03
城に来てまだ日が浅かった頃のこと、慣れない城での生活で夜あまり眠ることができなかった彼女は中庭を散歩することにした。かなり夜も更けており、広い庭は真っ暗で一体自分がどこへ向かって歩いているのかも分からないほどだった。古代メリメラ魔法には光魔法が存在しているものの、ハティレキアですらその魔法を使うことはできない。一体どうすれば使うことができるというのか。何度も挑戦してみては、その度に悔しい結果に終わっている。賢者などと呼ばれてもたかが人間にできることは知れていた。
ぼんやりと考え事をしながら歩いていた彼女は、視界の端に薄っすらと明かりを見つけた。よく見ると地面の辺りが淡く青色に輝いているようだ。生い茂る木々の隙間を歩いて抜けると、そこにはゆらゆらと煌めく湖が広がっていた。今日は新月だ。つまり不思議なことに、湖自体が光っているのだ。静まり返った夜の空気に、美しい虫の音色と風に揺らされた湖面のちゃぷちゃぷという音、それから優しく包んでくれるような木々のざわめきだけが存在している。この城にこんな場所があったのか、ハティレキアはあまりにも美しいその光景に思わず息を呑んだ。
「誰だ」
その声に彼女は肩を跳ねさせる。毎日のように聞いているこの声は、聞き間違えようがない。彼女は咄嗟にその場に跪いた。
「申し訳ございません、陛下」
「あぁ、其方か……そうか。其方なら納得だ。顔を上げて良い」
ハティレキアはゆっくりと立ち上がり顔を上げる。少し離れた所、柔らかい草っ原の上に座っていたレネアは湖の方を向いており、ハティレキアのことは見ていないようだった。彼の漆黒の長い髪が湖の光に艶めき、風に揺れている。こんな時間にこんな場所で一体彼は何をしているのか。辺りをチラリと見回したが、誰も連れている様子は無い。確かに彼は強いだろうが、護衛も付けずにいるのは国王としてあまりにも不用心ではないだろうか。
「失礼いたしました。御前下がらせて――」
「ここは、良い場所だろう」
慌てて離れようとしたハティレキアに、レネアは言葉をかける。彼の服装はどう見ても寝衣で明らかに私的な時間を過ごしていたであろうことが分かったので、ハティレキアはその場を離れようとしたのだ。それにも関わらず声をかけてくるということは、離れるなということだろう。彼は自身の隣を手でポンと叩いた。
「早う来い」
「いえ、あの陛下のお邪魔をするわけには」
「我が良いと言っておるのだ。折角来たのだから共に眺めようぞ」
恐れ多すぎる提案にハティレキアは遠慮したかったが、彼はそれを許してはくれなさそうだった。しぶしぶハティレキアは彼の隣に歩いていく。ハティレキアが側に立つと彼はふと顔を上げた。優し気な笑みで見上げるその顔は、ハティレキアがこれまで見たことのないものだ。公務中の彼はいつもどこか険しい顔をしている。彼女がその場に膝をつくのを確認すると、彼は視線を湖に戻した。
「ここに人が来るとは思わなんだ。其方はやはり凄いのだな」
「お褒めにあずかり光栄でございます……?」
そう言われても一体何が凄いのか、ハティレキアには全く分からない。どうせ見られていないから、と首を傾げる彼女をレネアはチラリと見て喉を鳴らして笑った。
「ここは魔法で結界が張られていて普通ならば見ることすら叶わぬ。我の知る限り入れるのは我と母だけだった」
彼とその母のみ、つまり先王と現王のみということだ。即位の為に四神の祝福を受け、膨大な魔力を手にした者のみが入れたのだろう。レネアの魔力量を見る限りハティレキアのほうが多いので、この場所に入れたのはその関係かもしれない。
「昔はよく母上とここで語らっていた。しかしそれもなくなってずっと一人だったのだ。其方が来たのは我にとって僥倖だと言える」
「あまりにも恐れ多いことです」
「其方はそんなにも大きな魔力を持っているわりに気は小さいのだな」
そんなことはない、別に。自分がどれだけ周りに威圧感を与えているのか彼は気がついていないのだろう。美しい魔石のような黒い瞳は、目を逸らすことを許さない。その凛とした声に逆らえる人などいない。彼は物言いたげなハティレキアにフッと笑った。
「……ハティレキア」
それは、彼がハティレキアの名を初めて呼んだ瞬間だった。一般的に国王が平民の名を呼ぶことなどない。反対に平民が彼の名を呼ぶことも許されないのである。彼に名を呼んでもらえたと言えばきっと親も泣いて喜んでくれる、それぐらい光栄なことだった。あまりにも大きすぎる力を持って生まれてきたばかりに周りから気味悪がられたハティレキアを、そんなことを微塵も気にしていないように愛して育ててくれた両親。今も彼らはハティレキアの育った村に住んでいる。この城に呼ばれてすぐ〝しばらくこちらで生活することになる〟と手紙を送れば喜びと激励で溢れた返事が来た。
「其方の親は、健在か」
「えぇ、これもひとえに陛下がユチュシュラとの関係を取り持ってくださったからです。そうでなければきっと……戦争が起こっていたことでしょう」
「…………そうか」
