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パンケーキ?

 授業は滞りなく進んでいた。


 今日は、一、二時間目に日本での常識、倫理、道徳観を生徒たちは学んだ。信号は青でしか渡ってはいけないと室長が言えば、主に青信号と呼ばれている色は緑に見えると生徒が言い、それはもう何十年も前の新聞の表記から始まったことでと室長が説明した。


 また、電車では基本的には座らずに立つようにしようと室長が言えば、どんなにガラガラに空いていてもですかと生徒が問い、立てる者は立つべきだ何故ならば立てるからだと室長が答えていた。


 三、四時間目は体育の授業だ。学校が入っているのは普通のビルなので、運動場など無い。体育は屋上で実施することになっている。初めにざっと自転車の乗り方を教科書で勉強し、すぐに実技に入った。もちろん、この屋上の光景も録画されている。


「あー、諸君。今からカロス先生が自転車に実際に乗る。よく見て勉強したまえ」

 自分はいまだに補助輪を付けていることはおくびにも出さず、室長は偉そうに俺を指さす。しかし仕事なので、俺は文句を言わずに屋上を自転車に乗って一周した。

 スタート地点に戻ってくると、生徒たちから、おお、と歓声が沸いた。別にたいそうなことはしていないのだが。


 学校に置いてある自転車には限りがあるので、数人が一つの班になって練習を始める。おっかなびっくり自転車に触る生徒たちを見ているのは微笑ましかった。運動神経が良い者はさっそく補助輪なしでも乗り始めている。

 数人が室長にコツはなんですかと訊ね、室長は堂々と恐れないことだと答えていた。なら補助輪なしで乗ってみればいいものを。


 と、俺は自分に向けられる視線に気が付いた。見れば、三人組の女子生徒がちらちらとなにか言いたそうにしている。学校では質問があるなら手を挙げるのがルールだが、言いたいことを言えない人種もいることを、俺は知っている。

 こちらから問いかけようかと身体の向きを変えたところで、彼女たちはぱっと俺から目を逸らした。そうして、不格好ながらも自転車に乗り始めた。

「……?」

 ふと、ほかからも視線を向けられていることに気が付く。見渡すと、生徒たちは皆同じように俺を見ては目を逸らした。全員、というわけではないが。


 なんなんだ。


 よくわからないまま、その日の授業は終わった。自転車に乗って怪我をする生徒はいなかったので、それについてだけは胸をなでおろした。



 その日の夕方。

「パンケーキ?」

 ヨジュンの報告に、室長が首を傾げた。

「なんだね、それは。パンなのかケーキなのかはっきりしたまえ」

「そういう食べ物なんです。室長、知らないんですか?」

 ヨジュンは目をきらきらさせている。いつ見ても美少年だ。ただ、決してそんなきらきらするような場面ではないのだが。

「要は、ホットケーキですよ」

 俺が横から口を出すと、室長はそれでも納得が出来ないように眉を寄せた。

「ならばホットケーキと言えばいいものを。日本人は本当に同義語を作るのが好きだな」

「まったく同じというわけでもないんですよ。パンケーキのほうがふわふわしてます」

「それはつまりふわふわなホットケーキだろう」

「うーん。そう言われると…」

「今は言葉の意味はいいでしょう。ヨジュン、報告の続きを」

「あ、そうだ!」

 俺の言葉に、ヨジュンは手を叩いた。報告の続きが聞けるのかと思ったら違った。

「パンケーキはふわっふわで僕によく似合います。ホットケーキはカロスさんが部屋で正座して食べる感じです」

「なるほど。ってヨジュン。どういう意味だ」

「なるほど。非常にわかりやすい例えだ。昭和という奴だな」

「あんたが言うな! そもそも今令和! せめて平成にしてください!」

「あはははは!」

「ヨジュン、きみの笑いのツボが分からない。いいから報告の続きを」

 双方を睨み付けるように言うと、ヨジュンはやっとちゃんとした報告を始めた。

「ええと。つまり、パンケーキばかりを食い逃げしているヤツがいるみたいです。若い男ということは判っていて、近隣のパンケーキ屋さんたちが協力して捕まえようとしたみたいですけど、どうにも飛ぶように消えるそうで。で、マタルの住民ではないかと」

