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稲沢除雪隊〜黒い獣〜  作者: 只野屍
第三章 黒い獣
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18/33

第五話 生配信

第五話 生配信


 仙台を出たのは、朝の七時を少し過ぎた頃だった。


 三人を乗せたワゴンRは、東北自動車道を北へ向かっていた。


 年式は古い。中古で買った四輪駆動車だった。


 タイヤはスタッドレスではない。普通タイヤだ。


 だが、志村たちはそれほど問題だとは思っていなかった。


「四駆だし、チェーンもあるし。大丈夫っしょ」


 出発前に志村がそう言うと、残る二人も特に異論はなかった。


 ゴムチェーンは一組だけ。


 四輪駆動なのだから四輪全部に必要なのではないか、などと考えた者はいない。必要になったら前輪二本に巻けばいい。それで雪道は走れる。


 三人とも、その程度の認識だった。


 目的地は秋田県湯澤市稲沢地区。


 数日前からネットを騒がせている『怪異観測室』の動画を見て、行くことを決めた。


 真冬の稲沢地区に現れる黒い何か。


 怪異観測室が撮影した映像は爆発的に拡散され、CGだ、本物だ、自作自演だと議論が続いている。


 なら、自分たちは生配信でやればいい。


 何か出れば、その瞬間を視聴者全員が見ることになる。


 単純な発想だった。


「ナビ、これでいいんだよな?」


 助手席の男がスマートフォンを見た。


「それが一番近いんだろ?」


「距離はな」


 秋田方面へ高速道路を乗り継いで向かうルートも表示されている。


 そちらの方が道路は走りやすいが、距離だけを見れば遠回りになる。


「こっちの方が近いじゃん」


 志村が選んだのは、古川から鳴子方面を抜け、山を越えて湯澤市へ向かうルートだった。


「高速代も安くなるし」


「じゃ、それで」


 それだけで決まった。


     *


 古川で高速道路を降りた。


 鳴子方面へ向かうにつれ、景色が変わっていった。道路脇の雪が増える。仙台ではまず見ることのない量だった。


「おお、雪すげえ」


「これまだ宮城?」


「まだ宮城」


「もう秋田みたいじゃん」


「秋田を何だと思ってんだよ」


 三人はまだ笑っていた。


 やがて道路にも雪が目立ち始めた。


 そこでワゴンRを安全な場所へ停め、ゴムチェーンを出した。


「これ前でいいんだよな?」


「四駆だから前でいいんじゃね?」


「たぶん」


「たぶんかよ」


「四駆なんだから大丈夫だって」


 説明書をまともに確認する者はいなかった。


 前輪二本にゴムチェーンを巻き、再び走り出した。


 山間部を抜け、秋田県へ入る。


 雪の量はさらに増えた。それでも道路はきちんと除雪されている。想像していたより走りやすい。


「意外と普通に走れるじゃん」


「四駆だからな」


「チェーンもあるし」


 自信だけは増していった。


 やがて湯澤市へ入り、国道398号線を稲沢地区へ向かう。


 道路の両側に高い雪壁が続き始めた。


「これやば」


「車より高いぞ」


「撮っとけ、撮っとけ」


 助手席からスマートフォンが向けられた。


 白い壁の間を、ワゴンRが走っていく。


「夜ここ走るんだよな?」


「そのために来たんだろ」


「黒いやつ出たらどうする?」


「逃げる」


「この車で?」


「四駆なめんなって」


 三人が笑った。


 昼間の雪壁は、珍しい観光風景でしかなかった。


     *


 稲沢地区へ入ってから、三人は怪異観測室の動画を何度も見返した。


「あ、ここじゃね?」


「違うだろ」


「いや、この橋そうじゃん」


「動画戻して」


 スマートフォンと窓の外を交互に見る。


 怪異観測室の二人が撮影した場所を実際に走っている。それだけで三人のテンションは上がった。


 そして昼。


「あった!」


 助手席から声が上がった。


 道路沿いに、大きく『佐藤養蔵』と書かれた看板が見えてきた。


「ここじゃん!」


「マジで同じ店じゃん!」


「ほら、動画出せって」


「同じだって。看板そのまんまじゃん」


 駐車場へワゴンRを入れる。


