6話ー⑤ 西方戦線.2
西方戦線。
魔族軍が築いた橋頭堡。
朝霧が大地を覆い、視界は数十メートル先すら霞んでいた。
夜明けを迎えたというのに、辺りは薄暗い。
森から吹き抜ける風が、冷たい空気を運んでくる。
魔族兵たちは各々の持ち場につき、いつもと変わらぬ警戒を続けていた。
ここ数日、獣族による攻撃は鳴りを潜めている。
その静けさを、兵士たちは不気味に感じていた。
『……静かですね』
『ああ』
見張り台に立つ兵士が、霧の向こうへ目を凝らす。
何も見えない。
聞こえるのは、風の音だけ。
――その時だった。
『……ん?』
兵士が眉をひそめる。
『何か……聞こえないか?』
隣の兵士も耳を澄ます。
最初は小さかった。
だが――。
ズン。
ズン。
ズン。
地面が、かすかに震えた。
『……なんだ?』
もう一度。
ズン。
今度は、はっきりと地面が揺れた。
兵士たちは顔を見合わせる。
次第に、その音は大きくなっていく。
ズン……。
ズン……。
ズン……。
まるで大地そのものが、何か巨大なものに踏み鳴らされているかのようだった。
『……敵襲か?』
その瞬間。
霧の向こうに、何かが浮かび上がった。
一つ。
二つ。
十。
いや――。
数え切れない。
朝霧の中から、次々と獣族兵の姿が現れる。
槍を携えた兵士。
大盾を構えた兵士。
弓を背負った兵士。
巨大な斧を担ぐ者。
騎兵。
さらに、その後方には無数の軍旗が並んでいた。
『……な』
見張り台の兵士が言葉を失う。
霧の向こうから、次々と姿を現す獣族軍。
その数は、これまで魔族軍が対峙してきたものとは明らかに違っていた。
『……大軍だ』
誰かが呟く。
次の瞬間。
『伝令!!』
別の兵士が叫んだ。
『急げ!! 司令部へ知らせろ!!』
『は、はい!!』
伝令兵が駆け出す。
階段を駆け下り、司令部へ向かって全力で走る。
『センチュリー様!!』
扉が勢いよく開かれた。
司令部にいた兵士たちが一斉に振り返る。
伝令兵は肩で息をしながら跪いた。
『ご……ご報告いたします!!』
『申せ』
センチュリーは静かに答えた。
伝令兵は必死に息を整える。
『獣族軍が……!!』
『大軍勢が、こちらへ侵攻を開始しております!!』
室内に緊張が走る。
『兵力は!?』
『現在確認できるだけでも……数万!!』
伝令兵の声が震える。
『後方にも、さらに大軍勢が続いております!!』
『総兵力は……まだ確認できておりません!!』
その報告を聞き終えても、センチュリーは動かなかった。
ただ静かに目を閉じる。
そして――。
『……来たか』
その一言だけだった。
隣に立つヴィルフェイエも、窓の外へ視線を向ける。
霧の向こうから響く、無数の足音。
『とうとう動きましたね』
『ええ』
センチュリーは立ち上がる。
外套を翻しながら、ゆっくりと司令部の外へ出ていく。
ヴィルフェイエも続く。
二人が高台へ出ると、眼下に広がる光景が目に入った。
朝霧の中。
獣族軍が、次々と前進している。
その数は、見渡す限り続いていた。
魔族軍兵士たちも、言葉を失っている。
『……これほどの数を』
ヴィルフェイエが静かに呟く。
『集めましたね』
センチュリーは腕を組み、遠くを見据えた。
『まったくです』
その声には、わずかな呆れが混じっていた。
『我らの橋頭堡を奪うために、ここまで兵を集めるとは』
『少々、大げさではありませんか?』
ヴィルフェイエが妖艶に微笑む。
『ふふっ』
『それだけ私たちが怖いのでしょう』
『……そういうことにしておきましょう』
センチュリーは小さく息を吐いた。
だが、その表情には焦りがない。
恐怖もない。
目の前に広がる大軍を見ても、ただ冷静に戦場を分析していた。
『これまでの襲撃は、やはりこのためでしたか』
ヴィルフェイエが尋ねる。
『ええ』
センチュリーは頷く。
『我らを疲弊させるための牽制』
『その間に兵力を集め、物資を蓄えた』
『そして今、全てを一気にぶつけてきた』
ヴィルフェイエは楽しそうに笑う。
『なるほど』
『随分と用意周到ですね』
『敵も必死なのでしょう』
センチュリーは獣族軍の中央を見つめる。
『しかし――』
『はい?』
『これほどの兵を集めたということは、それだけ失敗した時の損失も大きい』
ヴィルフェイエの瞳が細くなる。
『……確かに』
二人は顔を見合わせる。
そして、同時に獣族軍へ視線を戻した。
朝霧が徐々に晴れていく。
その向こうから、無数の獣族兵が姿を現す。
旗が翻る。
角笛が鳴る。
大地を踏み鳴らす音が響く。
ズン。
ズン。
ズン。
やがて霧が晴れ――。
その全貌が明らかになった。
地平線を埋め尽くすほどの獣族軍。
これまでの小規模な襲撃とは、まるで規模が違う。
正真正銘の――大攻勢。
伝令兵が震える声で尋ねる。
『センチュリー様……いかがいたしましょう』
センチュリーは、ゆっくりと右手を上げた。
『慌てるな』
その一言で、周囲の空気が変わった。
『敵が何万いようと、我らが為すべきことは変わらぬ』
兵士たちが顔を上げる。
『ここは魔皇様より託された橋頭堡だ』
『決して抜かせるな』
『そして――』
センチュリーの瞳に鋭い光が宿る。
『来るというのなら、迎え撃つだけです』
ヴィルフェイエが微笑む。
『では、参りましょうか』
『ええ』
二人は並んで立つ。
眼前には、数え切れぬほどの獣族軍。
対する魔族軍は、決して多くはない。
それでも――。
誰一人として逃げようとはしなかった。
センチュリーが静かに拳を握る。
『さあ――』
『獣族よ』
『その覚悟を、見せてもらいましょう』
その言葉を合図にするかのように。
獣族軍の角笛が、戦場全体へと鳴り響いた。
――大規模攻勢。
その幕が、今まさに切って落とされようとしていた。
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