安心している俺がいた。
「やっぱり、甘いと思いますね」
「パンケーキかね?」
「室長ですよ」
書類作りの最中である。
マタルのお巡りさんである我々には、書類作りも多い。マタルと日本国家それぞれへの報告書、店への賠償書類、今回はカウンセリングへの紹介状など。それでなくても学校で使う書類も多い。特に今回は授業を潰して捕り物をしたので、その分を取り返すための計画書も必要だ。
それぞれに書類を作りながら会話をする。
「あんな小者に、あんな甘い言葉を」
「言うほど甘いかね? 普通だと思うが」
「僕は感動しましたよ。あれで更生するならとても良いことじゃないですか」
「ふむ。彼女が美味しくパンケーキを食べられるようになるといいな」
「だから、その考えが甘いって言うんですよ」
「ふぅむ」
室長は少し考えて、ぽんと手を叩いた。
「やはりきみは、私が誰かに甘くするのが気に入らないようだな。この前も思ったが」
「そしてこの前も言いましたが残念な冗談は毛根だけにしてください」
「きみが私の毛根のなにを知っているのだね」
「知りませんよ。残念なことくらいしか」
「確かに!」
室長は、突然声を大きくした。
「確かに私の父は禿頭だ。私の祖父も禿頭だ。なんなら伯母も禿頭だ。嫁いできた義理の従姉でさえ何故か禿頭だ! ある日突然毛根たちが手と手をつないで家出した! だがしかし!」
室長は拳を握りしめた。
「だからと言って私までそうなるとは限らんだろう!」
「手が震えてますけど大丈夫ですか」
「毛根だってがんばっている!」
「尋常じゃないほど震えてますけど大丈夫ですか」
「私は毛根を愛している!」
「片想いじゃないといいですね」
あはははは、とヨジュンが腹を抱えて笑っている。楽しいならば良いことだ。
その後も室長は毛根への愛を語っていたが、無視して仕事をした。別に俺は室長が誰に甘かろうともどうでもいい。
どうでもいい、はずだ。なのに、どうにも面白くないと感じている自分がいる。それが何故なのかは、考えてみてもよく分からなかった。
ただ、俺がさきほどあの女に対してくだらないと切り捨てたものを、室長は捨てなかった。拾い上げて救おうとした。
いつもそうだということを、俺は知っている。
結局、書類作りと翌日の授業の準備を終えたのは夜になってからだった。途中で室長が丼物をとってくれたので空腹ではないが、さすがに疲れた。ヨジュンなど、疲れと満腹感で足元がおぼつかない。目をこすりながらふらふらしていると危ないので、俺はヨジュンの手を握った。
「ほら、もうすぐだから、ちゃんと歩いて」
「ふぁーい…」
幼子のようだ。あいにく俺は、こうして誰かに手を引かれた経験が無いが。
――いや。
そういえば、過去に一度だけ…。
「カロスくん」
びくりと肩が跳ねた。
「カロスくん?」
「あ、いえ。すみません。なんでしょう」
「ヨジュンは歩けているかね? 私が背負っても構わんが」
「かろうじて歩いていますよ。甘やかさなくていいです」
「甘やかしているつもりはないのだが」
「どの口で言ってるんですか。再三言ってますがあなたは甘いですよ」
昔から。
付け加えそうになって、口をつぐんだ。
「ふむ。ではきみがヨジュンの手を握り、私がきみの手を握れば平等ではないかね」
「そんな平等は知りません。というか気持ち悪いです。野郎が三人で手をつないでどうするんですか」
「職質されたらいとこだと答えればいいのだろう?」
「それはそれとして、絵面が悪いんですよ」
「そうか? 仲良しに見えるだけだと思うが」
本気で言っているらしい室長に、俺はため息をついた。このヒトのこういうところに、俺は引っ掛かりを感じるのだ。
「歳をとると出来ることが増えるものだが、出来ないことも増えていくということか。…ああ、そういえば昔、一度だけ」
後ろから車が来て、俺たちの横を通り抜けていった。そのせいで、室長の言葉が最後まで聞こえなかった。安心している俺がいた。
「………」
もう、寮は目の前だ。小さな安アパートが、今は俺を護るシェルターのように見えた。