 三人は車を降りると、店の看板を見上げた。


「ここ拓海が来たとこだろ?」


「そうそう。ここでうどん食ってた」


「完全に聖地巡礼じゃん」


 志村がスマートフォンを取り出した。


「これ配信しようぜ」


「今から?」


「いいじゃん。どうせ夜もやるんだし」


「昼から怪異関係ねえじゃん」


「怪異観測室の聖地巡礼なんだから関係あるだろ」


 自撮り棒にスマートフォンを取り付け、その場で配信を始めた。


 少し待つと、視聴者が入り始める。


「はい、どうもー。秋田県湯澤市の稲沢地区まで来てます。で、今いるのがここ」


 志村がスマートフォンを自分たちから店へ向けた。


 画面いっぱいに『佐藤養蔵』の看板が入る。


「なんと、怪異観測室の二人が来てたうどん屋です」


《マジで秋田いるの?》


《行動力だけはある》


《そこ動画に出てた店じゃん》


《聖地巡礼で草》


「そう。完全に同じ店です。とりあえずここで昼飯食います」


「拓海が食ってたやつ食う?」


「値段見てからな」


「そこケチるなよ」


 三人は笑いながら店へ入った。


 志村は配信を切らなかった。


 店内へ入っても自撮り棒を持ったまま、辺りへカメラを向ける。


「うわ、広っ」


「結構でかい店じゃん」


「怪異観測室どこ座ってたっけ?」


「知らねえよ。動画見れば分かるんじゃね?」


 昼時の店内には、ほかにも客がいる。


 志村が何気なく客席へスマートフォンを向けたところで、近くにいた店員が気づいた。


「すみません。撮影されてますか?」


「はい。配信っす」


「ほかのお客様もいらっしゃいますので、店内での撮影はちょっと……」


「あ、ダメなんすか?」


「ほかのお客様が映ってしまいますので」


 志村はスマートフォンを自分の方へ向けた。


「じゃあ、俺らだけなら大丈夫ですか?」


「お料理を撮るくらいでしたら構いませんけど、ほかのお客様や従業員が映らないようにお願いします」


「あ、分かりました。人は映さないんで」


 店員が離れていく。


 志村は自撮り棒を下げ、カメラに自分の顔だけを入れた。


「怒られました」


「そりゃ怒られるだろ」


「怒られてねえよ。注意されただけだろ」


 コメント欄にもすぐ反応が出た。


《先に許可取れよ》


《普通に迷惑》


《店員さん優しい》


《こういうとこだぞ志村》


「うるせえな。もう人映さないから」


「お前が勝手に撮り始めたんだろ」


「分かったって」


 三人は席についた。


 志村は自撮り棒を縮め、スマートフォンをテーブルの端に置いた。レンズは三人だけが入る方向へ向ける。


 配信はそのままだった。


 メニューを開く。


「あった、これだ」


「何?」


「怪異観測室が食ってたやつ」


 天ぷらの付いた三段せいろを指差す。


「これこれ。動画で拓海が食ってたやつ」


「……高くね?」


「マジか」


「うどんだぞ?」


 志村が別のページを見る。


「あ、これでいいわ」


「何?」


「かけうどん。千円しない」


「俺もそれでいい」


「じゃあ俺も」


《同じの食えよ》


《聖地巡礼の意味ないじゃん》


《怪異観測室は一番高いやつ食ってたぞ》


《金欠三人組》


「うるせえな。昼飯にそんな出せるかよ」


「うどんだからな」


「そう。うどんだぞ」


 三人で頷いていると、注文を取りに店員が来た。


 志村はスマートフォンが店員を映さないよう少し向きを変えた。


「かけうどん三つで」


「はい。かけうどん三つですね」


「あ、すいません。ここってラーメンとかないんすか?」


「ラーメンですか?」


「はい」


「ああ、それでしたら、ここからもう少し行ったところに別館があるんですけど、そちらで稲河中華そばを出してますよ」


「マジっすか」


「はい」


 志村が二人を見る。


「じゃあ夜そこ行こうぜ」


「いいじゃん」


「ラーメンあるならそこだな」


 店員が離れると、一人が笑った。


「うどん屋来てラーメンあるか聞く奴いる?」


「だってラーメン食いたいじゃん」


「だったら最初からラーメン屋行けよ」


「ここは怪異観測室が来てたから来たんだよ」


「まあ、それはそう」


 しばらくして、三人分のかけうどんが運ばれてきた。


