第39話 英雄ではない
雨は上がっていた。
避難所の朝は、いつもより少し騒がしい。
解除の連絡が入り、帰宅の準備をする人たちで通路が混雑していた。
リンは名簿を確認しながら、いつもの声で誘導を続けていた。
「こちら側からお帰りください」
「荷物はまとめて、転ばないように」
普通の朝だった。
少なくとも、周囲にとっては。
誰かが、荷物を紐で縛りながら言った。
「昨夜は音がすごかったね。それでも、ちゃんと収まってよかった」
別の誰かが、端末の解除通知を見せ合う。
「環象社の連絡、早かったよ。指示通りにしてて正解だった」
リンは、ペンを持つ指を少し止めた。
顔には出さない。
ただ、胸の奥で何かがひっかかったまま、次の名前を呼んだ。
昨夜のことは、まだ生々しかった。
雹が街を叩いていた。
その中に、砲を担いだ影が立っていた。
軌道が変わり、氷が粉になる。
そして、あの言葉。
『あたしらが、お前らに何かしたかよ』
『やることをやってるだけだ』
守られた、という感覚ではなかった。
かといって、敵意を向けられたわけでもない。
ただ、目の前の現象が消えて、自分たちはそこにいただけだった。
それなのに、周囲は「守ってくれた」と自然に言う。
リンは、その温度差が少しだけ怖かった。
休憩室で、カツヤから短い連絡が入る。
『昨日の件、まだ整理できてない』
リンは画面を見たまま、少しだけ返した。
『私も』
それ以上は、書けなかった。
カツヤは黒鋼の人間だ。
危険な存在だと思い、倒すことが任務だと信じできた。
その前提が、昨夜の背中一枚で揺れている。
リンの方は、もう少し前から揺れていた。
04に助けられた夜から、ずっと。
あのときも、守られたようで、守られたわけではなかった。
『知らない方が身のため』とだけ言われて、置いていかれた。
二人とも、同じ場所にいる。
知ってしまった側に。
午後、リンは記録用の端末を開く。
過去の異常気象と、対応に関する公開情報を流し見る。
どれも似た文章だった。
『環象社の特殊部隊が対処』
『被害は最小限に抑えられた』
『避難指示に従い、冷静な行動を』
事実の一部だけが、きれいに並んでいる。
昨夜見たものと、同じようで、決定的に違う。
リンは画面を閉じた。
英雄ではない。
かといって、ただ倒すべき危険物でもない。
自分たちのために動いているのでもない。
それでも、結果として、誰かの死を減らしている。
その中間の、名前のない場所にいる。
そう理解した瞬間、胸のつかえが少しだけ落ちた。
代わりに、別の重さが残った。
知ってしまった、という重さ。
夕方、避難所の電気が通常に戻る。
人の流れも、少しずつ平常に近づいていく。
リンは最後の確認を終えて、外に出た。
空は、まだ少し濁っていた。
雹の気配はもうない。
遠くで、復旧の音がしている。
一度だけ、空を見上げる。
誰もいない。
当然だ。
あの影たちは、見られるためにいる存在ではない。
「……それでも、歩き続けるしかないんだね」
声に出した言葉は、誰にも届かない。
リンは名簿を抱え直して、避難所のドアを閉めた。
日常が、何事もなかったように戻っていく。
知った重さを抱えたまま、それでも戻っていく。
それでいいのだと、今のリンは思っていた。




