第4話ー④ 疑心暗鬼
夕暮れ。
一日の激戦を終えた獣族軍は、一度兵を退いていた。
傷の手当て。
武具の修繕。
明日の戦いへ向けた軍議。
獣族軍の陣地には、慌ただしいながらも秩序ある時間が流れていた。
その頃――。
魔皇軍の一角では、数名の獣族兵が縄で拘束され、静かに座らされていた。
昼の戦いで捕らえた捕虜である。
その前に立つのは、第八冥王第三席・ヴィルフェイエ。
彼女は捕虜たちを優しく見渡した。
『怖がる必要はありません。』
『少しだけ、お話をしましょう。』
その声音は、戦場にいるとは思えないほど穏やかだった。
捕虜たちは警戒しながらも、その瞳を見つめる。
次の瞬間。
ヴィルフェイエの瞳が妖しく輝いた。
『私の声だけを聞いてください。』
甘く囁くような声。
捕虜たちの表情から、少しずつ意思が消えていく。
『あなた方は仲間の元へ帰ります。』
『そして、普段どおりに過ごしてください。』
『命令があるまで、何もしなくて構いません。』
『ですが――。』
ヴィルフェイエは妖艶に微笑んだ。
『私の声を思い出した時。』
『あなた方は、最も近くにいる味方へ剣を向けます。』
捕虜たちは無表情のまま頷いた。
『はい……。』
ヴィルフェイエは満足そうに目を細める。
『帰して差し上げなさい。』
魔族兵は縄を解き、捕虜たちを森へ解放した。
翌日。
獣族軍本陣。
『昨夜帰還した者たちか。』
『よく生きて戻った!』
仲間たちは彼らを温かく迎え入れる。
誰一人として疑わなかった。
彼らは昨日までと何一つ変わらないように見えたからだ。
そして――。
午後。
兵たちが出撃準備を進めていた、その時だった。
一人の獣族兵が、突然隣にいた仲間へ剣を振るった。
『ぐあっ!?』
鮮血が飛び散る。
『な、何をしている!?』
周囲が騒然となる。
しかし、その兵士は何も答えない。
虚ろな瞳のまま、再び味方へ襲いかかった。
『敵の術だ!』
『殺せ!!』
数人の兵士が一斉に飛びかかり、その場で討ち取った。
静寂が訪れる。
誰も言葉を発せない。
『……何だったんだ。』
『突然、仲間を……。』
『正気ではなかった。』
困惑が広がる。
その日の軍議では、この出来事が大きな議題となった。
『魔族の法術ではないのか?』
『いや、呪いかもしれん。』
『捕虜になった者は信用できるのか……?』
その一言で、空気が凍りつく。
昨日まで肩を並べて戦っていた仲間。
その仲間を見る目が、ほんの少しだけ変わる。
疑い。
不安。
恐怖。
それらは静かに、しかし確実に獣族軍の中へ広がり始めていた。
その頃、魔皇軍。
ヴィルフェイエは遠く獣族の陣を眺めながら、小さく微笑んでいた。
『ふふっ……。』
『一人では、ただの偶然。』
『二人なら、事故。』
『三人目になれば、人は疑い始めます。』
副官が尋ねる。
『今後も続けるのですか?』
『もちろん。』
ヴィルフェイエは扇子を閉じた。
『戦とは、敵兵を倒すことではありません。』
『敵が互いを信じられなくなった時。』
『その軍は、すでに半分崩壊しているのですから。』
森を吹き抜ける風は穏やかだった。
しかしその風は、誰にも気づかれぬまま、獣族軍の心へ小さな亀裂を刻み始めていた。
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