7話ー① 思惑
魔国アーストン――魔皇城バルルモラ。
執務室には、北方一帯の地図が大きく広げられていた。
その周囲には、西方、東方、そして北方の各戦線を示す駒が並べられている。
ヴァンキッシュは地図を見つめたまま、長い沈黙を続けていた。
その向かいには、参謀ヴォランテ。
そして八冥王第四席、アレディフェが控えている。
やがてヴァンキッシュが口を開いた。
『……西方は、しばらく動かぬだろう』
ヴォランテが頷く。
『はい。獣族も相当な損害を受けております。すぐに再度の大攻勢を仕掛けるだけの余力はないでしょう』
『東方も同様です』
アレディフェが続ける。
『妖族との交渉によって、少なくとも現時点では戦線が動く兆しはありません』
ヴァンキッシュは地図上の東西を順に見た。
『つまり――』
指先が北方へ移る。
『我らが次に向き合うのは、ここだ』
北方。
聖族国家連合との国境。
そこには、未だ大量の軍勢を示す駒が残されている。
ヴォランテが静かに口を開いた。
『聖族は、まだ大きな戦力を残しています』
『西方の獣族とは違い、総力を投入したわけではありません』
『そのうえ、賢族や小人族からも支援を受けられる立場にあります』
ヴァンキッシュは頷く。
『聖族は、我らを一気に滅ぼすつもりだろうか』
『可能性は高いかと』
ヴォランテは地図へ視線を落とす。
『西方の戦いで我らが消耗したことも、当然把握しているでしょう』
『ここで北方から大攻勢を仕掛ければ、我らに大きな損害を与えられる』
『そして、もし魔族軍が北方で崩れれば――』
ヴァンキッシュが言葉を継ぐ。
『そのまま魔国へ雪崩れ込める』
『おそらく、それが聖族の狙いでしょう』
室内に静寂が落ちる。
ヴァンキッシュは椅子へ深く腰掛ける。
『……ならば、こちらも備える必要がある』
アレディフェが一歩前へ出た。
『北方への増援を?』
『ああ』
ヴァンキッシュは即答した。
『西方から兵を引き抜くわけにはいかぬ』
『東方も、妖族との交渉が続いている』
『となれば――』
ヴァンキッシュの視線がアレディフェへ向く。
『アレディフェ』
『はっ』
『お前に北方へ向かってもらう』
アレディフェは一礼する。
『承知いたしました』
ヴォランテも異論を挟まない。
『適任かと存じます』
『北方軍への増援だけでなく、現地の指揮系統を整理する必要もあります』
『聖族が総力を投入してきた場合、単純な兵力だけでは対応できません』
ヴァンキッシュは静かに頷いた。
『その通りだ』
『聖族との戦いは、これまでの戦線とは違う』
『西方では獣族が数で押してきた』
『東方では、まだ剣を交えていない』
『だが――』
ヴァンキッシュの目が鋭くなる。
『聖族は、我らを滅ぼすために動く』
その言葉に、二人の表情が引き締まった。
『だからこそ、こちらも中途半端な覚悟では臨めぬ』
『北方は、これまで以上に大きな戦場になる』
ヴォランテが静かに尋ねる。
『魔皇様』
『何だ』
『北方で勝利した場合、その後の展望はいかがなさいますか?』
ヴァンキッシュは少しだけ目を細めた。
『……聖族を退ければ、戦況は大きく変わる』
『聖族の力が削がれれば、賢族や小人族も今までと同じ態度を取り続けることは難しくなる』
『そして――』
一瞬だけ、ヴァンキッシュの口元に笑みが浮かぶ。
『世界の均衡が、また一つ崩れる』
ヴォランテはその言葉を聞き、静かに頭を下げた。
『承知いたしました』
『では、北方戦線の準備を進めます』
『頼む』
アレディフェも一礼する。
『私も直ちに出立の準備を整えます』
二人が部屋を去ろうとした、その時。
ヴァンキッシュが呼び止める。
『アレディフェ』
『はっ』
