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NULL-最も公平で理不尽な監獄-  作者: gongon


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第四十四話 引き継ぎ

 レイは、今日も戻らなかった。


 食堂にも。


 居住区にも。


 誰もが眠る時間になっても。


 ただ、遠くから音だけが聞こえていた。


 床を踏む音。


 何かが地面に叩きつけられる音。


 そして。


 短い呼吸。


 イヴァンは、それを止めなかった。


 止める資格が、自分にあるのか。


 分からなかった。


 ――俺は仁王でいい。


 レイの言葉が、まだ耳に残っている。


 怒りしかない顔。


 悲しみすら、怒りに変えようとしている顔。


 あの目を。


 イヴァンは知っていた。


 いや。


 正確には。


 知っている気がした。


 自分の記憶なのか。


 自分ではない誰かの記憶なのか。


 今となっては、その境界すら曖昧だった。


 イヴァンは目を閉じた。


 そして。


 二十年前を思い出した。


     ◆


「お前だけは、人間にしてやる」


 康二はそう言った。


 目の前の赤ん坊には、その意味など分からない。


 透明な保育槽の中。


 小さな手が動いていた。


 番号は十四。


 それだけだった。


 名前はない。


 未来もない。


 何を好きになるのか。


 何を嫌いになるのか。


 誰を愛するのか。


 誰を憎むのか。


 それすら。


 研究計画の中では、必要のない情報だった。


 康二はガラスへ手を置いた。


「レイ」


 初めて。


 番号ではないものを与えた。


「お前はレイだ」


 赤ん坊が。


 偶然。


 康二の方を見た。


「……よろしくな」


 それから十年。


 康二は。


 父親になった。


     ◆


「遅い!」


「うるさい!」


 九歳のレイが、床に転がった。


 康二は腹を抱えて笑っていた。


「いや、お前さ。今のは絶対取れただろ」


「康二が変な投げ方するからだろ!」


「俺は格闘家じゃねぇよ」


「じゃあやるな!」


「遊びだろ、遊び」


 レイが立ち上がる。


 膝を擦りむいていた。


 康二はしゃがんだ。


「見せろ」


「いい」


「いいじゃない。見せろ」


「これくらい平気だ」


「そういう問題じゃねぇんだよ」


 康二は消毒液を取り出した。


 レイが嫌そうな顔をする。


「痛い?」


「痛くない」


「じゃあ塗るぞ」


「待て」


「痛くないんだろ」


「……待て」


 康二は笑った。


 レイは。


 強かった。


 まだ。


 何の格闘技も知らない。


 それでも。


 転べば立つ。


 負ければ悔しがる。


 できなければ。


 できるまでやる。


 康二は。


 それでいいと思っていた。


 強くなくていい。


 最強でなくていい。


 ただ。


 人間でいてくれれば。


 それでよかった。


     ◆


 十歳の誕生日まで。


 あと二十七日。


 扉が開いた。


 康二は。


 初めて。


 その男を見た。


 大きい。


 最初に思ったのは、それだった。


 異様なほどに発達した背中。


 太い首。


 長い腕。


 立っているだけなのに。


 床が。


 狭く見えた。


「……お前が」


 康二が言った。


「レイの育成官か」


 男は。


 答えなかった。


 康二を見る。


 ただ。


 それだけ。


「名前は?」


「ない」


 康二の眉が動いた。


「ない?」


「必要がない」


「誰が決めた」


「研究上、個体名は必要とされていない」


 康二は。


 しばらく男を見た。


「兄貴か」


 男は答えない。


 康二は。


 小さく舌打ちした。


「格闘技は」


「レスリング」


「それは知ってる」


 康二は椅子へ座った。


「そうじゃない」


 男を見る。


「お前は、何が好きだ」


 沈黙。


「食い物でもいい」


 沈黙。


「女でもいい」


 沈黙。


「音楽は」


 沈黙。


 康二は。


 頭を掻いた。


「……面倒くせぇな」


「質問の意図が理解できない」


「だろうな」


 康二は。


 笑った。


「じゃあ、まず」


 男を指差す。


「名字くらい持て」


「必要がない」


「俺が必要なんだよ」


「なぜ」


「呼びにくい」


 男は黙った。


 康二は。


 少し考えた。


「カレノフ」


 男の目が。


 わずかに動いた。