「なるほど。けしからんな」

「そうですね。消し炭になればいいのに。毛根とかが」

「…誰の話だね?」

「もちろん、その犯人の話ですよ」

 しばし室長と睨み合う。ふんっと目を逸らしたのは俺の方だった。さすがに子どもっぽかったかもしれない。


「それで、室長。どうしましょう?」

「とりあえず、本当にマタルの住民なのかどうかの確認だな。被害に遭った店は警察には届けているのだろう?」

「はい。全店舗」

「そうか。そのうえで飛ぶように消えるというならまず間違いないだろうが…。まったく、同じマタルの住民として申し訳ない限りだな」

「同感です。マタルの恥ですね」

「僕もそう思います」

「とにかく確認だ。被害に遭った店へ行ってみようじゃないか。ついでにそのパンケーキというものも食べてみたい」

「室長とパンケーキですか。そのタイトルで映画作ったら賞獲れそうですね。ゴールデンラズベリー賞とか」

「中々ひねりの利いた嫌味だ」

「ありがとうございます」

「しかしカロスくんだって似合ってはいないのだろう。あれだ、昭和という奴で」

「俺が昭和なら室長は原始時代でしょう。原始人にパンケーキとか猫に小判以下ですよ。猫に失礼なくらいですよ」

「きみは私に冷たすぎやしないかね?」

「あなたが無神経すぎるんです」

「まあまあ、お二人とも」

 俺と室長の間に割って入るヨジュン。

「三人で行きましょうよ。大丈夫です。僕にはとてもパンケーキが似合いますから。お二人が似合わない分もフォローしてみせますよ」

 別になんのフォローにもなっていなかったが、結局は翌日から三人で被害に遭った店を廻ることになった。


 そうして翌日。情けないことに、最初に根を上げたのは俺だった。

「…甘すぎる…」

 二軒目までは我慢したことを褒めて欲しいくらい甘かった。傍らの珈琲を喉に流し込んだが、ブラック珈琲でもまったく甘さが緩和出来ない。ウェイターを呼び止めてお代わりを頼んだ。

「なんだね、カロスくん。きみはパンケーキを知っているのではなかったのかね?」

 向かいに座る室長が、不思議そうに俺を見ている。

「知っていることと理解していることは違うんですよ」

 つまりパンケーキという食べ物の存在を知ってはいたが食べたことはなかったのだ。もっと言えば、甘いことは知っていたがここまでとは思っていなかった。負け惜しみのようにそう言うと、室長はそうなのかと答えたあとでぼそりと言った。

