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チーズケーキは美味しかった。

 今期の生徒たちは、比較的運動神経の良い者が多かった。


 自転車の授業は二回目、時間にして五時間にも満たないというのに、半数以上は乗れるようになっている。これには俺も室長も驚いていた。

「優秀だな」

 トレフ室長は基本的にマイペースな男なので、生徒が乗れるのに自分が乗れないことに対し悲観したり嫉妬したりしない。少しはしてくれたら補助輪も外れるだろうに。

「きみの教え方がいいのだろう」

「ありがとうございます。これで、道路交通法を順守してくれると言うことはありませんね」

「まったくだ」

 昨日の授業が無くなってしまったので心配していたのだが、これなら補習授業を行う必要は無さそうだ。もちろん、全員というわけにはいかないだろうが、それは個人の状態に応じて考えればいい。

 それよりも気になることがある。


「…室長。やっぱり見られている気がします」

 ぼそりと言うと、室長は軽くうなずいた。

「きみ、生徒たちになにかしたのかね?」

「心当たりはありません」

 そう、やはり生徒たちから見られているのだ。俺だけが。自転車の授業だけではない。室内の授業の時も、教室の後ろに立つ俺のことを気にしている生徒がいた。全員が、とは言わないが。

「いつからか、はっきり言えるかね?」

「確実なのは一昨日からです」

「ふむ…」

 こうして話している間にも、ちらりと俺に視線を向ける生徒がいる。意味が分からない。これが俺ではなくヨジュンを見ているというのなら、目の保養ということにも出来るだろうが。

「話を聞いてみる必要があるかもしれんな」

「誰にします?」

「一番見ている生徒にしよう。自転車に集中すべき今、きみを見ているのはいただけない。怪我にもつながる。誰にするかはきみが決めたまえ」

「………。では、ユウキに。今日、最初に目があったので」

 ユウキは男子生徒だ。人間で言うなら二十歳前後の見かけをしている。基本的に無口な生徒で、ほかの生徒とつるむということはあまりしないようだ。休憩中はいつも一人で本を読んでいる。今は自転車の授業なので班を組ませているが、ほかの班員と会話をしているところもほとんど見ていない。

 ただ、時々、一瞬だけ俺の方を見る。本人は気付かれていないつもりかもしれないが、甘い。

 お巡りさんは視線に敏感なのだ。



「というわけで、どういうことなのか、説明してもらえませんか?」

 放課後の職員室だ。

 ユウキを呼び出して、職員室の隅にある応接セットに座らせている。このビルには生徒指導室など無いし、取調室に呼び出すわけにもいかない。

「きみだけが、というわけではありません。数人の生徒たちがよく私を見ています。理由を聞かせてください」

 室長ではなく俺が直接質問しているのは、室長にそうしたまえと言われたからだ。その方が情報を聞き出せると室長が判断した。室長とヨジュンはパーティションを挟んだ向こう側で話を聞いている。

「それは…」

 一言つぶやいて、ユウキは黙った。続きを待ったが、言い出しそうにないので手助けをしてみる。

「私は怒っているのではありません。ただ、私になにか言いたいことがあるのなら伺います。私はきみたちになにかしましたか?」

「いえ、決してそういうわけでは」

「では、どういうわけでしょう?」

 出来るだけ穏やかに訊いているつもりだ。俺は辛抱強く返答を待った。やはりユウキは続きを言おうとしない。しかしなにか言いたそうなのは明白だ。もう一押ししてみる。

「きみが口を割ったということは、ほかの誰にも漏れません。きみが呼び出しされたことすら、職員以外は誰も知りません。言いつけた、と言われることを心配しているのなら」

「違います」

 手助けしようとしたのに遮られた。

「ユウキ。なにを言い淀んでいるのですか? なにがあっても言えない、ということなら無理強いはしません。しかし迷っているなら話してください。力になれることがあるかもしれません」