 店員が離れてから、志村はスマートフォンを器へ向けた。


「来ました。稲河うどん」


《地味》


《天ぷらは?》


《三段せいろ食えよ》


「天ぷら天ぷらうるせえよ」


「映えねえな」


「かけだからしょうがねえだろ」


 志村が箸を取った。


「じゃあ、いただきます」


 麺をすすった。


「……うま」


「どう?」


「普通にうまい」


「それだけ?」


「じゃあお前食レポしてみろよ」


 隣の一人も食べる。


「……つるつるしてる」


「見りゃ分かるわ」


「じゃあお前」


 もう一人も口へ運んだ。


「もちもち?」


「なんで疑問形なんだよ」


《食レポ下手すぎ》


《つるつるもちもち》


《語彙力ゼロ》


《冷たいの食った方がいいぞ》


 志村がコメントを見た。


「冷たいの食えって言われてるぞ」


「無理。外あんな雪なのに冷たいうどん食いたくねえ」


「俺も温かいのでいいわ」


「だよな」


 三人には、怪異観測室の拓海のような食レポはできなかった。


 麺がどうだ、出汁がどうだと言葉を探してみても、結局出てくるのは「うまい」「つるつるする」程度だった。


 それでも三人とも箸は止まらず、最後まできれいに食べた。


「ごちそうさまでした」


 志村が空になった器を映す。


「というわけで、怪異観測室と同じ店でした」


「食ったもの全然違うけどな」


「店は同じだからいいんだよ」


《次は黒いやつ探せ》


《何しに秋田まで来たんだよ》


《夜も配信する?》


 志村はそのコメントを見つけた。


「あ、そうそう。今日の夜、また配信するから」


 隣の一人が画面へ顔を寄せる。


「こっからが本番だからな」


「そう。今日はあの黒いやつが出た場所まで行く予定なんで。何時になるかまだ分かんないけど、夜になったらまた配信します」


《マジで行くの?》


《熊出るぞ》


《やめとけ》


《怪異観測室の二番煎じ》


「二番煎じじゃねえって。向こうは動画だろ? 俺らは生でやるから」


「何か出たら、その場で全部映るからな」


「そういうこと。次が本番だから、通知入れといてくれよな」


《見るわ》


《絶対やれよ》


《何も出ないに一票》


《警察の世話になるなよ》


「ならねえよ」


 志村は笑った。


「じゃあ夜、また配信するんで。見てくれよな」


 そこで配信を終了した。


     *


 昼飯を食べ終えた。


 問題は、そのあとだった。


 夜まで何もすることがない。


 稲沢地区をしばらく走り、怪異観測室の動画と見比べながら何か所か見て回った。


「ここじゃね?」


「雪壁しか映ってないから分かんねえよ」


「夜になったら全部同じに見えそう」


「つーか、まだ一時過ぎじゃん」


「夜まで何時間あんだよ」


 ワゴンRの中で、三人ともスマートフォンをいじり始めた。


 しばらくして助手席から声が上がった。


「ドンキあるじゃん」


「どこ?」


「横手」


「近い?」


「……三十何キロ」


「全然近くねえじゃん」


「でも他にやることなくね?」


 志村が自分のスマートフォンから顔を上げた。


「ドンキ行く?」


「秋田まで来て?」


「暇じゃん」


「まあ、ここで何時間もいるよりいいか」


「行こうぜ」


 それだけで決まった。


     *


 横手市まで三十キロ以上。


 雪道を走れば、それなりに時間がかかった。それでも、何時間も車内で待っているよりはましだった。


 ドン・キホーテに着く。


「結局ドンキかよ」


「仙台にもあるけどな」


「秋田まで来てドンキ」


「暇なんだからしょうがねえだろ」


 店内を目的もなく歩き回った。


 菓子を見る。カー用品を見る。スマートフォン用品を見る。ふざけてサングラスを掛けて写真を撮る。


 香水のテスターを使った一人に、


「くっさ!」


「つけすぎだって!」


「車乗んな、お前」


「ひでえ」


 黒い怪異を追って秋田まで来た人間とは思えない時間の潰し方だった。


 だが、三人にはそれでよかった。


 外へ出た頃には、冬の日はかなり傾いていた。


「そろそろ戻る?」


「腹減った」


「ラーメン行こうぜ」


「ああ、別館な」