「今日から、お前はカレノフだ」


「……識別名か」


「違う」


「では何だ」


「名字」


「同じではないのか」


「全然違う」


 康二は笑った。


「識別番号は、他人がお前を管理するためのものだ」


「名字は」


 少し考え。


「まあ」


「お前が誰かと生きるためのものだ」


 男は。


 理解していない顔をしていた。


 それでいい。


 康二は思った。


「下の名前は」


 男が聞いた。


「知らん」


「……ないのか」


「自分で決めろ」


「なぜ」


「そこまで俺が決めたら」


 康二は。


 少しだけ笑った。


「兄貴と同じになる」


     ◆


 引き継ぎは。


 奇妙なものだった。


 康二が話すことのほとんどを。


 カレノフは。


 必要のない情報だと判断した。


「レイは、眠れない時に右を向く」


「レスリングに必要か」


「知らん」


「では、なぜ伝える」


「必要だからだ」


「何に」


「レイを育てるのに」


 カレノフは黙った。


「辛いものは嫌いだ」


「栄養管理には影響しない」


「でも嫌いだ」


「好き嫌いは矯正できる」


「するな」


「なぜ」


「嫌いだからだよ」


 カレノフは。


 また黙った。


「怒ってる時は、放っておくな」


「一人にした方が冷静になる可能性が高い」


「違う」


「何が」


「あいつは」


 康二は。


 少しだけ。


 声を落とした。


「一人にされるのが、一番嫌いだ」


 カレノフは。


 初めて。


 何も聞き返さなかった。


     ◆


 引き継ぎ開始から。


 七日目。


 康二は。


 一枚の資料を見つけた。


 本来。


 見ることのできない資料だった。


 研究区画。


 識別番号。


 零。


 康二は。


 最初。


 意味が分からなかった。


 No.01から。


 No.22。


 それが。


 NULL PROJECTの個体番号。


 零など。


 存在しない。


 ページをめくった。


 写真。


 康二の手が。


 止まった。


「……なんだよ」


 そこに。


 自分がいた。


 違う。


 自分ではない。


 同じ顔。


 同じ骨格。


 同じ遺伝情報。


 しかし。


 目だけが。


 違った。


 人間の目ではなかった。


 資料には。


 短い文字が並んでいた。


 人格定着。


 失敗。


 身体適合。


 不完全。


 神経負荷。


 異常。


 細胞寿命。


 著しい短縮。


 そして。


 移植元。


 康二は。


 その名前を知っていた。


 知らない者など。


 いなかった。


 世界で。


 最も完成された。


 レスラー。


「……兄貴」


 康二の手が。


 震えた。


 怒りではない。


 最初は。


 恐怖だった。


 自分の顔をした。


 知らない人間。


 自分の身体に。


 他人の人生を。


 押し込められ。


 壊れた。


 人間。


 その時。


 康二は。


 気づいた。


 資料の末尾。


 次期計画。


 育成官個体への。


 人格移植。


 康二は。


 ゆっくり。


 顔を上げた。


 ガラスの向こう。


 カレノフがいた。


 レイの資料を。


 読んでいる。


 眠れない時は。


 右を向く。


 辛いものが嫌い。


 怒っている時は。


 一人にするな。


 レスリングには。


 何の役にも立たない。


 そんな情報を。


 一つずつ。


 読んでいた。


「……ふざけんなよ」


 康二は。


 資料を握り潰した。


 初めて。


 理解した。


 兄が。


 何をしようとしているのか。


 No.0は。


 失敗ではなかった。


 兄にとっては。


 次へ進むための。


 データだった。


 そして。


 次は。


 カレノフだった。


 康二は。


 立ち上がった。


 十歳の誕生日まで。


 あと。


 二十日。


 レイを。


 渡す日まで。


 あと。


 二十日。


 そして。


 カレノフが。


 カレノフではなくなる日まで。


 あと。


 二十日。


「……させるかよ」


 康二は。


 誰にも聞こえない声で。


 呟いた。


「兄貴」


 その顔から。


 笑みが。


 消えた。


「今度だけは」


「お前の好きには、させねぇ」


 その日。


 康二は初めて。


 兄に。


 本気で。


 反旗を翻した。

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