 ここまで言うと、ユウキはやっと俺の目を見た。

「…カロス先生」

「はい」

「噂が、あって」

「はい」

「先生が、ユーリィ家のご子息だって」

「―――………」

「マタル国主のご子息が、そんな貴人がなんでこんな学校にいるんだろうって話で持ちきりで。なにか失礼があったら、きっと退学になって家ごと潰されるって」

「そんな――」

「ふむ。なるほど」

 そう言って、入ってきたのは室長だった。俺の隣にどかりと座る。

「それで、皆真面目に授業を受け、補習にならないように必死ということでいいのかね。カロスくんに迷惑を掛けないように」

 ユウキは逡巡したようだが、やがてうなずいた。

「はい。そうです」

「で、噂の出所はどこだね?」

「出所…は分かりませんが、自分はイーダから聞きました。イーダはジュエイたちから聞いたと言っていました」

「その噂を知っているのは?」

「おそらく、クラスのほとんどは。確かめたわけではありませんが」

 ふむ、と室長はうなずいた。

「話は解った。処分は無いので安心したまえ。もう帰ってよし」

「え、あの」

「なんだね?」

「噂は、本当なんですか? 本当にあのユーリィ家のご子息なんですか?」

「それは」

「子息ではない。が、無関係でも無いことは伝えておこう」

 答えようとした俺を遮って、室長が答える。ユウキは、明らかに緊張していた。それこそ、入学式の時よりも。

「自分、失礼を働いたでしょうか。そうだとしたら、なにかお詫びを」

「必要無い。この件できみやきみのご家族が不利益を被ることは絶対に無い。約束するから、安心して帰りたまえ」

 しばらくその場にいたユウキだが、やがてぺこりと頭を下げて帰っていった。俺は黙っていた。

「カロスくん」

 室長に、肩をぽんと叩かれる。

「カロスくん」

「…はい」

「きみがなにかを気にする必要はない。今まで通りにしていたまえ。ひとの噂も七十五日だ」

「はい…」

「まあ、逆に言えば七十五日は噂にさらされるということだが」

「室長、それ慰めになってないですよ。それより」

 パーティションの向こうから飛び出して来たヨジュンが、俺にぐぐっと顔を近づけてきた。美少年が近い。ヨジュンの放つきらきらしたものが目に入ってきて痛いほどだ。

「カロスさん、ユーリィ家のヒトだったんですか?」

「いや、まあ、あの…。とりあえず近いな」

「へーえぇぇ。そんなブルジョアだったんですか、カロスさん」

「ブルジョアって、それこそ昭和みたいな」

「でも僕には関係無いのでサインとかは要らないです」

「俺だって頼まれてもサインなんかしないよ」

「偉いヒトだったんですねぇ。驚きました」

「別に俺自身は偉くないから」

「この場で一番偉いのは私だしな。ともかく、離れたまえ」

 口を出してきた室長が、俺からヨジュンの首根っこを持って引きはがした。そのままの体勢で、ヨジュンが室長を見上げる。

「人の噂も七十五日って僕も聞いたことありますけど…。それって、人間のことわざですよね。それも日本の。僕たちマタルの住民ですけど当てはまるんですか?」

 む、と一瞬言葉に詰まった室長だったが、ぱっとヨジュンを放すと言った。

「細かいことは気にするな」

 異世界の住民であることは細かいことではないと思うが。まあいい。それよりも、気になることがある。


「…どこから漏れたんでしょう」

「ふーむ。ヒトの口に戸は立てられない…とはいえ、やはり気になるな」

「入学式からさほど日数は経っていません。クラスのほとんどが知るには早すぎます。そして、遠からずクラス全員が知ることになるでしょう。いったいどこから…」

「辿っていったらどうでしょう。ユウキくんはイーダさんから。イーダさんはジュエイさんから。ならジュエイさんに訊けば」

 ヨジュンの言葉に、俺は首を振った。

「たぶん、徒労に終わるよ。こういうのは結局誰かが誰かに聞いたんだ。それに、そうやって辿ることは、こちらが気にしているということを生徒に宣言するようなものだからね」

