プロローグ
キッチンのコーヒーマシンから、エスプレッソの香りが立ちのぼる。
手動のスチームで泡立てたミルクを、赤いマグへ慎重に注ぎ込んだ。
手首を揺らし、描き出したのは、最近挑戦しているスワン。
「よし、うまくできた!」
羽を広げた白鳥を壊さないように、俺はゆっくりとリビングへ向かった。
ソファーで本を読んでいたリュウの隣に、そっと腰掛ける。
リュウは休日なのに、ドレスシャツ一枚にスラックスだけの薄着だ。リビングに暖房は入ってるけど、俺なんて、ゆるいニットに上着まで羽織ってるのに。
「ねえ、リュウ。見てみて」
マグカップを差し出すと、リュウが本から顔を上げた。
「スワン、うまくできたんだ」
「本当ですね。よく描けてます」
リュウは優しく目を細めて、俺を見つめる。
嬉しくなって、リュウの肩に寄りかかった。
「それ、なんの本?」
木のローテーブルに、分厚い本が積み上げられている。タイトルも何語か分からなくて、俺には読めない。
「カバーとか、古そうだけど」
「海外の古典文学です。タイトルは……」
「あー、言わなくていいっ。俺、古典とか苦手だし!」
慌てて止めると、リュウが苦笑する。
「貴方に勧めたりしませんよ」
「分かってるけど」
説明されたって、ちんぷんかんぷんだから、聞きたくない。
「なんでいつも、そんな難しい本ばっかり読んでるんだよ」
「それほど難しくはありませんよ」
リュウはすごく頭がいいから、簡単だって言えるんだ。
俺は一生掛かってもムリだよ。
そんなことを考えながら、マグカップに口を付ける。
「ん、おいしいっ」
淹れ立てのカフェラテだから、香りも良い。赤いマグカップを両手で持つと、左の薬指に着けた指輪が、コツンとカップに当たった。
指輪の存在を思い出すと、唇が緩む。
カフェラテをちびちびと飲んでいると、リュウが本を閉じる。ローテーブルの、紺色のマグカップを手に取った。
「あ、それ。もう冷めてるんじゃない?」
「冷めても美味しいですよ」
リュウは平然と冷めたコーヒーを飲む。
俺は、温かい方がいいけどなぁ。
この頃は少しずつ暖かくなってきたけど、まだまだ熱い飲み物がおいしい季節だ。
「ナオ」
「ん?」
リュウが空になった紺色のマグカップを、ローテーブルにおく。
そして、俺の顔を覗き込んできた。
深い藍色の眼が、瞬きしながら見つめてくるのを、じっと見つめ返す。
顔が近いから、リュウの整った顔立ちがよく分かる。いつも真顔で、周りの人は怖がって近づかないけど、俺にはいろんな表情を見せてくれる。毎日、黒いスーツ姿なのも、きちんとセットした黒髪も、リュウらしくて好き。
この前、三十歳になって、ますます大人の魅力があふれてるように感じる。格好いいよなぁ。
大好きなリュウの顔が目の前にあると、ドキドキしてくる。
カフェラテを飲みながら、少し視線を逸らした。
「リュウ? 何なの?」
「ナオの体調を確認してました」
「また? いつもそう言うけど、顔見ただけで分かんの?」
「分かりますよ。少し喉が渇くでしょう。あと、夜中に一度、目が覚めていますね」
「えっ? そうだったかな?」
言われてみれば、喉が渇いてるかも。夜のことはあんまり覚えてないけど。
「疲れがたまると体調を崩しますから、あまり無理をしないでください」
「うん」
一緒に暮らし始めてもう六年が経つけど、こういうとこ、普通じゃないよなって思う。
「でもさ。あんなに長く見つめられると、緊張するじゃん」
「すみません。ナオが可愛いので、目に焼き付けておきたくなるんです」
「へっ!?」
思わず変な声が出た。
こぼれそうになったカフェラテを、ローテーブルに避難させる。
「ちょっ! いきなり激甘な台詞を吐くな!」
「甘いですか?」
「自覚ねぇの?」
リュウの常識がズレてるのは知ってるけど、今のは不意打ちだった。
「も~、びっくりした!」
「すみません。いつも思っているのですが、貴方に伝わってなかったようですね」
謝るとこ、そこかな?
けどリュウは、俺の頬に触れると、眼差しを和らげる。
いつもより甘い声で続けた。
「僕は、ナオの顔が好きです。大きな瞳も、柔らかな肌も、小さな唇も、全てが愛おしいです」
「ぇ……ちょ……っ」
「さらさらの明るい髪も好きですよ」
リュウの指が、俺の前髪をすくい上げる。
心臓が早鐘を打って、頬が熱くなった。
「僕を見つめる、まっすぐな瞳が、たまらなく好きです」
「……っ、そ、そう」
ドキドキしすぎて、ただ、目を逸らせないだけだ。
リュウは、他の誰にも見せない、柔らかな笑みを浮かべた。
「一番好きなのは、貴方の笑顔です。こうして貴方の側にいられる僕は、本当に幸せです」
その言葉が、リュウの本心だって、知っている。
リュウが、どれほど俺を愛してくれているのかも。
「俺だって、リュウが大好きだよ」
そう伝えると、リュウが優しい手つきで、頭を撫でてきた。
キスしてくれるかなって期待したけど、撫でられるだけで終わってしまった。
俺が十八になって、やっとちゃんと恋人になれたのに、昼間のリュウは、あんまり触れてくれないんだ。
子供扱いされてるのは悔しいけど。
でも、リュウが俺をどんなふうに想ってるのか分かったから、それはすごく嬉しかった。
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