第89話 証拠のない夜
東棟の更新が止まった端末は、朝にはもうなかった。
廃棄予定の札の代わりに、回収済みの貼紙だけが残っている。
リンは電源ケーブルの痕を見て、指を止めた。
「……昨日まで、あった」
同僚が名簿を抱えながら言う。
「本社から急に回収が来たらしいよ。古い機材は全部だって」
全部。
04_ERUPTIONで開いた画面も、八嵐の一覧も、08消失の追記も、もうどこにもない。
頭の中にしか残っていない。
リンは鍵束を握り直し、何も言わなかった。
証明する手段が、先に消えていた。
昼、避難所の廊下で、中年の男が荷物をまとめながら頭を下げる。
「昨夜は本当に助かりました。環象社のおかげです。指示通りにしててよかった」
隣の女性も続ける。
「毎回、ちゃんと収束してくれますから。いないと、どうなってたか」
リンは、いつもの高さで頷く。
「お気をつけてお帰りください」
顔には出さない。
胸の奥で、七嵐の名が一度だけ浮かんで消える。
守ってくれた、と向けられる感謝の先に、本当の影はいない。
言えない。
言えば、巻き込む。
証拠もない。
夕方、カツヤが早めに戻ってきた。
装備の匂いが、いつもより強い。
「……上位が、動いたらしい」
リンが顔を上げる。
「何を」
「詳しくは知らねえ。ただ、三傑の一人に触れて、戻ってきた。
確保できてねえ」
カツヤは袋を床に置き、短い息を吐く。
「俺たちは拾え、壊すな、とだけ言われる。
上は測って、届かなくて、また拾えと言う。
何を守ってるのか、最近本当に分からねえ」
リンは、旧端末の文字を思い出す。
七嵐。
カツヤの違和感と、自分の知った記録が、同じ穴に落ちる。
「証明は、もう残ってない」
「ああ?」
「東棟の端末、回収された。見たものは、頭の中だけ」
カツヤは額に手を当て、長く息を吐く。
怒るでも、笑うでもない。
「……なら、なおさらだな。
暴く材料も、倒す意味も、どっちも薄い」
二人の間に、静かな合意が座る。
知っている。
証明できない。
現場の仕事は、それでも続く。
窓の外で、環象社の定型が遠い。
「平常通りお過ごしください」
平常の名の下で、証拠のない夜だけが残った。




