第四十五話 零
No.0は。
失敗作ではなかった。
少なくとも。
一光にとっては。
◆
康二は、三日間眠らなかった。
眠れるはずがなかった。
研究区画の端末。
削除された記録。
偽装された実験番号。
NULL PROJECTとは関係のない予算。
存在しないはずの被験体。
ひとつ。
またひとつ。
康二は。
兄が隠したものを。
掘り起こした。
そして。
辿り着いた。
地下。
さらに。
その下。
施設の設計図にすら存在しない。
研究区画。
認証。
拒否。
康二は。
端末を見た。
「……兄貴」
笑った。
「弟を舐めんなよ」
認証情報を。
書き換える。
扉が。
開いた。
◆
臭い。
最初に感じたのは。
薬品だった。
次に。
血。
そして。
汗。
康二は。
ゆっくりと。
奥へ進んだ。
壁には。
無数の傷。
爪。
拳。
何度も。
何度も。
叩きつけられた。
跡。
その先。
ガラス。
厚い。
防弾ガラス。
その向こうに。
男がいた。
康二は。
足を止めた。
「……俺」
同じ顔。
少し。
痩せている。
いや。
違う。
身体は。
康二より。
はるかに鍛えられていた。
それでも。
骨格は。
同じ。
手の形も。
耳も。
鼻も。
同じ。
男は。
床に座っていた。
何かを。
呟いている。
「……違う」
康二は。
ガラスへ近づいた。
「……違う」
男が。
繰り返した。
「何が」
康二が。
聞いた。
男の顔が。
上がった。
目が。
合った。
「……遅い」
康二は。
動けなかった。
「身体が」
男は。
自分の腕を。
見た。
「遅い」
拳を。
握る。
「軽い」
歯を。
食いしばる。
「弱い」
突然。
立ち上がった。
ガラスへ。
拳。
轟音。
康二の身体が。
反射的に。
後ろへ下がった。
「違う!」
もう一度。
拳。
「違う!」
もう一度。
「俺は!」
拳から。
血。
「こんな!」
血が。
ガラスへ。
飛ぶ。
「身体じゃない!」
康二は。
何も。
言えなかった。
男が。
自分の頭を。
掴んだ。
「できる」
「俺は知ってる」
「できるんだ」
「この身体は」
「もっと」
「もっと!」
男が。
床を。
殴った。
「動ける!」
康二は。
理解した。
記憶。
この男の中には。
ある。
世界最高峰のレスラーが。
何万回。
何十万回。
繰り返した。
身体感覚。
相手の重さ。
踏み込み。
腰。
背中。
指。
すべて。
知っている。
なのに。
身体だけが。
違う。
頭の中では。
持ち上がる。
現実では。
持ち上がらない。
頭の中では。
間に合う。
現実では。
遅れる。
記憶では。
耐えられる。
現実では。
壊れる。
男は。
毎日。
毎秒。
自分の身体に。
裏切られている。
「……名前は」
康二が。
聞いた。
男が。
止まった。
「お前」
「名前は」
長い。
沈黙。
「……ない」
康二は。
目を閉じた。
また。
同じだった。
「番号は」
「零」
「それだけか」
「零」
男は。
笑った。
「俺は」
「零だ」
その笑顔を。
康二は。
一生。
忘れなかった。
◆
「見たのか」
一光は。
驚かなかった。
康二は。
兄の研究室へ。
無言で入った。
机の上へ。
資料を。
叩きつけた。
「見た」
「そうか」
「そうか?」
康二が。
笑った。
「それだけか?」
一光は。
モニターから。
目を離さない。
「何を期待している」
「説明」
「資料に書いてある」
「人間の話をしてんだよ!」
一光の指が。
止まった。
康二は。
机を。
殴った。
「なんで」
「あいつが」
「俺の顔してんだ」
「お前の遺伝情報を使用した」
「見りゃ分かる!」
「なら質問の意味がない」
「そういうところだよ!」
康二は。
兄を睨んだ。
「なんで」
「俺の身体に」
「他人の人生を入れた」
一光は。
初めて。
康二を見た。
「必要だった」
「何に」
「検証に」
「何の」
一光は。
少し。
黙った。
そして。
「記憶は」
言った。
「技術になり得るか」
康二の顔から。
表情が。
消えた。
「人間が」
「十年」
「二十年」
「三十年」
「積み重ねた技術」
「それを」
「一瞬で」
「別の肉体へ移植できるなら」
一光は。
椅子から。
立ち上がった。
「時間という条件を」
「排除できる」
「……条件?」
「そうだ」
一光は。
淡々と。
続けた。
「格闘技の比較には」
「常に」
「人間が混ざる」
「才能」
「体格」
「環境」
「時代」
「指導者」
「経験」
「それらが」
「結果を汚染する」
康二は。
兄を。
見ていた。
「だから」
一光は。
言った。
「分離する」
「格闘技と」
