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NULL-最も公平で理不尽な監獄-  作者: gongon


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43/49

第四十三話 鬼

 第三回戦。


 バトルロイヤル。


 終了。


 無機質な機械音声が。


 施設全体へ。


 その事実を告げた。


 生き残った個体には。


 休息期間が与えられる。


 負傷の治療。


 栄養の補給。


 肉体の回復。


 そして。


 次の戦いへ向けた。


 準備。


 廊下には。


 再び。


 人の気配が戻っていた。


 食堂から。


 食器の触れ合う音。


 訓練場から。


 床を踏む音。


 シャワー室から。


 水の流れる音。


 誰かが食べ。


 誰かが眠り。


 誰かが鍛える。


 昨日までと。


 何も変わらない。


 少なくとも。


 そう見えた。


 食堂の隅。


 バートルが。


 黙々と。


 食事をしていた。


 大きな手。


 太い指。


 その指で。


 小さな匙を持ち。


 一定の速さで。


 皿の中身を。


 口へ運んでいる。


 向かいでは。


 ライが。


 椅子へ。


 深く腰掛けていた。


 パンをちぎる。


 口へ入れる。


 水を飲む。


 片脚だけが。


 何度も。


 小さく上下していた。


 落ち着いているように。


 見える。


 だが。


 止まらない。


 少し離れた場所。


 柔術も。


 食事をしていた。


 背筋を伸ばし。


 一定の間隔で。


 匙を動かす。


 誰とも話さない。


 誰も見ない。


 レイに。


 必ず殺すと。


 宣言された。


 その翌日だというのに。


 顔色一つ。


 変わっていなかった。


 バートルが。


 柔術を見る。


 ほんの一瞬。


 柔術も。


 視線だけを返す。


 ライは。


 二人を見た。


 そして。


 何も言わず。


 残ったパンを。


 口へ押し込んだ。


 三人とも。


 変わらず。


 日常を過ごしている。


 違う。


 変わらないことを。


 選んでいた。


 ここでは。


 悲しんでも。


 死者は戻らない。


 怒っても。


 次の戦いは消えない。


 立ち止まった者から。


 死ぬ。


 だから。


 食べる。


 眠る。


 鍛える。


 来る日に。


 備える。


 それが。


 この場所で。


 生きるということだった。


 ただ一人。


 レイだけが。


 その日常から。


 消えていた。


 食堂に来ない。


 廊下にも。


 姿を見せない。


 共同訓練場にも。


 いない。


 部屋を訪ねても。


 返事はなかった。


 だが。


 眠っているわけではない。


 施設の最深部。


 使われなくなった。


 旧訓練区画。


 照明の半分が。


 壊れている。


 壁には。


 ひび。


 床には。


 古い傷。


 そこで。


 レイは。


 一人。


 動いていた。


「っ――!」


 拳。


 空気を裂く。


 右。


 左。


 踏み込む。


 肩。


 肘。


 掴む。


 見えない相手の。


 重心を奪う。


 腰へ乗せる。


 投げる。


 違う。


 途中で。


 止める。


 腕を取る。


 関節。


 極める直前で。


 離す。


 脚を払う。


 拳。


 首。


 背後。


 倒す。


 離れる。


 また。


 構える。


 呼吸が。


 荒い。


 汗が。


 床へ落ちる。


 何時間。


 続けているのか。


 分からない。


 拳の皮は。


 裂けている。


 指の関節には。


 血が滲んでいた。


 それでも。


 止まらない。


 レイは。


 自分の中にあるものを。


 一つずつ。


 確かめていた。


 レスリング。


 イヴァンから。


 教わったもの。


 相手の重心。


 足の位置。


 組んだ瞬間に。


 主導権を奪う。


 全身を。


 一つにする。


 投げる。


 抑える。


 そして。


 リンから。


 受け取ったもの。


 大地を踏む。


 脚。


 腰。


 背骨。


 肩。


 腕。


 力を。


 身体の中で。


 途切れさせない。


 拳を。


 腕で打たない。


 身体の。


 最後の一点として。


 使う。


 柔術から。


 見せつけられたもの。


 腰を止める。


 脚を絡める。


 頭を制御する。


 逃げる方向へ。


 先回りする。


 一つずつ。


 相手の自由を。


 消していく。


 全部。


 見た。


 リンが。


 命を使って。


 見せた。


 だから。


 忘れることは。


 許されない。


 拳を打つ。


 強い。


 だが。


 違う。


 止める。


 もう一度。


 床を踏む。


 脚。


 腰。


 背。


 肩。


 腕。


 拳。


 打つ。


