第四十三話 鬼
第三回戦。
バトルロイヤル。
終了。
無機質な機械音声が。
施設全体へ。
その事実を告げた。
生き残った個体には。
休息期間が与えられる。
負傷の治療。
栄養の補給。
肉体の回復。
そして。
次の戦いへ向けた。
準備。
廊下には。
再び。
人の気配が戻っていた。
食堂から。
食器の触れ合う音。
訓練場から。
床を踏む音。
シャワー室から。
水の流れる音。
誰かが食べ。
誰かが眠り。
誰かが鍛える。
昨日までと。
何も変わらない。
少なくとも。
そう見えた。
食堂の隅。
バートルが。
黙々と。
食事をしていた。
大きな手。
太い指。
その指で。
小さな匙を持ち。
一定の速さで。
皿の中身を。
口へ運んでいる。
向かいでは。
ライが。
椅子へ。
深く腰掛けていた。
パンをちぎる。
口へ入れる。
水を飲む。
片脚だけが。
何度も。
小さく上下していた。
落ち着いているように。
見える。
だが。
止まらない。
少し離れた場所。
柔術も。
食事をしていた。
背筋を伸ばし。
一定の間隔で。
匙を動かす。
誰とも話さない。
誰も見ない。
レイに。
必ず殺すと。
宣言された。
その翌日だというのに。
顔色一つ。
変わっていなかった。
バートルが。
柔術を見る。
ほんの一瞬。
柔術も。
視線だけを返す。
ライは。
二人を見た。
そして。
何も言わず。
残ったパンを。
口へ押し込んだ。
三人とも。
変わらず。
日常を過ごしている。
違う。
変わらないことを。
選んでいた。
ここでは。
悲しんでも。
死者は戻らない。
怒っても。
次の戦いは消えない。
立ち止まった者から。
死ぬ。
だから。
食べる。
眠る。
鍛える。
来る日に。
備える。
それが。
この場所で。
生きるということだった。
ただ一人。
レイだけが。
その日常から。
消えていた。
食堂に来ない。
廊下にも。
姿を見せない。
共同訓練場にも。
いない。
部屋を訪ねても。
返事はなかった。
だが。
眠っているわけではない。
施設の最深部。
使われなくなった。
旧訓練区画。
照明の半分が。
壊れている。
壁には。
ひび。
床には。
古い傷。
そこで。
レイは。
一人。
動いていた。
「っ――!」
拳。
空気を裂く。
右。
左。
踏み込む。
肩。
肘。
掴む。
見えない相手の。
重心を奪う。
腰へ乗せる。
投げる。
違う。
途中で。
止める。
腕を取る。
関節。
極める直前で。
離す。
脚を払う。
拳。
首。
背後。
倒す。
離れる。
また。
構える。
呼吸が。
荒い。
汗が。
床へ落ちる。
何時間。
続けているのか。
分からない。
拳の皮は。
裂けている。
指の関節には。
血が滲んでいた。
それでも。
止まらない。
レイは。
自分の中にあるものを。
一つずつ。
確かめていた。
レスリング。
イヴァンから。
教わったもの。
相手の重心。
足の位置。
組んだ瞬間に。
主導権を奪う。
全身を。
一つにする。
投げる。
抑える。
そして。
リンから。
受け取ったもの。
大地を踏む。
脚。
腰。
背骨。
肩。
腕。
力を。
身体の中で。
途切れさせない。
拳を。
腕で打たない。
身体の。
最後の一点として。
使う。
柔術から。
見せつけられたもの。
腰を止める。
脚を絡める。
頭を制御する。
逃げる方向へ。
先回りする。
一つずつ。
相手の自由を。
消していく。
全部。
見た。
リンが。
命を使って。
見せた。
だから。
忘れることは。
許されない。
拳を打つ。
強い。
だが。
違う。
止める。
もう一度。
床を踏む。
脚。
腰。
背。
肩。
腕。
拳。
打つ。
鈍い音が。
壁へ響く。
それでも。
違う。
「くそ」
拳を。
壁へ。
叩きつける。
「違う」
自分の拳は。
リンへ届いた。
リンに。
勝った。
だが。
リンを。
守れなかった。
なら。
足りない。
勝つだけでは。
足りない。