「人間を」
康二は。
しばらく。
何も。
言わなかった。
やがて。
小さく。
笑った。
「無理だよ」
一光の眉が。
わずかに。
動いた。
「何が」
「分けられない」
「技術は記憶として抽出できる」
「違う」
「実証段階にある」
「違うって」
康二は。
首を振った。
「格闘技と」
「人間は」
「分けられない」
「感傷だ」
「違う」
「科学的根拠がない」
「じゃあ」
康二は。
兄を。
指差した。
「零を見ろよ」
一光は。
黙った。
「あいつが」
「答えだろ」
「身体が不適合だった」
「違う!」
康二の声が。
研究室へ。
響いた。
「あいつは!」
「人間だったんだよ!」
沈黙。
一光は。
康二を。
見ていた。
「だから失敗した」
康二は。
息を。
止めた。
一光は。
何でもないことのように。
言った。
「人間だから」
「記憶との齟齬に耐えられなかった」
「なら」
「次は」
「器を合わせればいい」
康二の背筋を。
冷たいものが。
走った。
「……何を」
「言ってる」
一光は。
モニターを。
切り替えた。
そこに。
男が。
映った。
大きな身体。
異常な。
骨格。
康二は。
その男を。
知っていた。
世界で。
最も完成された。
レスラー。
そして。
その隣。
同じ。
骨格。
同じ。
筋肉。
同じ。
身体。
ただし。
目には。
何もない。
康二は。
ゆっくり。
モニターを。
見た。
「……カレノフ」
「そうだ」
一光が。
言った。
「零は」
「器が間違っていた」
「だから」
「修正した」
康二は。
言葉を。
失った。
一光は。
続けた。
「肉体を再現し」
「記憶を戻す」
「それなら」
「齟齬は起きない」
「……戻す?」
康二が。
呟いた。
一光は。
笑わなかった。
「本来あるべき場所へ」
「本来あるべき人生を」
「戻すだけだ」
康二は。
兄を。
見た。
その時。
初めて。
本当に。
怖いと思った。
この男は。
人を殺したいわけではない。
苦しめたいわけでもない。
憎んでいるわけでもない。
ただ。
正しいと。
思っている。
「……兄貴」
「何だ」
「カレノフに」
「何をする」
「予定通りだ」
一光は。
答えた。
「記憶を移植する」
「いつ」
「十九日後」
レイの。
十歳の誕生日。
その前日。
康二の。
拳が。
震えた。
「他の育成官もか」
一光は。
答えなかった。
それが。
答えだった。
「全員」
康二が。
言った。
「やるのか」
「必要な処置だ」
「本人たちは」
「知らない」
「同意は」
「必要ない」
康二は。
笑った。
「……そうか」
一光が。
康二を見る。
「何がおかしい」
「いや」
康二は。
首を振った。
「やっと」
「分かった」
「何が」
「俺さ」
康二は。
兄を見た。
「ずっと」
「兄貴のこと」
「頭がおかしいと」
「思ってた」
一光は。
何も言わない。
「でも」
「違ったわ」
康二は。
笑った。
「お前」
「頭が良すぎるんだ」
そして。
研究室を。
出ていった。
◆
康二は。
走った。
レイのところではない。
カレノフのところでもない。
自分の。
研究室。
端末を。
起動する。
全データ。
人格記録。
記憶保存。
神経情報。
康二は。
画面を。
見た。
自分が。
十年間。
研究してきたもの。
人間を。
理解するための。
研究。
兄は。
それを。
人間を。
作り直すために。
使おうとしている。
「……悪いな」
康二は。
誰にともなく。
言った。
レイ。
カレノフ。
零。
そして。
兄。
「俺」
「兄貴の弟だからさ」
笑った。
「俺も」
「結構」
「ひねくれてんだよ」
画面へ。
指を。
置いた。
新規ファイル。
人格記録。
対象。
自分。
康二は。
深く。
息を吐いた。
「全部」
「持っていけ」
記録。
開始。
そして。
同時に。
別の画面を。
開く。
育成官人格移植計画。
実施日。
十九日後。
康二は。
変更した。
十九日後。
ではない。
無効。
警告。
権限不足。
康二は。
笑った。
「だろうな」
なら。
別の方法。
研究施設。
電力。
神経接続。
保存サーバー。
移植装置。
ひとつずつ。
確認する。
止められないなら。
壊す。
壊せないなら。
遅らせる。
遅らせられないなら。
残す。
何かを。
誰かを。
人間のまま。
康二は。
画面を。
見た。
残り。
十九日。
兄が。
神を作るまで。
十九日。
レイが。
自分の手を離れるまで。
十九日。
康二は。
笑った。
「上等だよ」
「兄貴」
その日。
NULL PROJECTで。
最初の。
反乱が。
始まった。