「きみは、甘いものは平気なのかと思っていた。よく食べていただろう」

「……何年前の話ですか」

 同じようにぼそりと返すと、頼んだ珈琲のお代わりがやってきた。熱いものは平気なので、冷ますことなくごくりと飲み込む。

 俺の隣では、ヨジュンが二枚目のパンケーキをばくばくと食べている。一軒目と合わせて三枚目だ。見ているだけでも吐き気がする。

「ヨジュンはすごいね」

 思えば、ヨジュンに心からの賛辞を贈ったのはこれが初めてだったような気がする。

 見た目のわりに行儀の良いヨジュンは、食べながらしゃべったりはしない。ごっくんと飲み込んでから、にっこりと笑った。

「そうですか? 美味しいですよ。とっても!」

「それは良かったね…」

 意外なのは、室長も割と平気で食べていることだ。

「室長も平気なんですか。こんな甘いの」

「まあ、平気といえば平気だな。好みではないが」

「それはすごいです…」

 室長に心からの賛辞を贈ったのはこれが初めてではない。かなり久しぶりではあったが。

「それでカロスくん。どう思う?」

 もう一度珈琲を口に運んでから、俺は室長の問いかけにうなずいた。

「間違いありませんね。マタルの恥さらしです」

「ふむ。同感だ。ヨジュン、地図を」

「はい」

 ヨジュンがリュックから取り出した地図には、近隣のパンケーキ屋が記してある。専門店だけではなく、メニューにパンケーキが書いてある店すべてだ。流行しているためでもあるだろうが、かなりの数になる。もちろん、すでに被害に遭った店には印を付けてある。その地図を、室長はじっと見つめた。やがて、一つの店に人差し指を置いた。

「…ここだろうな」

 それを聞いて、不満げな声を上げたのはヨジュンだ。

「ええー? じゃあパンケーキ巡りはここで終わりですか?」

「調査は終わりだが、きみがまだ巡りたいというなら構わんよ。カロスくんはもう匂いも駄目だろうから、私が付き合おう」

「え、カロスさんは帰るんですか?」

「悪いけど、俺はもう無理だな」

「そうですか…。でも、室長と二人でも楽しそう。親子に見えますかね?」

「どうかな。見た目年齢だけなら見えるかもしれないが、髪や眼の色が違いすぎる。職務質問されたら面倒くさそうだ」

 至極真面目に言った室長に、俺はふっと笑った。あり得るかもしれない。

「ちなみにヨジュン。三人だとどう見えると思う?」

 俺の質問に、ヨジュンはうーんと考えた。

「見た目年齢的に家族というには無理がありますからねぇ。友だち…も微妙かな。いとこ同士、とか? 僕だけハーフで」

「そうか。じゃあ職質されたらそれでいこう」

「え?」

「俺も行くよ。さすがにもうパンケーキは食べられないけれど、どこかですごく美味しい珈琲に巡り合えるかもしれない」

 ヨジュンはぱっと顔を輝かせた。

「はい!」

 その時の笑顔は、全日本笑顔が美しい少年選手権に出したら問答無用で優勝をかっさらえるほど美しかった。そんな選手権があるかどうかは知らないが。

 室長が偉そうにしていて、ヨジュンが笑い、俺がそこにいる。


――違和感しかない。



 結果から言うと、ヨジュンのその美しい笑顔から二日後に食い逃げ犯を捕まえた。落書き犯の時と違って、犯行は昼間だ。目立つわけにはいかない。それぞれ鴉、蝶々、鷹の姿で店を張った。室長が当たりを付けた店に、そいつはのこのことやってきたのだ。毎度のこととはいえ、室長の鋭さには舌を巻く。

 犯人は、人間でいうなら十代後半の男――の格好をした女だった。男の格好でパンケーキを食べ、店のお手洗いで男装を解き、女の格好に戻ってからしれっと店を出て、鳩に変化して逃げていたのだ。たとえ人間であっても、男という思い込みが店にあれば中々捕まらなかっただろう。ましてや、さりげなく出て行った女が鳩に変化するなどとは誰も思わない。


