第一話 知らない振り
店の柱時計を見ると、二十一時過ぎだった。
コツコツと低い音で時を刻むそれは、昭和の中頃に作られたものらしい。半世紀以上も前の古い時計なのに、いまも正確に動き続けている。時々、通信があてにならなくなるこの街では、いちばん信用できる時計だ。
その下に飾ってあるカレンダーには、「二〇一九年」の横に手書きで「令和」と書いてある。それを目にするたび、この柱時計は三つの時代を生きているんだなと感心する。
店の中は照明を落としてあって、カウンターの上のペンダントライトだけが、やわらかな光を放っていた。
店内に設置したスピーカーから、優しい音楽が流れている。いつも店で流してるBGMとは違う、俺の好きな曲を集めたプレイリストだ。
こうして一人でいるときに、よく聴いている。
カウンターに焼きたてのフィナンシェと、キャラメルラテのマグカップを並べて、夜のおやつを食べる。
さっき店の残り物で夕食を済ませたあと、厨房で焼いたやつだ。
「ん。うまい」
フィナンシェは、たまに店で出すと、お客さんにも喜んでもらえるお菓子だ。でも三つ続けて食べると、さすがにお腹いっぱいになった。
残りはタッパーにしまって、明日食べることにする。
「なんか、寒くなってきたな」
椅子に掛けていたカーディガンを羽織る。
九月も終わりに近づき、朝晩はずいぶん冷えるようになった。夏のあいだは、夜中でも半袖のシャツ一枚で平気だったのに。
「二階に上がろうかなぁ」
そう呟きながらも、カウンターの椅子から動けずにいる。
一緒に暮らしているリュウが、まだ帰ってこないから。
リュウのいない二階で過ごすのは寂しくて、こうして店の中でぐずぐずしている。
「最近は忙しいって言ってたけど」
リュウは弁護士だから、裁判や依頼人の相談で遅くなることもある。そういうときは、スマホにひと言連絡が入るはずだけど、何もないときもある。
俺が昨日「いつ帰ってくんの?」と送ったメッセージは、未読のままだ。店の固定電話から掛けても、繋がらない。ぜったい、電源切ってるよな。
俺は、テーブルに置いた紙を指先でなぞった。
『今日も遅くなるので、先に休んでいて下さい』
綺麗な文字で書かれたそれは、リュウの置き手紙だ。折り目がくっきりと付いているのは、俺がポケットに入れて持ち歩いていたから。
スマホで連絡が取れないときは、こういう手紙の方がありがたい。万年筆の、ブルーインクの文字を眺めていると落ちつく。
「でも、昨日も帰ってこなかったしな」
置き手紙は、一昨日のものだった。
「顔、見たいなぁ」
一日会えないだけでも、リュウが恋しくなるのに、最後に会ってからもう三日が経つ。
「リュウ……」
目を閉じて、愛しい姿を思い描く。
切れ長の目に整った顔立ち。前髪は少し長くて、無造作に流したような黒髪が印象的だ。闇に溶けそうな色と、感情の読めない表情のせいで、近寄りがたい雰囲気をまとっている。よく黒いスーツを着ているから、余計そう見えるのかもしれない。
でも、俺の前ではそんなことなくて、いつも優しい。俺だけが特別だってことも、知っている。
「リュウだって、俺に会いたいはずなのに」
つい、拗ねた声が出た。普段なら、丸二日も会えないなんて、あり得ない。
「やっぱ、あっちの仕事か」
弁護士じゃない、裏の仕事。詳しいことは知らないけど、危険と隣り合わせの現場なのは間違いない。スマホの電源を切ってるのも、大抵そういうときだ。
そのうえ、リュウはときどき怪我をして帰ってくる。ちょっとした打ち身とか切り傷だけど、それを見つけると、ぎゅっと胸が締めつけられる。
『リュウ。また怪我したの?』
『大したことはありません。すぐに治ります』
リュウはいつもそう答える。どこでどんなふうに怪我をしたのか、聞いても教えてくれない。
俺に、裏の顔を隠しているからだ。
『……ごめんな。俺が、この街に来たいって言ったから』
『ナオ。僕は大丈夫ですよ』
リュウが俺を優しく見つめて、ほほ笑んでくれる。その顔が、たまらなく好きだ。
俺より一回りも年上なのに、敬語で話すところも好き。
いつだって俺の味方で、俺のためなら何でもしてくれるリュウを、愛している。
だから、リュウの隠し事を、俺はずっと知らない振りしてきた。
リュウが、そう望んでいるから。
「あっちの仕事なら……今夜も、帰って来ないかもな」
だけど、仕方ないことだ。
最近は、街の空気が張りつめている。ウワサ話も耳に入ってきた。
「また抗争が起きるらしいて」
「市の通知には、何も出てなかったぞ?」
「あれは遅いんだよ。出る頃には終わってる」
「そうそう。一昨日、西側の連中が、倉庫焼いたの知ってるか?」
「昨日の夜は、銃声がしたって聞いたぞ」