強いだけでは。
足りない。
勝利は。
何も守らなかった。
レイは。
もう一度。
動く。
拳。
掴む。
崩す。
投げる。
極める。
絞める。
だが。
技として。
繋がらない。
打撃の後に。
投げをするのではない。
投げから。
関節へ移るのでもない。
もっと。
早く。
境目を。
消す。
拳を打つ。
相手が避ける。
その先を。
掴む。
違う。
避けさせるために。
拳を出す。
掴む。
相手が抵抗する。
その抵抗を。
投げへ使う。
違う。
投げるために。
掴んだのではない。
相手の立つ場所を。
消す。
関節を取る。
極めない。
動きを止める。
違う。
次に動く方向を。
選ばせる。
相手の選択。
自分の選択。
位置。
距離。
姿勢。
呼吸。
視線。
全部。
奪う。
全部。
決める。
相手が。
何かをする前に。
終わらせる。
誰も。
死なせないために。
誰にも。
何もさせない。
完全な。
形。
レイは。
それを求めていた。
NULL。
レイは。
その名前を知らない。
一光が。
自分の戦いを。
そう分類したことも。
知らない。
だが。
確かに。
何かが。
生まれている。
レスリングではない。
八極拳でもない。
柔術でもない。
全てを使う。
だが。
何にも従わない。
相手を倒すための。
技術ですらない。
状況そのものを。
完全に。
支配する。
もう。
誰も失わないために。
誰よりも。
強くなる。
そのはずだった。
だが。
目を閉じる。
黒い袋。
閉じられる。
リンの顔が。
消える。
扉の向こうへ。
運ばれていく。
そして。
柔術。
何事もなかったように。
立っている。
「……殺す」
レイの動きが。
変わった。
拳が。
鋭くなる。
狙う場所が。
変わる。
顎。
喉。
こめかみ。
後頭部。
肘。
膝。
首。
壊す場所。
命を。
奪う場所。
リンを守れなかった。
もう。
誰も失いたくない。
その願いの。
中心に。
柔術への。
殺意があった。
「違う」
レイは。
止まる。
息を吐く。
「違う」
殺すためではない。
守るため。
そう。
言い聞かせる。
だが。
また。
黒い袋が。
浮かぶ。
「殺す」
今度は。
否定しなかった。
レイは。
床を蹴る。
拳。
肩。
肘。
投げ。
絞め。
一つの動きが。
次へ。
違う。
繋がるのではない。
初めから。
一つ。
打つ。
崩す。
奪う。
壊す。
その境界が。
消えていく。
汗。
血。
床へ。
落ちる。
身体が。
悲鳴を上げる。
それでも。
止まらない。
その姿を。
暗い入口から。
見ている者がいた。
イヴァン。
腕を組み。
壁へ。
背を預けている。
しばらく。
声をかけなかった。
ただ。
見ていた。
以前とは。
違う。
速さでもない。
力でもない。
技の数でもない。
目的が。
違う。
かつてのレイは。
勝つために。
戦っていた。
知らない相手へ。
自分の力が。
どこまで通じるのか。
確かめるために。
今は。
違う。
何かを。
消すために。
動いている。
「レイ」
返事はない。
拳。
踏み込む。
投げ。
関節。
「もう十分だ」
止まらない。
「身体を休めろ」
「休めない」
動きながら。
答えた。
「休息期間だ」
「関係ない」
「筋肉も」
「骨も」
「神経も」
「回復しなければ」
「強くはならない」
「今のままじゃ」
レイは。
拳を打つ。
「また失う」
イヴァンの目が。
わずかに。
細くなった。
「リンのことか」
動きが。
止まった。
一瞬。
ほんの。
一瞬だけ。
「名前を出すな」
「なぜだ」
「今は」
レイは。
振り返らない。
「聞きたくない」
「忘れたいのか」
「違う!」
レイが。
振り向いた。
その目。
イヴァンは。
息を止めた。
怒り。
悲しみ。
殺意。
それだけではない。
もっと。
深い。
憎悪。
だが。
それは。
柔術へだけ。
向けられていない。
誰よりも。
レイ自身へ。
向けられていた。
「忘れるわけないだろ」