 三人は再び稲沢地区へ向かった。


     *


 教えられた別館へ着いた頃には、すっかり暗くなっていた。


「ほんとにラーメンあるじゃん」


 三人とも稲河中華を注文した。


 出てきた丼から湯気が立つ。透き通ったスープを、志村が一口飲む。


「……うまい」


「うん」


 麺をすする。


「うまいけど」


「何?」


「なんか優しいな」


「あー」


「分かる」


 もう一人もスープを飲んだ。


「俺、もっとガツンとしたの想像してた」


「ニンニク欲しくね?」


「俺、味噌ラーメンみたいなの想像してたわ」


「中華そばって言ってただろ」


「でもラーメンって聞いたら、もうちょっとこう……」


「濃いやつ?」


「そう」


 それでも三人とも完食した。


 不味いわけではない。ちゃんとうまい。


 ただ、普段から濃い味のラーメンやファストフードを好んで食べている三人には、少し物足りなかった。


 店を出て間もなく、志村が言った。


「なんか腹減ってね?」


「今食ったばっかだろ」


「でも分かる」


「コンビニ寄る?」


「寄ろうぜ」


     *


 カップラーメン。


 菓子パン。


 ポテトチップス。


 ペットボトルの飲み物。


 三人はそれらを買い込んで、コンビニの駐車場へ停めたワゴンRに戻った。


 エンジンはかけたまま。暖房を効かせる。外とは別世界のように暖かかった。


「何時からやる?」


「十時くらいでよくね?」


「まだ時間あるな」


 志村はカップラーメンをすすった。


「ちょっと寝る?」


「それな」


「一時間くらい」


「絶対起こせよ」


「お前もアラームかけろって」


 三人ともスマートフォンを操作した。


 仙台から長い距離を走ってきた。古川から鳴子を抜け、雪の山道を走った。昼には稲沢地区を回り、そこから横手まで往復した。


 腹も満たされた。


 暖房の効いた車内は暖かい。


 眠くならない理由がなかった。


 シートを倒す。


 話し声が減る。


 やがて、三人とも眠った。


     *


 志村が目を覚ました。


 薄暗い車内。暖房の風。エンジンのかすかな振動。


 何となくスマートフォンを手に取った。


 画面が点く。


 午前二時四十三分。


「……は?」


 もう一度見る。


「おい」


 助手席の肩を揺する。


「起きろって」


「……何」


「二時四十三分」


「は?」


「もう三時なるぞ」


 後部座席でも一人が身体を起こした。


「マジ?」


「寝すぎた」


「アラームは?」


「知らね」


 三人ともしばらくぼんやりしていた。


「どうする?」


「今日やめる?」


 志村はフロントガラスの向こうを見た。


 コンビニの駐車場は明るい。その先には、雪に覆われた夜がある。


「……いや」


 シートを起こした。


「逆に、この時間の方がよくね?」


「何が?」


「出そうじゃん」


 一瞬、間があった。


「……それはある」


「人もいないし」


「じゃあ行くか」


 誰も止めなかった。


     *


 午前三時を過ぎてから、生配信を始めた。


 自撮り棒の先にスマートフォンを取り付ける。


 三人の顔が画面に収まった。


「はい、どうもー。現在午前三時過ぎです。今日は秋田県湯澤市の稲沢地区に来ています」


 志村の声は、ついさっきまで寝ていた人間とは思えないほど明るかった。


 配信開始を待っていた者もいたのだろう。昼間より明らかに速い勢いで視聴者が入ってきた。


《やっと始まった》


《遅すぎ》


《待ってたぞ》


《昼に夜やるって言ってたやつか》


《秋田!?》


《怪異観測室のとこ?》


「そう。遅くなってごめん。ちょっと仮眠するつもりが普通に寝過ごした」


「夜どころか深夜三時だからな」


「むしろこっちの方が本番っぽいだろ」


《寝過ごしてて草》


《本当に行くのかよ》


《熊出るぞ》


《やめとけ》


「昼の配信でも言ったけど、今日はあの黒いやつを探します。俺らはライブだから。何か出たらリアルタイムです」


《パクリで草》


「パクリじゃねえから」


《警察の世話になるなよ》


 昼間にもあったコメントが流れた。


 志村は笑った。


