている。
「……熊じゃねえよな、これ」
誰かが言った。
すぐには誰も返さなかった。
黒沢はポケットから煙草の箱を出した。
蓋を開ける。
一本も入っていなかった。
「あれ。ねえ」
箱を軽く振ってみる。
やはり空だった。
友也が笑った。
「黒さん、もう吸ったの?」
「現場で吸いすぎたみてえだ」
「何本吸ったんだよ」
「知らね」
警察を待っている間も、事情を聞かれている間も、黒沢は何度も煙草に火をつけていた。
空になった箱を潰す。
「ともや、一本くれ」
「昨日買っとけよ」
「忘れだんだよ。一本くれ」
「しょうがねえな」
友也は自分の箱から一本抜き、黒沢へ差し出した。
「ほら」
「ありがと」
黒沢は受け取った一本を、向きも確かめずそのまま口にくわえた。
「まあ、警察は熊だと思ってるみてえだけどな」
ライターを取り出し、先端へ火をつける。
一度吸い込んだ。
妙な臭いがした。
「……ん?」
黒沢が顔をしかめる。
友也が黒沢の口元を見た。
一瞬の間があって、吹き出した。
「黒さん、それ逆だ」
「は?」
黒沢が煙草を口から外す。
火をつけたのはフィルターだった。
先端が黒く焦げ、細い煙を上げている。
「……最悪だ」
畳の部屋に笑いが起きた。
「黒さん、動揺してんじゃねえの?」
「してねえよ」
「してなきゃ逆に火つけねえべ」
「ともや、おめ逆に渡したべ」
「人のせいにすんなよ」
「もう一本くれ」
「やだよ」
「一本くらいいいべ」
「今の一本無駄にしたの、黒さんだべ」
「ケチくせえな」
さっきまで重かった空気が、いつもの畳の部屋へ戻っていく。
友也は笑いながら、結局もう一本を黒沢へ差し出した。
「ほら。今度はちゃんと見てから吸えよ」
「分かってる」
黒沢は受け取った煙草の向きを確かめた。
それを見て、また笑いが起きた。
浩志も笑った。
それから、手にしていたスマートフォンへ目を落とした。
画面には『怪異観測室』の動画が止められたままになっている。
雪壁の間にいる、黒いもの。
浩志は画面を消し、スマートフォンをポケットへ戻した。
――第三章 了