「うまいこといってたのになぁ」

 捕まえた女は、心底不服そうにそう言った。

「うまいことなどいくものか。きみにとっても店にとっても、マタルにとっても」

 平日の昼間だ。当然、学校は通常通り授業があるはずだった。しかしこれ以上は被害を出せないので、急遽午前中のみの授業とした。教師にとっても生徒にとってもいい迷惑だ。

 室長は腕を組んで女を見下ろしている。女の手には手錠がはまったままだ。これは特殊な手錠で、はめられている間は動物に変化出来なくなる。

「まずは理由を聞きたい。何故食い逃げなど繰り返した?」

 その問いに、女は身を起こした。顔つきが真剣になっている。

「あのね、おじさん」

 記録係のヨジュンも、真剣に聞こうと身を乗り出している。

「お金を払うって、つまり対価を払うってことでしょ?」

「その通りだが」

「とりあえず食べてみて、お金を払うに値する味だったら払おうと思っていたの。あたし美食家でね。美味しいものにしか対価を払いたくないの。なにが言いたいか解る?」

「…金を払うに値しない店だっということかね?」

「そう。どこもこれはお金を払わなきゃって思える店じゃなかったの。残念だけどね」

 なるほど、と室長はうなずいた。

「残念なのはきみの頭のようだ。いや毛根という意味ではなく」

「は? 毛根?」

「とにかく、きみの言い分は通らない。対価は味だけに支払うものではない」

「説教とか勘弁してよ。美食家ってのは芸術家と同じなの。他人の価値観は受け付けないのよ」

 ため息が出た。なんてくだらない。だが、ここで口を出す権利は俺には無い。

 それまで立っていた室長は、女の向かいに腰を下ろした。とんとん、と机を叩きながら諭そうとする。

「芸術家とは、常に他人の価値観に自分を判断されているものだよ。いや、芸術家に限らずひとは皆他人に判断されている。それを受け付けないのはきみの勝手だが、きみと芸術家を並べるのは芸術家に失礼だ。そもそも、価値観云々言ったところできみがしたことはただの食い逃げ。無銭飲食だ」

「だから、説教とか止めてってば。時間の無駄よ」

「確かに、きみの時間をこれ以上無駄には出来ない」

「ええ、だから止めてって」

「きみが小者でいる時間が無駄だと言っている」

「…小者…?」

 ぴくりと、女の眉が動いた。

「きみは小者だ。他人に自分を判断されるのが怖いから、自分から先に判断しているのだろう?」

「ちょっと、なに言ってるか分からないんだけど」

 明らかに女の余裕がなくなっている。室長は淡々と続けた。

「美味しかったと認めたくないから払わなかった。それだけだろう。よほど誰にも認められない人生を送って来たと見える。気の毒だな」

 ぱちぱち、と音がした。ヨジュンが手を叩いていた。俺が視線を送ると、彼は肩を竦ませた。

「他人に認められてこなかったから他人を認めたくない。子どもが駄々を捏ねているだけだと思うのだが、異論はあるかね?」

「異論しかないわよ! あたしはそんなんじゃ」

「心配しなくてもいい」

「はぁ!?」

「きみに必要なのは、店への賠償よりもまずはその心の余裕の無さを消す努力だ。それだけ他人を認めたくないのは、認められてこなかったという傷があるからだと思われる。マタルに戻ってカウンセリングを受けたまえ。紹介は出来る」

 女は口を開けたまま固まった。

「病気の治癒には、まず自分が病気であることを認める勇気が必要だ。きみの心には傷がある。そのことを認めたまえ」

 しん、とその場が静まった。


「いいかね? どう抗弁をしようとも、きみがしたことは犯罪だ。一生懸命パンケーキを作った職人たちを傷つけた。店の売り上げも傷つけた。このままでは赦されることはない。しかし深く反省し、然るべき償いをした上でまたパンケーキを食べようとするならば、それは赦されることだと私は考える」

「…別に、どうしても食べたいわけじゃ」

「そうかね? 美味しいものを食べたいと願うことは罪ではない。これだけ同じメニューで犯行を繰り返したのは、それだけ食べたかったからだろう。ちゃんと償いをした後ならば、もっと美味しく感じられるはずだ。次はきみ本来の姿で、堂々と食べに行きたまえ。幸か不幸かきみの本来の姿は店には知られていない。一人の女性として、美味しいと言いながら食べて、笑顔で代金を支払ったならば、店側も喜ぶだろう。きみは知らないだろうが、他人に喜ばれるということは、意外に自分も嬉しくなるものだよ。一度経験してみるといい」

 女は黙った。

「きみはマタルへ強制送還される。刑務所で償いをしながらカウンセリングにかかりたまえ。もう一度言うが、心配しなくてもいい。――きみは治る」


 黙ったまま、女はなにも答えなかった。

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