「だから、ならねえって」


 三人はまだ、その言葉を冗談として笑っていた。


 しばらく車内から配信した。


 それから場所を変え、何度か車外へ出た。


 雪はちらつく程度だった。風も強くない。


 雲の切れ間から月明かりが差し、雪に覆われた周囲は思っていたほど暗くない。街灯のない場所でも、道路と雪壁の形くらいは分かった。


「さっむ!」


「マジで寒い!」


「手痛え」


「仙台と全然違うわ」


 白い息を吐きながら騒ぐ。


 だが、何も出ない。


 三十分。一時間。


 移動しては停める。外へ出る。また移動する。


 視聴者は普段より明らかに多かった。しかし、肝心の黒いものは現れない。


《何もいねえじゃん》


《帰れ》


《怪異観測室のパクリ》


《志村!うしろうしろ!》


「またそれかよ」


 志村が笑った。


「志村うしろうしろ、もういいから」


《志村うしろ》


《後ろ!》


「はいはい」


「お前、名前が悪いんだよ」


「俺のせいじゃねえだろ」


 三人は笑った。


     *


 四時が近づいていた。


 三人は県道沿いの、道路の左右に高い雪壁が続く場所でワゴンRを停めた。


 街灯はある。ただし間隔は広い。


 路面は薄い圧雪に覆われ、轍はほとんどない。細かな雪が、街灯の下を静かに落ちていた。


「ここ、雰囲気よくね?」


「めっちゃそれっぽい」


 三人が外へ出た。


 志村は自撮り棒を伸ばした。


「現在、もうすぐ午前四時です」


《まだやってたのか》


《寒そう》


「寒い。普通に帰りたい」


「お前が来ようって言ったんだろ」


「でも何も出ねえな」


《志村うしろ》


「はいはい」


《うしろ》


《後ろなんかいる》


「もう騙されねえから」


《マジで後ろ》


《黒いのいる》


《志村!!》


「しつこ――」


 隣の一人が笑うのをやめた。


「……志村」


「何?」


「後ろ」


「だからもういいって」


「違う」


 声が低かった。


「マジで」


 志村が振り返った。


 道路の上に、何かがいた。


「……え?」


 黒かった。


 街灯の光が届いている。


 月明かりもある。


 周囲の雪は白い。


 なのに、それだけが何の光も返さない。


 黒いというより、そこだけが塗り潰されているようだった。


 陰影もない。どちらが前なのかさえ分からない。


 それでも三人とも、はっきり分かった。


 こっちを見ている。


 コメントが猛烈な勢いで流れ始めた。


《いる》


《いるいるいる》


《怪異観測室のやつ》


《ガチ?》


《逃げろ》


《志村逃げろ》


 志村の顔から笑みが消えた。


「おい」


「車乗ろう」


 黒いものが動いた。


「乗れ!」


 三人が一斉にワゴンRへ走った。


 黒いものも動いた。


「早い! 早いって!」


「開けろ!」


「開いてる!」


 志村が運転席へ回る。


 間に合わなかった。


 黒いものがワゴンRへ突っ込んだ。


 ドンッ!!


 軽自動車の車体が横へ押し飛ばされた。


「うわっ!」


 三人が雪の上へ転がる。


 志村は自撮り棒を握ったままだった。


 ワゴンRの片側が浮く。車体が傾いた。


 一瞬だけ踏みとどまる。


 そして重心が越えた。


 ドンッ!


 助手席側を下にして、ワゴンRが横倒しになった。


「嘘だろ……」


 志村が立ち上がった。


「何だよ、あれ……」


 黒いものがいる。


 横を見る。


 雪壁。


 反対側も雪壁。


 昼間、車より高いと笑いながら撮影した白い壁が、今は逃げ道を塞いでいた。


 簡単に登れる高さではない。除雪で削られた面は急で、手をかけても崩れるだけだった。


「向こう!」


 三人が横倒しのワゴンRの反対側へ回る。


 黒いものが追う。


「来る!」


「逆! 逆!」


 三人が戻る。


 横倒しになった軽自動車一台を挟んで、黒いものから逃げる。


「どこ!?」


「向こう!」


「見えねえ!」


 ガンッ!


 ワゴンRが揺れた。


 三人の動きが止まる。


 ガンッ!


 また。


 黒いものが車体を叩いた。


 ガンッ!


 ガンッ!


 ガンッ!