レイが言う。
「忘れたら」
「リンが死んだ意味が」
「なくなる」
「死んだ意味など」
イヴァンが言う。
「探すな」
「……何?」
「死は」
「意味を持って」
「起きるものではない」
「黙れ」
「リンは」
「お前へ何かを残すために」
「死んだのではない」
「黙れ」
「お前が」
「リンの死を背負い」
「自分を壊す必要はない」
「黙れ!」
レイの拳が。
壁へ。
叩き込まれた。
皮膚が裂ける。
血が。
飛ぶ。
「俺が弱かったからだ!」
声が。
旧訓練区画へ。
響く。
「俺が!」
「もっと早く!」
「もっと強ければ!」
「リンは死ななかった!」
「違う」
「違わない!」
レイは。
自分の胸を。
拳で叩く。
「俺は勝った!」
「リンに勝った!」
「それで何だ!」
「何も守れなかった!」
「目の前にいた!」
「手を伸ばせば!」
「届く場所にいた!」
「それなのに!」
声が。
裏返る。
「俺は!」
「見てることしか!」
「できなかった!」
イヴァンは。
何も言わなかった。
レイの目から。
涙は出ていない。
もう。
泣けないのか。
泣くことすら。
自分へ。
許していないのか。
「リンが言った」
レイは。
拳を見る。
「黙って見てろって」
「全部見せるって」
「だから見た」
「見てしまった」
柔術の腕。
脚。
腰。
リンの首。
力が。
抜けていく身体。
「全部」
レイの声が。
小さくなる。
「見た」
イヴァンは。
その顔を。
見ていた。
そして。
突然。
一人の男を。
思い出した。
◇
「仁王ってさ」
康二が。
突然。
言った。
何の話を。
していたのか。
イヴァンは。
もう覚えていない。
酒が。
入っていたのかもしれない。
康二は。
こういう男だった。
話の途中で。
全く違う話を始める。
「たぶん」
康二は。
楽しそうに笑った。
「阿修羅より喧嘩強いよ」
イヴァンは。
眉を寄せた。
「根拠は」
「ない」
「……」
「でもさ」
康二は笑う。
「あんな顔して」
「ずっと門に立ってるんだから」
「相当強いだろ」
「知らん」
「夢がないなあ」
康二は。
指を。
三本立てた。
「でも」
「阿修羅には」
「顔が三つある」
「怒ってる顔」
「泣いてる顔」
「笑ってる顔」
「全部」
「自分の顔として」
「持ってる」
「仁王は」
康二は。
自分の顔を。
わざと。
険しくした。
「こんな顔しか」
「できない」
イヴァンは。
黙っていた。
「だから」
「門番なんだよ」
「一番強くても」
「門から先へは」
「行けない」
「仏教の話か」
イヴァンが聞いた。
「俺の話」
康二は。
平然と答えた。
「適当だよ」
「……くだらん」
「だろ?」
康二は。
笑った。
だが。
少しだけ。
真面目な顔になった。
「でもさ」
「怒りしか」
「使えない人間って」
指を。
一つだけ。
立てる。
「強くても」
「守ることしか」
「できないんじゃないかな」
イヴァンは。
康二を見る。
「門の外で」
「ずっと」
「敵を殴り続ける」
「それは」
「強いよ」
「たぶん」
「一番強い」
康二は。
少しだけ。
笑った。
「でも」
「中には入れない」
「泣いてる奴の隣に」
「座ることも」
「嬉しい時に」
「一緒に笑うことも」
「できない」
「だから」
「阿修羅には」
「顔が三つあるんじゃない?」
「適当なのだろう」
「適当だよ」
康二は。
また笑った。
「でも」
「俺は」
「三つある方がいいな」
◇
なぜ。
今。
思い出した。
イヴァンには。
分からなかった。
何年も。
忘れていた。
くだらない。
適当な。
康二の話。
だが。
今。
目の前にいる。
レイを見て。
思い出した。
顔が。
一つしかない。
怒り。
悲しみも。
寂しさも。
恐怖も。
全部。
怒りへ。
変えようとしている。
「レイ」
イヴァンが言った。
「何だ」
「昔」
「康二が」
「妙な話をした」
レイの目が。
わずかに。
動いた。
「仁王と」