 鈍い音が。


 壁へ響く。


 それでも。


 違う。


「くそ」


 拳を。


 壁へ。


 叩きつける。


「違う」


 自分の拳は。


 リンへ届いた。


 リンに。


 勝った。


 だが。


 リンを。


 守れなかった。


 なら。


 足りない。


 勝つだけでは。


 足りない。


 強いだけでは。


 足りない。


 勝利は。


 何も守らなかった。


 レイは。


 もう一度。


 動く。


 拳。


 掴む。


 崩す。


 投げる。


 極める。


 絞める。


 だが。


 技として。


 繋がらない。


 打撃の後に。


 投げをするのではない。


 投げから。


 関節へ移るのでもない。


 もっと。


 早く。


 境目を。


 消す。


 拳を打つ。


 相手が避ける。


 その先を。


 掴む。


 違う。


 避けさせるために。


 拳を出す。


 掴む。


 相手が抵抗する。


 その抵抗を。


 投げへ使う。


 違う。


 投げるために。


 掴んだのではない。


 相手の立つ場所を。


 消す。


 関節を取る。


 極めない。


 動きを止める。


 違う。


 次に動く方向を。


 選ばせる。


 相手の選択。


 自分の選択。


 位置。


 距離。


 姿勢。


 呼吸。


 視線。


 全部。


 奪う。


 全部。


 決める。


 相手が。


 何かをする前に。


 終わらせる。


 誰も。


 死なせないために。


 誰にも。


 何もさせない。


 完全な。


 形。


 レイは。


 それを求めていた。


 NULL。


 レイは。


 その名前を知らない。


 一光が。


 自分の戦いを。


 そう分類したことも。


 知らない。


 だが。


 確かに。


 何かが。


 生まれている。


 レスリングではない。


 八極拳でもない。


 柔術でもない。


 全てを使う。


 だが。


 何にも従わない。


 相手を倒すための。


 技術ですらない。


 状況そのものを。


 完全に。


 支配する。


 もう。


 誰も失わないために。


 誰よりも。


 強くなる。


 そのはずだった。


 だが。


 目を閉じる。


 黒い袋。


 閉じられる。


 リンの顔が。


 消える。


 扉の向こうへ。


 運ばれていく。


 そして。


 柔術。


 何事もなかったように。


 立っている。


「……殺す」


 レイの動きが。


 変わった。


 拳が。


 鋭くなる。


 狙う場所が。


 変わる。


 顎。


 喉。


 こめかみ。


 後頭部。


 肘。


 膝。


 首。


 壊す場所。


 命を。


 奪う場所。


 リンを守れなかった。


 もう。


 誰も失いたくない。


 その願いの。


 中心に。


 柔術への。


 殺意があった。


「違う」


 レイは。


 止まる。


 息を吐く。


「違う」


 殺すためではない。


 守るため。


 そう。


 言い聞かせる。


 だが。


 また。


 黒い袋が。


 浮かぶ。


「殺す」


 今度は。


 否定しなかった。


 レイは。


 床を蹴る。


 拳。


 肩。


 肘。


 投げ。


 絞め。


 一つの動きが。


 次へ。


 違う。


 繋がるのではない。


 初めから。


 一つ。


 打つ。


 崩す。


 奪う。


 壊す。


 その境界が。


 消えていく。


 汗。


 血。


 床へ。


 落ちる。


 身体が。


 悲鳴を上げる。


 それでも。


 止まらない。


 その姿を。


 暗い入口から。


 見ている者がいた。


 イヴァン。


 腕を組み。


 壁へ。


 背を預けている。


 しばらく。


 声をかけなかった。


 ただ。


 見ていた。


 以前とは。


 違う。


 速さでもない。


 力でもない。


 技の数でもない。


 目的が。


 違う。


 かつてのレイは。


 勝つために。


 戦っていた。


 知らない相手へ。


 自分の力が。


 どこまで通じるのか。


 確かめるために。


 今は。


 違う。


 何かを。


 消すために。


 動いている。


「レイ」


 返事はない。


 拳。


 踏み込む。


 投げ。


 関節。


「もう十分だ」


 止まらない。


「身体を休めろ」


「休めない」


 動きながら。


 答えた。


「休息期間だ」


「関係ない」


「筋肉も」


「骨も」


「神経も」


「回復しなければ」


「強くはならない」


「今のままじゃ」


 レイは。


 拳を打つ。


「また失う」


 イヴァンの目が。


 わずかに。


 細くなった。


「リンのことか」


 動きが。


 止まった。


 一瞬。


 ほんの。


 一瞬だけ。


「名前を出すな」


「なぜだ」


「今は」


 レイは。


 振り返らない。