「うわっ!」


 ドアがへこむ。


 鉄板が潰れる。


 ガンッ!


 窓ガラスにひびが走った。


 ガンッ!


 砕けた。


「何してんだよ!」


「知らねえよ!」


 ガンッ!


 ガンッ!


 車体が衝撃のたびに揺れる。


 屋根がへこむ。フェンダーが潰れる。樹脂部品が千切れて飛んだ。


「来る! 回れ!」


 三人が走る。


 黒いものがワゴンRの前を回る。


「逆!」


「待って!」


「早く!」


 志村は自撮り棒を握り締めていた。


 配信していることなど、もう頭から消えていた。


 腕が下がる。


 スマートフォンのフロントカメラが、斜め下から志村の顔を映していた。


 画面いっぱいに顎と口元が映る。


 白い息。


 乱れた呼吸。


 恐怖で見開かれた目だけが、画面の外を追っている。


「やばい……やばい、やばい……」


《志村逃げろ》


《これガチ》


《顔しか映ってない》


《後ろ!!》


《車やばい》


《警察呼んだ》


 志村は一つも読んでいなかった。


「来た!」


 仲間が叫んだ。


 黒いものが、ワゴンRの前から回り込んできた。


 志村が振り向く。


 黒い輪郭が大きく動いた。


 何かが横薙ぎに迫る。


「うわっ!」


 志村は反射的に両手を前へ出した。


 手にしていた自撮り棒が身体の前へ突き出された。


 バキッ!


 強い衝撃。


 自撮り棒が弾かれた。


 先端に固定されていたスマートフォンが外れた。


 映像が回転する。


 夜空。


 街灯。


 雪。


 黒い何か。


 雪壁。


 スマートフォンが圧雪の上へ落ちた。


 一度跳ねる。


 そのまま滑り、道路脇の雪壁に当たって止まった。


 画面は上を向いていた。


 夜空。


 細かな雪だけが映っている。


 配信は続いていた。


『志村!』


『こっち!』


『待って!』


 足音。


 荒い息。


 ガンッ!


 ガンッ!


 ガンッ!


 ワゴンRを殴りつける音。


 金属が潰れる。


 ガラスが砕ける。


『回れ!』


『そっち行った!』


『もう無理だって!』


 ガンッ!!


『うわっ!』


『車動いた!』


『嘘だろ!』


 横倒しになったワゴンRが、雪の上をずれた。


『来る!』


 三人がまた走る。


 スマートフォンには何も見えない。


 ただ夜空と、降ってくる雪だけ。


『どこ行けばいいんだよ!』


 左右には雪壁。


 前後へ走っても、黒いものの方が速い。


 三人には、壊され続けるワゴンRを間にして逃げ回るしかなかった。


 ガンッ!


 ガンッ!


 バキンッ!