「じゃあ、お互いに気にしないのが一番じゃないですか?」

「そうなんだけど…」

 問題はそこではないのだ。生徒が俺をどう思おうとも、無事に卒業さえしてくれればそれでいい。問題は、そうではなく。

 ただ、それをヨジュンに話すかどうかは決めかねる。


 口元に手を当てて考える俺を横目に、室長が口を開いた。

「ヨジュン。悪いが遣いを頼まれてくれたまえ」

「お遣い? いいですよー。なんですか?」

「これから生徒たちの寮へ行って、全員の所在を確かめて来てほしい。おそらくマタルに帰っている者がいる」

「え…」

 声を上げた俺には構わず、室長が続ける。

「仕掛けられている、と考えていいだろう」

「どこからですか」

「それをこれから確かめるのだよ。カロスくんは私と来たまえ」

 言って、室長は立ち上がった。見上げる俺に、しっかりと目を合わせた。

「仕掛けられているのならば、応えなければ」

 俺も自然に立ち上がった。


「来たまえって言いましたよね」

「言ったとも。だからこそここにいるのだろう」

「なんでここですか」

「話がしやすいと思ったのだが、気に入らないのかね?」

 ファミレスのミーカだ。そこそこ賑わいのある店の一画に、俺は室長と向かい合って座っている。

「仕掛けられているんじゃないんですか」

「間違いないだろうな」

「ファミレスでのんびりしている場合じゃないでしょう」

「落ち着きたまえ」

 室長が言うと、見計らったかのようにウェイターが珈琲を二杯持ってきた。

「…俺は落ち着いていますよ」

「冷静ではないだろう。…実家の名前が思わぬところで出てきて、動揺する気持ちは解る」

 ずずっと音を立てて、室長は珈琲を飲んだ。

「だがこちらが動揺すれば仕掛けてきている相手の思うつぼだ。それはよくない」

「まあ、確かにそうですけど…」

「疑問点を整理しよう。大きく分けて二つだ。一つ目、いったい誰が生徒に噂を流したのか。二つ目、その目的はなにか」

 うなずいて、俺も珈琲に口を付けた。

「きみがユーリィ家の者だと生徒たちに教えてなんの利益があるのか…。今のところ見当もつかないが」

「まったくです。生徒も俺もぎくしゃくするだけですよ。それが目的とも思えませんし」

「きみ、最近は実家から連絡は?」

「ありませんし、俺からもしていません。お互いに用事がありませんからね。そもそも、連絡をしようにも俺は通信機の類は持っていませんし」

「ふむ…。実家の方でなにか起こっているのかもしれないな」

「なにかって…」

「心配せずとも、それをきみに探って来いなどとは言わんよ」

 そんな心配はしていない。

 室長は、絶対に俺にそんなことは言わないはずだ。とは本人の前では口が裂けても言えないが。


「じゃあ、俺はなにをしていたらいいんですか」

「とりあえず、なにも知らないふりをして通常通りに授業をしたまえ。先ほども言ったがこちらが気にしている素振りをすれば相手の思うつぼだ。動揺を誘ってなにがしたいのかは判らんが」

「マタルに帰っている生徒がいるはずだと、さっきヨジュンに言っていましたね。どういう意味ですか?」

「噂が流れた期間からしても、入校した後で外部から噂が漂ってきたとは思えんからな。最初から噂を流すつもりで入校した者がいるはずだ。敵か味方かはまだ判断しないが、状況の報告をしにマタルに帰っているだろう」

「なるほど」


 生徒は、マタルと通信出来る機器をそれぞれが持っている。形としてはスマートフォンに近い。先述したように、録画した授業をダウンロードして復習に使ったり、マタルにいる家族や友だちとのやり取りをしたりする為のものだ。ただし、通信するには学校の機器を経由する必要がある。通信した時点で学校にある器機に記録が残るようになっているのだ。人間界で言う基地局だと思ってもらえたらいい。だから室長は、記録の残る通信よりも直接帰っていると踏んだのだろう。


 もちろん、マタルに帰るにも、本来なら生徒は学校の扉を使う必要がある。扉はなんの変哲もない壁に隠されていて、室長しか知らない暗証番号をキーパッドに入力すると扉が顕現する。学校関係者はここを通ってマタルへ行き来するのだ。ただ、こちらには抜け道がある。地球で働いているマタルの住民は多いので、ほかにも扉があるのだ。それらの扉を使ってはいけないという規則は無い。つまり、実質マタルと人間界の行き来は自由ということになる。


「ユウキを呼び出したから、彼か彼女か判らないその人物は報告をしにマタルに帰っているということですね。でも、ユウキを呼び出したことはほかの生徒は知らないはずですよ」

「ユウキくんが話すだろう。彼は無口に見えているだろうが、噂話をする相手はいる。何故なら本人が噂話を知っているからな。十数人の少ないクラスだ。あっという間に呼び出されたことは伝わるだろう。そうではなくても、噂を流した張本人は常に気を張っているはずだ」