「聞きたくない」


「忘れたいのか」


「違う!」


 レイが。


 振り向いた。


 その目。


 イヴァンは。


 息を止めた。


 怒り。


 悲しみ。


 殺意。


 それだけではない。


 もっと。


 深い。


 憎悪。


 だが。


 それは。


 柔術へだけ。


 向けられていない。


 誰よりも。


 レイ自身へ。


 向けられていた。


「忘れるわけないだろ」


 レイが言う。


「忘れたら」


「リンが死んだ意味が」


「なくなる」


「死んだ意味など」


 イヴァンが言う。


「探すな」


「……何?」


「死は」


「意味を持って」


「起きるものではない」


「黙れ」


「リンは」


「お前へ何かを残すために」


「死んだのではない」


「黙れ」


「お前が」


「リンの死を背負い」


「自分を壊す必要はない」


「黙れ!」


 レイの拳が。


 壁へ。


 叩き込まれた。


 皮膚が裂ける。


 血が。


 飛ぶ。


「俺が弱かったからだ!」


 声が。


 旧訓練区画へ。


 響く。


「俺が!」


「もっと早く!」


「もっと強ければ!」


「リンは死ななかった!」


「違う」


「違わない!」


 レイは。


 自分の胸を。


 拳で叩く。


「俺は勝った!」


「リンに勝った!」


「それで何だ!」


「何も守れなかった!」


「目の前にいた!」


「手を伸ばせば!」


「届く場所にいた!」


「それなのに!」


 声が。


 裏返る。


「俺は!」


「見てることしか!」


「できなかった!」


 イヴァンは。


 何も言わなかった。


 レイの目から。


 涙は出ていない。


 もう。


 泣けないのか。


 泣くことすら。


 自分へ。


 許していないのか。


「リンが言った」


 レイは。


 拳を見る。


「黙って見てろって」


「全部見せるって」


「だから見た」


「見てしまった」


 柔術の腕。


 脚。


 腰。


 リンの首。


 力が。


 抜けていく身体。


「全部」


 レイの声が。


 小さくなる。


「見た」


 イヴァンは。


 その顔を。


 見ていた。


 そして。


 突然。


 一人の男を。


 思い出した。


          ◇


「仁王ってさ」


 康二が。


 突然。


 言った。


 何の話を。


 していたのか。


 イヴァンは。


 もう覚えていない。


 酒が。


 入っていたのかもしれない。


 康二は。


 こういう男だった。


 話の途中で。


 全く違う話を始める。


「たぶん」


 康二は。


 楽しそうに笑った。


「阿修羅より喧嘩強いよ」


 イヴァンは。


 眉を寄せた。


「根拠は」


「ない」


「……」


「でもさ」


 康二は笑う。


「あんな顔して」


「ずっと門に立ってるんだから」


「相当強いだろ」


「知らん」


「夢がないなあ」


 康二は。


 指を。


 三本立てた。


「でも」


「阿修羅には」


「顔が三つある」


「怒ってる顔」


「泣いてる顔」


「笑ってる顔」


「全部」


「自分の顔として」


「持ってる」


「仁王は」


 康二は。


 自分の顔を。


 わざと。


 険しくした。


「こんな顔しか」


「できない」


 イヴァンは。


 黙っていた。


「だから」


「門番なんだよ」


「一番強くても」


「門から先へは」


「行けない」


「仏教の話か」


 イヴァンが聞いた。


「俺の話」


 康二は。


 平然と答えた。


「適当だよ」


「……くだらん」


「だろ?」


 康二は。


 笑った。


 だが。


 少しだけ。


 真面目な顔になった。


「でもさ」


「怒りしか」


「使えない人間って」


 指を。


 一つだけ。


 立てる。


「強くても」


「守ることしか」


「できないんじゃないかな」


 イヴァンは。


 康二を見る。


「門の外で」


「ずっと」


「敵を殴り続ける」


「それは」


「強いよ」


「たぶん」


「一番強い」


 康二は。


 少しだけ。


 笑った。


「でも」


「中には入れない」


「泣いてる奴の隣に」


「座ることも」


「嬉しい時に」


「一緒に笑うことも」


「できない」


「だから」


「阿修羅には」


「顔が三つあるんじゃない?」


「適当なのだろう」


「適当だよ」


 康二は。


 また笑った。


「でも」


「俺は」


「三つある方がいいな」


          ◇


 なぜ。


 今。


 思い出した。


 イヴァンには。


 分からなかった。


 何年も。


 忘れていた。


 くだらない。


 適当な。


 康二の話。


 だが。


 今。


 目の前にいる。


 レイを見て。


 思い出した。


 顔が。


 一つしかない。


 怒り。


 悲しみも。


 寂しさも。


 恐怖も。


 全部。


 怒りへ。


 変えようとしている。


「レイ」


