二度と会いたくなかった。
マタルの街並みは、人間界で言うならオーストラリアはケアンズの街並みに似ている。道路が広く、海が近く、背の高い樹木が等間隔に並び、明るい色の建物が並ぶ。オープンカフェや広い公園も多い。とはいえ俺はケアンズはおろかオーストラリアにも行ったことは無い。なにかの折りに文献で見て、似てるな、と思ったことがあるだけだ。
マタルはともかく、実家に来るのは何年ぶりだろう。多少緊張したが、俺はポケットの中でぐっと拳を作ってからその門をくぐった。
まず、庭を掃いていた使用人が信じられないものを見るように俺を凝視した。それから慌てて母屋の方へ走っていく。
門から玄関まではちょっとした小路になっている。色とりどりの植物が植えられているが、俺は周囲を見渡すことなくまっすぐ玄関に向かった。見渡す余裕が無かっただけだが。
玄関を、自分で開ける必要は無かった。俺が玄関に着くと同時に、見計らったように戸が開いたからだ。
「……カロスお嬢さま…」
懐かしい顔だ。使用人頭の初老女性が、目に涙を浮かべて俺を見つめていた。その後ろにも、数人の使用人。
「久しぶり」
マタル語のみで会話するのは久しぶりだが、なるべく自然な声で言ったつもりだ。この使用人頭の名前はチサ。俺が産まれるずっと前、祖母の代からこの家に仕えているヒトだ。
「お久しゅうございます。お嬢さま。まあ、大きくなられて…。ますますヤスノさまに似てこられましたねぇ。よくお戻りになりました」
ヤスノとは、俺の祖母だ。現国主の正妻で、俺が産まれてすぐに亡くなっている。
「もう、お嬢さまって年齢じゃないよ」
「いくつになられてもお嬢さまはお嬢さまでございますよ。さあ、お上がりくださいませ。お荷物はこちらへ」
「お邪魔します」
そう言ったらチサの顔つきが変わった。一瞬しまったと思ったがもう遅い。
至極丁寧に、声を荒げることも無く、諭すようにチサは言った。
「なんてことをおっしゃるのですか?」
チサの言いたいことは判る。判りすぎて目を逸らすしかない。
「ここはお嬢さまのお宅でございます。おっしゃるならば「ただいま」でしょう?」
ああ、やっぱり。
「いや、まあ、でも…」
「やり直しをなさいませ。「ただいま」と言うまで上がらせませんよ」
「………」
そうは言われても、俺が帰る場所はここではないのだ。しかし意地を張って玄関に留まるわけにもいかない。
結局俺は、かなり小さな声でただいまと告げた。
チサはそれでも一応納得してくれたようで、かつての俺の部屋まで荷物を持って案内してくれた。
「兄貴は?」
「執務室でお仕事をなさっております。夕方には戻られますよ」
ユーリィ家は、敷地内に離れを建てている。そこが執務室だ。俺は数えるほどしか入ったことはない。
「夕方か。じゃあ、夕方からこの家の空気が悪くなるね」
「そのようなこと」
言っているうちに、部屋に着く。かつて、俺が自室にしていた部屋だ。
「まだあるんだね。この部屋」
「もちろんでございます。お掃除を欠かしたことはございません。あなたはこの屋敷――いえ、この世界の頂点に立つお方です。いつか帰ってこられると信じておりました」
「…兄貴が黙ってないよ」
「なにをおっしゃいます。あの方はものの数ではございませんよ。ご安心を。チサはいつでもあなたの味方です」
「…それは、どうも」
「さあ、荷物を置いたらご当主の元へ案内いたしますね。――あなたがた、なにをしているの。今夜はカロスお嬢さまご帰還の宴会ですよ。準備をなさい」