 なるほど、と俺はもう一度つぶやいた。それから大きなため息をついた。

「…なにが目的でしょう」

「さあ。それは本人に聞いてみなくては判らんが」

「俺の身柄、でしょうか」

「そうだとしても、きみは今私の部下だ。そう簡単には渡さんよ」

 珈琲が少なくなっている。軽く手を挙げて、お代わりを頼んだ。

「室長は?」

「私はアイスコーヒーを。ついでになにかつまむかね? 心配せずとも、私が払うが」

「じゃあ…ナポリタンとダブルハンバーグセットとステーキ御膳とエンドレスティラミスパフェを」

「…食べると言うなら頼んでもいいが」

「冗談です。夕飯には早いのでチーズケーキにします」

「ふむ。では私はガトーショコラにしよう」

 ウェイターに追加注文してから、ふっと、室長が笑った。

「冗談を言えるなら大丈夫だな」

「まあ、今のところは」

 この状態で冗談が口をつくとは、俺自身も意外だったが。


 俺を渡さないと室長は言った。その言葉に、安心している自分がいた。不覚にも。


「そういえば」

「なんだね?」

「俺の顔のことです。なにかお話があると言っていたでしょう。バタバタして忘れていましたが、結局どういうお話だったんですか?」

「ああ、あれか。別に大したことではないが、もう少し自覚した方がいいのではと思ってな」

「なにをですか」

「きみは自分で思っているよりも容姿が整っている。ジュエイくんの様子を覚えているだろう。あれは、きみに見つめられて赤面していただけだよ」

「そんなわけないでしょう。相手がヨジュンならともかく」

「ヨジュンときみではタイプが違う。どうもきみは自分を低く見ているきらいがある。謙虚であることと自己肯定をしないことは別物だよ」

「…俺が、自分を否定していると?」

「違うかね?」

 違う、とは言い切れない。劣等感とは違うものを、俺はいつでも抱えている。

「俺は」

「お待たせしました」

 タイミングを計っていたかのように、ウェイトレスが注文したものを持ってきた。それで、俺の勢いが萎える。

「俺は、なんだね?」

「……いいえ。うまく言えそうにないのでいいです」

「ではうまく言えそうな時に教えてくれたまえ。とりあえず、食べよう」

「はい…」

 おしゃれにデコレーションされたチーズケーキにフォークをつける。が、俺の動きは緩慢としていた。

「室長…」

 視線はチーズケーキに向けたまま、俺はぽそりと言った。

「うん?」

「…仕掛けてきている相手が誰であっても、その目的がなんであっても、俺の動き次第では室長にご迷惑が掛かることになります」

「ふむ。それがどうかしたかね?」

「どうかって…」

 呆気なく言われて、思わず顔を上げる。普段となにも変わらない室長がそこにいた。

「問題があるとは思えんが」

「室長の立場が危うくなるかもしれないんですよ」

「危うくなどなるものか。相手が誰であれ、そして目的がなんであれ、お帰り願うだけだよ」

「そんな、簡単に…」

「そんなに簡単だとは思っていないが。なんの情報も無い現状で勝手に不安になることは無い。もっとおおらかに構えていたまえ」

「俺は室長ほど気楽にはなれません」

「ではここで不安をすべて吐露したまえ」

「は?」

「不安という感情は、言葉にして吐き出すことで多少なりとも消滅するものだよ。遠慮しなくていいからなんでも言いたまえ」

「……」

「カロスくん?」

「俺が不安なのは…」

「うん。なんだね」

「主に室長の毛根の行方です」

「ここでそれを言うとは、きみも中々気楽じゃないか。まだ冗談を言う余裕があるなら良いことだが」

「これは冗談ではないです」

「そこは冗談にしておきたまえ」

「だって冗談にしておくには無理がありますよ」

「だから冗談にしておきたいのだよ」

 室長がしかめっ面になって、それで俺は少し笑った。

「冗談になると良いですね」

「まったくだ」

 チーズケーキは美味しかった。


 お互いにケーキを食べ終わる頃、室長の通信機器が振動した。生徒と同じく、これも見た目はスマートフォンだ。

 電話ではなくメッセージだったようで、室長は画面をしばらく見てからふぅむとうなった。

「ヨジュンですか?」

「うむ。マタルにいるそうだ」

「マタルに? 寮ではなく?」

「ああ。マタルに帰った生徒たちを追っていったらしい」

「……たち? マタルへ帰っているのは複数人だということですか」

「というより、全員だ。寮はもぬけの殻だったと書いてある」

「全員? 一人残らず、ですか」

「うむ。それぞれ実家や研修所にいるようだ。誰かが唆したとしか思えんが…参ったな。これでは内通者を絞れない」

「どうすれば」

「落ち着きたまえ。こちらが焦れば隙を作る。多少ハッタリでも余裕を見せつけていればいい」

「でも」

「全員帰っているということは、相手方はこちらが動き始めたことを察知しているのだろう。我々を混乱させるためになんらかの理由をつけて全員をマタルへ帰したのだ。どうにも面白くはないが」

 うつむいた俺に、室長は顔を上げろと言った。

「カロスくん」

 室長は、まっすぐに俺を見ている。

「誰になにを仕掛けられていようとも、きみが臆することは無い。相手がどうしても話をしたいと言ってきたら、その時は気が向いたら聞いてやればいい。むろん、その時は私も一緒だ。――きみは、もう二度と孤独を感じなくていい」

「室長……」

「堂々としていたまえ」

「…はい」

「しかしこのまま後手に回るのも面白くはない。ということで、明日はこちらから仕掛けよう」

 俺が首を傾げると、室長は大きくうなずいた。


「誰だか知らないが、こそこそするのは美しくないからな」

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