「はい、ですから私は陛下に呼ばれたと聞いた時は本当に嬉しかったんです……陛下は、この国を救ってくださった方、ずっと尊敬しておりました」
ハティレキアの言葉にレネアは目を伏せた。その表情にハティレキアは口に手を当てる。この少し特殊な状況に、つい調子に乗って喋りすぎてしまった。一体何様の目線で国王に対して口をきいているのか。
「も、申し訳ございません! 出過ぎたことを!」
「気にするな。怒ってなどいない……ただ、我は、そんなに大した人間ではないのだ」
彼は何故そんなことを言うのか、ハティレキアには分からない。そんな彼女に彼は小さく呟いた。
「我は、ユチュシュラを許したりなどしていない」
それは、ただの平民であるハティレキアが聞くにはあまりにも重い彼の本心だった。彼がもしこの本心を露わにすれば、間違いなくユチュシュラと戦争になる。レネアは嘲るように喉を鳴らして笑った。
「何故許せる。奴らの用意した魔石が暴走したのだ。許せるものか」
先王夫妻が乗った飛行船の魔石が暴走した原因は、結局判明していない。判明する前にレネアがユチュシュラを訪れこれ以上の調査をしないと取り決めたからだ。それは、戦争が勃発しないようにする為に必要な行動だった。
「……魔石の暴走など、魔石が原因に決まっている」
彼の低く冷たい声が、夜の空気に飲まれていく。一体どうしてハティレキアが彼に返事をできるだろうか。彼女にできるのは、ただ黙って彼の話を聞くことだけだった。
「母上は元々もうじき我に王位を譲ろうとしていた。そして父上と二人ゆっくりと余生を過ごそうと……これまで国の為にその身を犠牲にしてきた、父上もずっと母上を支えて……やっと二人が自分の為に時間を使えるようになるところだったのだ。それをユチュシュラによって消された。全てが潰えた」
レネアの声が僅かに震えていることに気がつき、ハティレキアは彼から目を逸らした。目を逸らす直前、彼の頬が光っているように見えたのはきっと湖の光のせいではない。今のハティレキアと同じ歳で両親を亡くし国王にならざるを得なかった彼の境遇が酷く気の毒に思えてしまった。そして両親の為にここまで心を痛めている彼がいじらしいとも思ってしまい、ハティレキアは小さく首を振る。
「ハティレキア」
「……はい、陛下」
「其方が賢者ならば教えてくれ。どうやって我はユチュシュラを許せるというのだ」
ハティレキアが賢者と呼ばれているのは魔法の知識に優れているからであって、人生の歩み方を知っているからではない。二十八という年齢は若くもないが年寄りでもない。自分のこの先の人生すらどう進めば良いのか分かっていないのだ。それでも、彼の威厳のあるその声は、確かにハティレキアに救いを求めていた。
「……私は、賢者などと呼ばれておりますが、それはあくまでも魔法についてのみです……ですので、これは賢者としてではなく、あくまでも陛下を慕う一国民の、何の責任も持ったことなどないただの平民の意見として聞いていただけると幸いなのですが」
これから自分が言おうとしていることを告げる為、ついつい前置きが長くなってしまう。ハティレキアの推測でしかないが、彼の普段の様子を見る限りきっとこの本心は誰にも見せたことがなかったのではないだろうか。彼は若くして優秀な素晴らしい国王だと先王時代から仕える臣下たちにももてはやされている。それは彼が自身をそう見せているからだ。
「許せないことは、許さなくても良いのです……人間は、そう良いものではありません。基本的に性格が悪いのです。嫌なことをされれば嫌なことを仕返したくなる、許せないことなんて数えきれないほどある、嫌いな人には心の中で悪態をつきます、他人の為に自分を犠牲にするなんてとてもじゃないけどできません……そんなことできる存在がいれるとすれば、それはきっと人間ではなく神様なのではないでしょうか」
「しかし我は王だ、神からの祝福を受けるということはそれに準ずる存在になるということ、この身を犠牲にするのは当然のことではないか……実際、そう思って我はユチュシュラとの和平交渉に挑んだ。だからこそ我は彼奴らを許せない自分の小ささに辟易する」
「それならば、この場所に居る時だけでも人間になりましょう。ここは陛下しか来られないのですから」
ハティレキアの言葉にレネアは顔を上げた。彼の濡れた瞳がハティレキアを射貫く。彼はハティレキアの頬に指で触れた。それからフッと笑う。
「ハティレキア」
そんな顔で優し気に名前を呼ばないでほしい、心臓に悪い。ハティレキアは自身の顔がどんどん熱くなるのを感じた。初めて出会った時から思っていたが、彼は何を考えているのか分からない。普段ならば相手の魔力を通してその人の心の内まで伝わってくるのだ。それなのにレネアは何を考えているのかさっぱりだった。恐らくお互いに魔力が強すぎて相殺されているのだろう。だからこそ、ハティレキアにとって彼の行動はいつも突拍子が無いものだった。
「其方もだ」
「は、はい……?」
「其方と我と、ここではただの人間でいてくれるな」
約束だぞ、彼はニヤリと笑った。