遠巻きに見ている使用人たちに、チサは声を掛ける。そこで、俺はチサの肩を掴んだ。
「ちょっと待った。そんなに大げさにしなくていい。普段通りにしていていいから」
「先ほどから、本当になにをおっしゃっているのですか? ここに帰ってこられたということは、当主を継ぐ覚悟をなさったということでしょう?」
「いや、そういうことじゃない。俺はとりあえず、じいさんが臥せってるっていうから様子を見に来ただけで…」
「…「俺」、でございますか?」
「あ、いや」
「まあ、なんてこと…」
チサは、顔を覆って嘆き始めた。声を荒げるわけではないのが、逆に厄介だ。
「人間界では男性のふりをしておられると聞いてはおりましたが、実際に聞くと哀しゅうございます。性別を偽るなんてどれほどのご苦労をされたかと思うと…」
「いや、そんなに苦労はしてないよ」
幸か不幸か、俺はさほど女性らしい身体つきもしていない。しかし、チサは嘆く。
「男性のふりをなさることをご自分でお決めになられたのならと、チサは自分を納得させてまいりました。どうしてそのようなことをなさっているのか不可解ではございましたが、チサはカロスお嬢さまの味方でございますから。ですが、それと言葉遣いは別でございます。まさか、「俺」に「兄貴」に「じいさん」などと…」
よよよ、と効果音が付きそうな嘆き方だ。
「トレフ殿に預けたことはやはり間違いでございました。このチサの元にいてくだされば、性別を偽ることも無く、そんな粗暴な言葉遣いなどせず済んだというのに…」
「別に室長の影響じゃないよ。これはわた…私、が勝手に言っているだけで」
「けれどトレフ殿も注意はなさらなかったのでしょう? わたくしはずっと思っておりました。あの方には、ユーリィ家の跡取りを預かるという自覚がおありにならないのではないかと」
チサの嘆きは止まらない。
「マーテル家は立派なおうちですし、トレフ殿が頭の切れる方だということも存じあげております。実際、あらぬ疑いを掛けられたカロスお嬢さまを救っていただいたのも事実。けれど、こうも粗暴になっているのを野放しなんて…」
どこまで嘆くんだ、このヒトは。いや、そもそも俺のせいか。ここに来るなら徹底的に言葉遣いを直すべきだった。先に思い至るべきだったのだ。
「悪かったよ。言葉遣いは直す。だから、早くじいさん…いや、おじいさまの元へ連れて行ってくれないかな」
「約束でございますよ。ユーリィ家に相応しい言葉遣いをなさいませ。やがて頂点に立つお方が、粗暴な言葉遣いなどなさってはなりません」
「わかった。ごめん」
「目下の者に簡単に謝ってもなりません」
「いや、うん…。わかったから」
屈みこんでチサを覗き込むと、ややあってから、彼女は顔を覆っていた手をどけた。
「かしこまりました。しかし、当主の元にご案内する前に、お着替えをなさいませ」
「え…」
「え、ではございません。今のお召し物は学校の制服でしょう。学校の教員としてではなく、孫としてそして跡取りとしてお会いになるのです。お召し物ならすぐにご用意いたします」
「あ、はい…」
そう答えるしかなかった。
チサが用意した衣装に着替える。どうして今の俺のサイズにぴったりな衣装を用意出来たのか不思議だったが、訳を訊いたらなんてことはなかった。俺を見張っていなければ、俺が男のふりをしていることなど知るわけが無い。
「見張っていたなどと…。見守っていたのです。マタルにおいてなによりも大切なお方なのですから」
物は言いようだ。