「阿修羅の話だ」
「今」
「そんな話を」
「聞く気はない」
「聞け」
イヴァンの声が。
低くなる。
師匠の声。
レイが。
黙る。
「康二は言った」
「仁王は」
「阿修羅より強い」
「喧嘩なら」
「おそらく」
「仁王が勝つ」
「……何の話だ」
「だが」
イヴァンは。
続ける。
「仁王には」
「怒った顔しかない」
「阿修羅には」
「三つの顔がある」
「怒り」
「悲しみ」
「喜び」
「全てを」
「自分の顔として」
「持っている」
レイは。
黙っている。
「だから」
「仁王は」
「門番なのだと」
「どれほど強くても」
「門から先へは」
「行けない」
「……」
「康二の」
「適当な話だ」
「本人も」
「そう言っていた」
レイは。
拳を握った。
「それが」
「何だ」
イヴァンは。
レイを見る。
「今のお前には」
言う。
「顔が一つしかない」
沈黙。
レイの目が。
鋭くなる。
「怒りを」
「捨てろとは言わない」
「柔術を憎むなら」
「憎め」
「リンを失って」
「悲しいなら」
「悲しめ」
「怖かったなら」
「怖かったと認めろ」
「そして」
「リンと出会えて」
「嬉しかったなら」
レイの拳が。
震えた。
「それも」
「捨てるな」
「黙れ」
「全て」
「お前の顔だ」
「黙れ」
「一つを」
「選ぶな」
「黙れ!」
レイが。
イヴァンを睨む。
「何が分かる!」
「泣けば!」
「リンが戻るのか!」
「笑えば!」
「次は守れるのか!」
「悲しいって認めれば!」
「強くなれるのか!」
「ならない」
イヴァンは。
即答した。
レイが。
止まる。
「悲しんでも」
「強くはならない」
「泣いても」
「死者は戻らない」
「笑っても」
「次の敵は弱くならない」
「なら!」
「だが」
イヴァンが。
一歩。
前へ出る。
「それを捨てれば」
「お前は」
「お前でなくなる」
レイの目が。
揺れた。
「強さだけを」
「残した人間は」
「強い」
「おそらく」
「誰よりも」
「だが」
「それは」
「何を守る」
「……」
「守るものを」
「全て捨てて」
「何を守る」
レイは。
何も言わなかった。
長い。
沈黙。
やがて。
レイが。
顔を上げる。
「俺は」
低い声。
「仁王でいい」
イヴァンの目が。
細くなる。
「レイ」
「門番でいい」
レイは。
拳を握る。
「中に」
「入れなくていい」
「笑えなくていい」
「泣けなくていい」
「誰かの隣に」
「座れなくてもいい」
拳から。
血が落ちる。
「門の向こうに」
「誰かがいるなら」
「俺は」
「外で」
「全部殺す」
イヴァンは。
何も言えなかった。
「俺は」
レイが。
構える。
「仁王でいい」
その言葉を。
吐き捨てる。
かつて。
誰かが。
同じように。
吐き捨てたことなど。
レイは知らない。
「強くなる」
床を。
踏む。
「もう」
拳。
「誰も」
掴む。
「失わない」
崩す。
「そのためなら」
投げる。
「鬼にでも」
極める。
「なる」
レイは。
再び。
動き始めた。
拳。
投げ。
関節。
絞め。
境界が。
消えていく。
技が。
技ではなくなる。
目的だけが。
残っていく。
制圧。
支配。
排除。
守るために。
全てを。
無力化する。
NULL。
その空白へ。
今。
一つの顔が。
刻まれようとしていた。
怒り。
イヴァンは。
暗闇の中で。
息子の背中を。
見つめていた。
止めるべきか。
見守るべきか。
父親として。
師匠として。
答えは。
出なかった。
ただ。
康二の声だけが。
耳の奥に。
残っていた。
『俺は』
『三つある方がいいな』
レイの拳が。
空気を裂く。
その目には。
殺意。
そして。
何よりも。
自分自身の弱さへの。
憎悪。
それら全てを。
一つの顔へ。
押し込めながら。
レイは。
強くなろうとしていた。
誰も。
失わないために。
誰にも。
近づけないものへ。
なろうとしていた。
門の前で。
たった一人。
全てを殺す。
鬼に。




