5話ー⑤ 交渉の始まり
東方要衝都市マーチ――。
魔皇軍司令部の応接間には、静かな空気が流れていた。
窓の外には東方の山々が連なり、その向こうには妖族領が広がっている。
互いに大軍を国境へ集結させながらも、未だ剣は交わっていない。
この静寂を守るか、あるいは戦火へ変えるか。
その行方は、今この部屋で交わされる言葉に委ねられていた。
円卓を挟み、ヴォランテと愛山太郎坊が向かい合う。
茶器から立ち上る湯気だけが、ゆっくりと時を刻んでいた。
愛山太郎坊は茶を一口含むと、小さく息を吐いた。
『停戦、そして妖族の中立姿勢の公表……。』
『確かに悪い話ではありませぬ。』
『しかし、それだけでは我らも動けませぬな。』
ヴォランテは静かに頷く。
『承知しております。』
『ですから本日は、互いに利益となる道を探るために参りました。』
『一方だけが得をする交渉では、長続きいたしません。』
愛山太郎坊は目を細める。
『その言葉、嫌いではありませぬ。』
『では、まず妖族側の考えを申し上げましょう。』
『お願いいたします。』
『我ら穏健派も、戦は望んでおりませぬ。』
『ですが交戦派は違う。』
『彼らは「魔族は必ず妖族を飲み込む」と信じております。』
『その不安を払拭できぬ限り、停戦案を受け入れることは難しいでしょう。』
ヴォランテは一切表情を変えない。
『当然の懸念です。』
『では、その不安を取り除くには何が必要でしょうか。』
愛山太郎坊は指を組み、静かに答えた。
『利益です。』
『交戦派とて妖族の未来を考えております。』
『停戦によって国益が増すと示せれば、耳を貸す者も現れましょう。』
『なるほど。』
ヴォランテは机上の資料を一枚差し出した。
『こちらが魔国からの第一案です。』
愛山太郎坊は資料へ目を通す。
『双方の軍勢を国境より一定距離まで後退させる……。』
『偶発的な衝突を避けるため、ですか。』
『はい。』
『戦わぬ意思を形で示すことが重要だと考えております。』
『ふむ……。』
愛山太郎坊は頷く。
『悪くありませぬ。』
『兵たちも不要な緊張から解放されましょう。』
ヴォランテは続ける。
『さらに停戦期間中は交易路を再び開きます。』
『木材、薬草、鉱石など、双方が必要とする物資の流通を再開したいと考えております。』
愛山太郎坊の目がわずかに鋭くなった。
『交易……ですか。』
『以前の水準ですかな。』
『いいえ。』
ヴォランテは首を横に振る。
『以前以上です。』
『双方が利益を得られるよう、新たな交易条件を提示する用意があります。』
愛山太郎坊は思わず笑みを漏らした。
『これは思っていた以上ですな。』
『さすが魔皇軍参謀。』
『戦だけではなく、商いにも目を向けておられる。』
ヴォランテは静かに微笑む。
『戦は兵だけで行うものではありません。』
『国庫、物流、人心、そのすべてが戦を左右します。』
『魔皇様も常々そのように仰っております。』
愛山太郎坊は感心したように何度か頷いた。
『しかし、こちらにも条件があります。』
『お聞かせください。』
『停戦によって失われる戦時収入や備蓄への負担。』
『それを補えるだけの利益が必要です。』
『また、交戦派へ説明できるだけの成果も求められます。』
『妖族が譲歩しただけと思われれば、国内はまとまりませぬ。』
ヴォランテは少し考え、静かに答えた。
『理解しております。』
『妖族の面目を保つことも、この交渉には欠かせません。』
『ええ。』
『国とは誇りで成り立つもの。』
『利益だけでは人は動きませぬ。』
二人の間に、しばし沈黙が流れた。
互いに相手の言葉を吟味している。
その沈黙すら、駆け引きの一つだった。
やがて愛山太郎坊が静かに笑った。
『本日は実りある話ができました。』
『正直に申しましょう。』
『ここまで具体的な提案が出るとは思っておりませんでした。』
ヴォランテも穏やかに応じる。
『まだ入口に立っただけです。』
『これから互いの条件を擦り合わせていかなければなりません。』
愛山太郎坊はゆっくりと立ち上がった。
『ええ、その通り。』
『ですが、この内容であれば検討する価値は十分にあります。』
『もっとも――』
一度言葉を切り、ヴォランテを真っ直ぐ見つめる。
『私は妖族の高官ではありますが、最終的な決定権を持つ者ではありませぬ。』
『この場で停戦を約束することはできません。』
ヴォランテも立ち上がり、一礼する。
『承知しております。』
『私もまた、魔皇様より全権を委ねられているわけではありません。』
『本日の会談は、双方の可能性を探る第一歩です。』
愛山太郎坊は満足そうに笑みを浮かべた。
『その第一歩としては、十分でしょう。』
『私の方でも条件を整理し、妖王陛下へ上申するに値する案となるよう努めます。』
『ありがとうございます。』
『次の会談では、さらに踏み込んだ話ができることを期待しております。』
二人は固く握手を交わした。
その手はまだ、停戦を約束するものではない。
しかし確かに――。
戦ではなく、対話によって未来を切り開こうとする者同士の意思が、そこには宿っていた。
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