 やがて。


 音が止まった。


『……え?』


 荒い呼吸。


『どこ?』


『分かんねえ』


『いなくなった?』


 数秒。


『……いる』


『どこ』


『こっち見てる』


 次の瞬間。


『来る!』


 三人の足音が一斉に動いた。


『無理!』


『志村、こっち!』


『行けねえって!』


 そのときだった。


 スマートフォンが映していた夜空の端が、一瞬だけ黄色く染まった。


 消える。


 また黄色い光。


 暗闇。


 黄色。


 暗闇。


 一定の間隔で繰り返される光が、降ってくる雪を黄色く浮かび上がらせた。


『……何?』


 光が強くなっていく。


 雪壁にも黄色い光が走った。


 黄色。


 暗闇。


 また黄色。


 やがて道路の先から、二つのヘッドライトが近づいてきた。


『車!』


『車来た!』


『おい!』


『助けて!』


『助けて!!』


     *


 石田は、前方に何かがあることに気づいた。


「黒沢さん」


「ん?」


「あれ、車でないですか」


 ヘッドライトの先、道路上に何かが横倒しになっている。


 その周囲を、人影が動いていた。


「事故か?」


 黒沢が前を見る。


「人いるな」


 石田は速度を落とした。


 散布車の黄色い回転灯は回り続けている。


 近づくにつれ、横倒しになっているものが軽自動車だと分かった。


 三人の若い男がいる。


 その少し先。


 ヘッドライトの光が届くぎりぎりのところに、何か黒いものがいた。


「……ん?」


 黒沢が目を凝らした。


 だが、それより先に三人が散布車へ向かって走ってきた。


「助けて!」


「何かいる!」


「助けてください!」


 石田はさらに速度を落とした。


 黒いものは近づいてこなかった。


 むしろ、ゆっくりと後ろへ下がっているように見えた。


 やがてヘッドライトの届く範囲から外れ、その姿が分からなくなった。


「石田さん、止めて」


「はい」


 散布車が停まった。


 黒沢がドアを開けた。


     *


 志村は雪の上にへたり込んだ。


 足に力が入らない。


 残る二人も同じだった。


「おい! 大丈夫か!」


 散布車から降りてきた黒沢が声をかけた。


「怪我してねえか!」


 何を聞かれているのかは分かる。


 だが、志村はうまく答えられなかった。


 石田も運転席から降りてきた。


 三人の服は雪まみれで、ところどころ濡れている。白い息を激しく吐き、震えていた。


 黒沢が周囲を一度見回してから言った。


「とりあえず車乗れ。こんなとこにいんな」


 志村が顔を上げる。


「え……」


「寒いから。後ろ入れるから、早く」


 三人は促されるまま散布車へ向かった。


 運転席後方のベッドスペースへ入る。大人三人が入れば窮屈だったが、外にいるよりははるかにましだった。


 暖房の効いた車内へ入った途端、志村は身体の震えがかえって強くなったように感じた。


「あったけえ……」


 黒沢が三人を見た。


「怪我は?」


「たぶん……大丈夫っす」


「転んだりしてるべ。どっか痛くねえの?」


「ちょっと打ったくらいで……」


「救急車も呼ぶか?」


「いや、大丈夫です」


「他の二人は?」


 二人も大丈夫だと答えた。


「なら警察来るまでここにいれ。外出んなよ」


 ドアが閉められた。


 三人だけになる。


 ついさっきまで大声で騒いでいた誰も、今は何も言わなかった。


     *


 道路脇では、志村のスマートフォンがまだ夜空を映していた。


 散布車の黄色い回転灯が回るたび、降ってくる雪が黄色く染まる。


 暗くなる。


 また黄色くなる。


 しばらくして、散布車から二人の足音が離れていった。


『しかし、すげえな……』


『これ、横転しただけじゃないですよね』


『んなわけねえべ。上まで潰れてるぞ』


 声だけが配信に入る。


 少しして、


『……くせえ』


『何ですか、この臭い』


 そんな会話も遠くから聞こえた。


 だが、スマートフォンの画面に映っているのは夜空と雪だけだった。


 やがて散布車のドアが開く音がした。


 志村が外へ出てきた。


 配信がどうなったのかを心配したわけではない。


 ただ、雪壁の下に自分のスマートフォンが落ちていることに気づいた。


 それを見つけたから、身体がそちらへ向かった。


 スマートフォンは、その志村の姿をずっと映していた。


 近づいてくる。


 志村が屈み込む。


 乱れた髪。


 頬についた雪。


 半開きになった口。


 画面など見ていない。


 手が伸びてきた。


 スマートフォンを拾い上げる。


 映像が大きく傾いた。


 夜空。


 雪壁。


 県道。


 散布車のヘッドライト。


 回り続ける黄色い光。


 そして、横倒しになったワゴンRが画面に入った。


 志村の足が止まった。


 ドアは潰れていた。


 窓ガラスはほとんど残っていない。


 屋根は大きくへこみ、ボンネットも歪んでいる。


 フェンダーは押し潰され、千切れた樹脂部品がぶら下がっていた。


 横倒しの車体そのものが歪んでいた。


 黄色い回転灯の光が回ってくる。


 車体が浮かび上がる。


 暗くなる。


 また黄色く照らされる。


 昼間の配信で、志村は笑いながら言っていた。


 何か出たら、その場で全部映る。


 その言葉どおりになった。


 志村はスマートフォンを両手で握ったまま、しばらく動かなかった。


 画面の隅には、横倒しになったワゴンRが映っていた。


 やがて黒沢に、


「寒いから中入ってろ」


 と言われ、何も答えず散布車へ戻った。


 昼には雪壁の高さを笑いながら撮影し、古川から鳴子を越え、三人をここまで運んできた車だった。


 ほんの数分前まで、それは確かに車の形をしていた。

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