しかし、見張られていたことは室長も知っている可能性がある。あのヒトなら知っていても害が無ければ知らんぷりくらいはしていそうだ。別に腹は立たないが、居心地は悪い。あの野郎、くらい思っても罰は当たらないだろう。
「着替えたよ」
廊下で待っていたチサに声を掛ける。
マタルの伝統衣装は、人間界で言うなら中国の民族衣装である漢服に似ている。解りやすく言えば、チューブトップの衣に、ゆったりとした袿を羽織り、下は袴。あちらと違い、こちらの袖は絞ってあるが。チサが俺に用意したのは深い藍色を基調とした衣装だった。
着替えた俺を頭のてっぺんからつま先までじっくりみて、チサは一つうなずいた。どうやらご納得いただけたらしい。
「では、次は御髪を整えましょう。短い御髪もお似合いですが、そのままではなりません」
ええーとか言う気も起きない。チサと小競り合いをしに来たわけではないのだ。とにかく、今は言うことを聞いておいた方が今後動きやすいだろう。断じて反論するのが面倒くさくなってきたわけではない。チサはすでに廊下を先に歩き出している。気付かれないようにため息をついて、俺も後をついて行った。
髪を丁寧に梳かされ、髪飾りを付けられ、化粧もされて姿見の前に立つ。…正直、違和感しかない。こんな格好をしている自分をまた見る羽目になるとは。
室長やヨジュンが見たらなんと言うだろう。馬子にも衣裳、というところだろうか。いや、あの二人は俺と違ってそんな嫌味は言わないか。素直に褒めてくれるかもしれない。
「とてもお綺麗でございますよ。本当に、ヤスノさまに似ておられます。カロスお嬢さまがお戻りになって、ヤスノさまも一安心でございましょう」
チサはご満悦だ。もうどうにでもしてくれ、と思う。
「では、ご当主に会いに参りましょう。どれほど喜ばれるでしょうねぇ」
「…どうだろうね」
鏡に映る女性が、他人事のようにそう返した。
ユーリィ家の屋敷の一番奥に、当主の部屋はある。
「おじいさまの具合は、実際のところどうなの?」
「良くは無い、と申し上げるしかございません。ハスマ家に診てもらって、お薬を飲まれておりますが」
「薬が合ってない、とか…」
「カロスお嬢さまもご存知の通り、ハスマ以上に優れた医師はマタルにはおりませんよ」
「じゃあ、薬の飲み方に問題は?」
「薬は、わたくしが管理しております。今の当主には無理でございますから。当主のお食事が済むたびに、わたくしがお持ちしております」
「そう。なら、飲み方には間違いは無いね」
俺は、ユーリィ家の権力を手に入れる為に、ハスマ家が薬に手心を入れている可能性を視野に入れている。それを、ここでチサに言う気にはなれないが。
やがて扉の前に辿り着き、チサが襖戸をノックする。返事は無い。
「眠っておられるかもしれませんね」
「起きてからまた来たほうがいいかな」
「いいえ。最近は起きておられる時間の方が短いですから、枕元で待っていた方がよろしいでしょう」
「そっか」
小声で会話して、扉を開ける。じいさんは、豪奢なベッドに横たわっていた。
痩せたな、というのが第一印象だ。もともと恰幅の良い方ではない祖父が、枯れ枝のようになっている。
「…おじいさま」
目を閉じているじいさんに、呼び掛けてみる。やはり返事は無かった。
「私、しばらくここにいるから。チサは仕事に戻っていいよ」
「かしこまりました。くれぐれも、お言葉遣いにはお気をつけなさいませね。ご当主がせっかく目を覚まされても、あまりのお言葉遣いにまた卒倒してしまいます」
そこまでか?