 イヴァンが言った。


「何だ」


「昔」


「康二が」


「妙な話をした」


 レイの目が。


 わずかに。


 動いた。


「仁王と」


「阿修羅の話だ」


「今」


「そんな話を」


「聞く気はない」


「聞け」


 イヴァンの声が。


 低くなる。


 師匠の声。


 レイが。


 黙る。


「康二は言った」


「仁王は」


「阿修羅より強い」


「喧嘩なら」


「おそらく」


「仁王が勝つ」


「……何の話だ」


「だが」


 イヴァンは。


 続ける。


「仁王には」


「怒った顔しかない」


「阿修羅には」


「三つの顔がある」


「怒り」


「悲しみ」


「喜び」


「全てを」


「自分の顔として」


「持っている」


 レイは。


 黙っている。


「だから」


「仁王は」


「門番なのだと」


「どれほど強くても」


「門から先へは」


「行けない」


「……」


「康二の」


「適当な話だ」


「本人も」


「そう言っていた」


 レイは。


 拳を握った。


「それが」


「何だ」


 イヴァンは。


 レイを見る。


「今のお前には」


 言う。


「顔が一つしかない」


 沈黙。


 レイの目が。


 鋭くなる。


「怒りを」


「捨てろとは言わない」


「柔術を憎むなら」


「憎め」


「リンを失って」


「悲しいなら」


「悲しめ」


「怖かったなら」


「怖かったと認めろ」


「そして」


「リンと出会えて」


「嬉しかったなら」


 レイの拳が。


 震えた。


「それも」


「捨てるな」


「黙れ」


「全て」


「お前の顔だ」


「黙れ」


「一つを」


「選ぶな」


「黙れ!」


 レイが。


 イヴァンを睨む。


「何が分かる!」


「泣けば!」


「リンが戻るのか!」


「笑えば!」


「次は守れるのか!」


「悲しいって認めれば!」


「強くなれるのか!」


「ならない」


 イヴァンは。


 即答した。


 レイが。


 止まる。


「悲しんでも」


「強くはならない」


「泣いても」


「死者は戻らない」


「笑っても」


「次の敵は弱くならない」


「なら!」


「だが」


 イヴァンが。


 一歩。


 前へ出る。


「それを捨てれば」


「お前は」


「お前でなくなる」


 レイの目が。


 揺れた。


「強さだけを」


「残した人間は」


「強い」


「おそらく」


「誰よりも」


「だが」


「それは」


「何を守る」


「……」


「守るものを」


「全て捨てて」


「何を守る」


 レイは。


 何も言わなかった。


 長い。


 沈黙。


 やがて。


 レイが。


 顔を上げる。


「俺は」


 低い声。


「仁王でいい」


 イヴァンの目が。


 細くなる。


「レイ」


「門番でいい」


 レイは。


 拳を握る。


「中に」


「入れなくていい」


「笑えなくていい」


「泣けなくていい」


「誰かの隣に」


「座れなくてもいい」


 拳から。


 血が落ちる。


「門の向こうに」


「誰かがいるなら」


「俺は」


「外で」


「全部殺す」


 イヴァンは。


 何も言えなかった。


「俺は」


 レイが。


 構える。


「仁王でいい」


 その言葉を。


 吐き捨てる。


 かつて。


 誰かが。


 同じように。


 吐き捨てたことなど。


 レイは知らない。


「強くなる」


 床を。


 踏む。


「もう」


 拳。


「誰も」


 掴む。


「失わない」


 崩す。


「そのためなら」


 投げる。


「鬼にでも」


 極める。


「なる」


 レイは。


 再び。


 動き始めた。


 拳。


 投げ。


 関節。


 絞め。


 境界が。


 消えていく。


 技が。


 技ではなくなる。


 目的だけが。


 残っていく。


 制圧。


 支配。


 排除。


 守るために。


 全てを。


 無力化する。


 NULL。


 その空白へ。


 今。


 一つの顔が。


 刻まれようとしていた。


 怒り。


 イヴァンは。


 暗闇の中で。


 息子の背中を。


 見つめていた。


 止めるべきか。


 見守るべきか。


 父親として。


 師匠として。


 答えは。


 出なかった。


 ただ。


 康二の声だけが。


 耳の奥に。


 残っていた。


『俺は』


『三つある方がいいな』


 レイの拳が。


 空気を裂く。


 その目には。


 殺意。


 そして。


 何よりも。


 自分自身の弱さへの。


 憎悪。


 それら全てを。


 一つの顔へ。


 押し込めながら。


 レイは。


 強くなろうとしていた。


 誰も。


 失わないために。


 誰にも。


 近づけないものへ。


 なろうとしていた。


 門の前で。


 たった一人。


 全てを殺す。


 鬼に。

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