『無理に勝とうとするな』
アレディフェが振り返る。
『……?』
『北方で何が起きているのかを見極めろ』
『聖族が何を狙っているのか』
『それを知ることが、お前の最初の役目だ』
アレディフェは深く頭を下げた。
『御意』
扉が閉じる。
一人残されたヴァンキッシュは、再び地図へ視線を落とした。
『……来るか、聖族』
その呟きは、静かな執務室へ消えていった。
――その頃。
聖族国家連合――聖族評議会。
豪奢な会議室には、複数の高官が集まっていた。
中央に置かれた円卓。
その上には、魔族領周辺の地図が広げられている。
一人の高官が口を開いた。
『獣族による大攻勢は、失敗に終わりました』
室内に重い空気が流れる。
『しかし、無駄ではありません』
別の高官が答えた。
『魔族軍には相当な損害を与えています』
『西方戦線を膠着状態へ追い込めたことも、我々にとっては成果でしょう』
『問題は――東です』
その言葉に、何人かの高官が顔を見合わせる。
『妖族との停戦ですな』
『ええ』
『あれは我々の工作不足でした』
『妖族内部の穏健派を抑え込めなかった』
『そして魔族側の参謀――ヴォランテ』
その名が出た瞬間、室内の空気が変わる。
『奴の外交工作は想定以上でした』
『妖族を戦争から引き離しただけではない』
『今後、魔族側へ傾く可能性すらある』
一人の高官が机を指で叩いた。
『東方での失敗は、二度と繰り返してはならぬ』
『ならば、これからどうする?』
別の高官が地図へ視線を落とした。
『我々が正面から魔族と戦うだけでは、時間がかかりすぎます』
『ならば、後方から兵を回せばよい』
『どこから?』
『聖族領内の予備兵力を集める』
『賢族からの支援も受けられる』
『小人族からは武器と物資を調達する』
一人が頷く。
『つまり――』
『南方へ戦力を集中させる』
会議室に沈黙が訪れる。
やがて、評議会の中心に座る高官が口を開いた。
『魔族は西方で消耗した』
『東方は停戦状態』
『ならば、今こそ北方だ』
地図上の南方国境へ、指が置かれる。
『ここへ戦力を集める』
『魔族が増援を送るよりも早く、我々が兵を揃える』
『そして――』
高官は魔族領を指差した。
『一気に押し潰す』
別の高官が尋ねる。
『後方の防備はいかがいたしますか?』
『必要最低限でよい』
『前線で勝てばよいのです』
『魔族を南方で崩壊させれば、後方へ兵を回す必要すらなくなる』
その言葉に、複数の高官が頷いた。
だが、一人だけ慎重な表情を浮かべていた。
『しかし、魔族には八冥王がいる』
『西方では、我らが支援した獣族の大攻勢すら退けております』
『八冥王を甘く見るべきではありません』
室内に再び沈黙が落ちる。
評議会の高官は、静かに答えた。
『だからこそ――』
『数で潰す』
『八冥王一人に対して、我々は一人ではない』
『十人でも、百人でも、千人でもいい』
『魔族が倒れるまで兵を送り続ける』
冷たい声だった。
『一度の戦いで勝つ必要はない』
『魔族が立ち上がれなくなるまで、戦い続ければいい』
誰も反論しなかった。
やがて、評議会の決定が下される。
『南方戦線へ、増援を集める』
『賢族、小人族にも協力を要請せよ』
『そして――』
高官は最後に、魔族領を見つめる。
『魔族との決戦に備えよ』
魔族もまた、北方へ兵を送ろうとしていた。
聖族もまた、北方へ戦力を集め始める。
互いの思惑は、まだ交わってはいない。
だが――。
両軍が目指す場所は、同じだった。
北方。
次なる戦場は、静かにその姿を現し始めていた
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