まあ、無駄に刺激することは無い。
解ったとうなずくと、チサは一礼して出て行った。
まじまじと、祖父を見る。いつぶりだろう。数年前に遠くから見かけたことはあったが、最後にちゃんと対面したのは二十年近く前になる。
と、祖父が動いた。
「おじいさま」
試しに何度か呼び掛けてみたら、反応があった。
「おじいさま、カロスです」
しばらくあってから、祖父はゆっくりと目を開けた。
何度か瞬きしてから、口を開いた。
「…ヤスノ…?」
しわがれた声。記憶にあるものと違う。
「いいえ。カロスです。ヤスノではありません。ご無沙汰しています、おじいさま」
淡々と告げると、祖父はまた瞬きをした。
「おお、カロス…。本当に、カロスか?」
「ええ」
「カロス…。帰ってきたのだな」
お邪魔しています、とは言わない方が良さそうだ。
「カロス、私は、お前に…」
言いかけて、祖父は咳き込んだ。具合が悪いことを知ってはいたが、本当に弱っている様を目の当たりにすると、言い知れない気分の悪さがこみ上げてくる。
俺は別に、このヒトを恨んではいない。
ただ、祖父として愛してもいない。
ベッドに備え付けられているブザーを鳴らす。これは、要はナースコールだ。すぐに応答があった。
「おじいさまに、なにか飲むものを」
短い了承の返事があって、通話はすぐに切れた。
祖父が身体を起こそうとするので、背中を支えた。伸ばした手が骨にあたって、どきりとする。
「カロス…カロス」
「はい。おじいさま」
「本当に、カロスなのだな」
「ええ。本当に、カロスです」
「そうか…。帰って来たか…」
祖父は少しうつむいて、すぐに顔を上げた。
「私を、殺しに、来たのだな…」
「………」
「良かった。殺されるならお前にと思っていた。私を殺して、マタルを手に入れるがいい」
「誰もそんな物騒なこと考えていませんよ」
「お前にだけは、その資格がある」
聞けよ、と突っ込んでやろうと思ったら、祖父はまた咳き込んだ。そのタイミングで、使用人がノックをして入ってくる。俺と目が合うと、使用人は水を置いてそそくさと出て行った。
水を飲んで深呼吸をして、それで祖父は少し落ち着いたらしかった。
「カロス…」
「はい、おじいさま」
「本当のことを、言うがいい。お前、私にとどめを刺しに来てくれたのだろう?」
「だから、誰もそんな物騒なことしませんって」
「いいや、違う」
「違うと言われても」
「いいんだ。お前が望むなら、私はなんでもくれてやる。命でさえもだ。大丈夫だ。私は惜しくない。それがお前の望みなら」
「望んでいません」
言っても無駄だろうな、と思いながらも一応言ってみる。
「おじいさまの命なんて要りません。私はただ、学校の存続をお願いしに参りました」
「学校…?」
「ええ」
「よし、いいぞ。人間界すべての学校は今日からお前のものだ。マーテルの経営権をお前に譲らせよう」
「そうじゃない。今のままで存続させてください。頼むから俺たちに関わらないでください」
つい「俺」と言ってしまったが、どうせ祖父は俺の話など聞いていない。
「なんだ? ほかにはなにが欲しい? なんでも言え。お前の望みならなんでも叶えてやる。お前の手でヤスノの許に逝けるなら安いものだ。きっとヤスノも喜んでくれる」
二度と会いたくなかった。
これだから、会いたくなかったのに。
孫に祖父を殺させて喜ぶ祖母などいるものか。
「おばあさまがどう思うかは分かりませんが、マタルの国主候補から俺を外してください。そんなものは要らないから、人間界で平和に過ごさせてください」
「では人間界をお前にやろう。すぐに軍に侵攻させて、お前に明け渡してやるからな」
なに言ってんだこのじじい、と叫びたかった。
「マタルに軍はもうありません。そもそも人間界は人間のものです。マタルは関わらないのが平和条約でしょう」
「仕方が無いだろう。お前が、欲しがるのだから。いいんだ。お前が欲しがるなら、なんでも与えよう。な?」
祖父は笑っていた。目を見開き、笑っていた。
「ヤスノ、ヤスノ。私はお前に…」
「俺はヤスノではありません。カロスです。そして俺が欲しいのは平穏です。――おじいさま、元気になられたようですね。じゃ、俺はこれで」
そう言って、椅子から立ち上がる。そのまま背を向けた俺の衣装の裾を、祖父は掴んだ。信じられないほど強い力で。祖父は、分かりやすく戸惑った顔をしていた。
「なんだ…? なにが不満なんだ? 言ってみろ。なんでも叶えてやるから」
この祖父に、なにかを望んだことなど無い。
一度も、無いのに。
――室長。あなたなら、なんて言いますか。
「…とりあえず、今の望みは」
裾を掴まれたまま、俺はくるりと振り返った。そうして、祖父の首筋に手刀を下ろす。
「あなたがまた眠ってくれることです」
弱っているじいさん相手に強硬手段。俺は中々酷い奴だ。室長が知ったら呆れるだろうな、とふと思った。




